ビキニ・デーを機に服部学さんを偲ぶ -ひたすら核兵器廃絶のために生きた生涯-
- 2012年 2月 27日
- 評論・紹介・意見
- 原水爆禁止運動岩垂 弘服部学
3月1日は「ビキニ・デー」。58年前の1954年の3月1日未明に太平洋のマーシャル群島ビキニ環礁で米国による大規模な水爆実験が行われ、静岡県焼津港所属のマグロ漁船・第五福竜丸の乗組員と周辺の島々の島民らが実験によって生じた放射性降下物「死の灰」を浴び、被曝した事件を忘れまいとして反核団体によって設定された記念日である。今年も、この日を記念してさまざまな行事が予定されているが、私は、この日にからんで1人の物理学者を偲ぼうと思う。さる1月10日に85歳で亡くなった服部学さんだ。
ビキニ環礁における米国の水爆実験は、第2次世界大戦後の米ソ両国による激烈な核兵器開発競争の中で行われた。実験の爆発力はTNT火薬に換算して15~22メガトン、広島型原爆の750~1150倍とされ、それまでの最大規模の核実験だった。
この時、実験地から東北東150キロ、航行禁止区域から同35キロで操業中だった第五福竜丸の乗組員23人が「死の灰」を浴び、帰港後、急性放射能症と診断されて1年余の入院を余儀なくさせられる。この間、無線長の久保山愛吉さんが死亡、水爆による世界最初の犠牲者となった。実験地から東200~300キロの島々に暮らしていた住民243人(うち胎内4人)と、米国の観測班員28人も被曝した。
この事件は、全世界に衝撃を与え、日本では事件直後から、東京都世田谷区の主婦たちによる「水爆禁止署名」が始まり、これが全国に波及し、こうした国民的な盛り上がりを背景に翌1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。同年7月には、バートランド・ラッセル、アルバート・アインシュタイン、湯川秀樹ら世界的な科学者11人が「核兵器が人類の存続をおびやかしているという事実を考慮せよ」との「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表した。
ビキニ被災事件は、日本人にとっては広島原爆、長崎原爆に次ぐ、いわば「第3の核被害」と言える。それに、この事件は、今なお続く原水爆禁止運動の起点となった。それだけに、3月1日には、事件に思いをはせ、核兵器廃絶のための努力を誓うさまざまな行事が繰り広げられてきた。
服部さんは仙台市の生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。同大学助手を経て立教大学に移り、助教授、教授を務めた。その間、同大学原子力研究所(神奈川県横須賀市)に勤務。服部さんが横須賀市に住むようになったのもそのことと関係しているようだ。
服部さんが原水爆禁止運動に参加するのは、1956年の第2回原水爆禁止世界大会からだ。服部さんには核兵器に関する著作がたくさんあるが、自分が運動にかかわるようになった動機について触れたものはほとんど見あたらない。おそらく唯一と思われるのが、中林貞男・日本生活協同組合連合会会長との対談の中での発言だ。1980年に同連合会から刊行された『核兵器の脅威を語る』に、こうしたやりとりがある。
中林「(1945年の)5月24、25日の東京山の手の大空襲のあと、私は世田谷代田の自宅から、神田神保町の事務所まで歩いて通ったんですが、青山通りは今のような大きな通りではなて、もっと狭く、通りの両側には死体が累々としていました。私はあまりにもむごたらしい光景を見て2度とこういうことはあってはならないと思いました」
服部「私はそのころ学生で東京の小石川に住んでおりました。大空襲の翌朝、まだ焼け跡のくすぶっているところを歩いていますと、道の脇のドブのところに、三つか四つぐらいでしょうか、子どもさんの死体が焼けてふくれ上がって転がっていたのが実は私が生まれて初めて見た死体だったわけです。その印象というのは今でも忘れられないですね。悲惨な光景でした」
「そのあとで、広島、長崎に原爆が落とされたわけです。私は物理の学生で、原子核物理学の勉強をしたいと思っていたんです。その原子核物理学の知識が、最初にまさか原子爆弾という形で出てくるとは夢にも思っていませんでしたし、それが現実のものになったのは、私個人にとってはものすごいショックでした」
「戦争が終わっても、せっかく人類が解放した原子力の知識が、ますます秘密にされ、そして原子爆弾で政治が動くようになってくるのを見ていて、いても立ってもいられなくなり、なんとしてもこの原子爆弾をなくさなければいけないというふうに感じたのが、平和の問題を考え始めるそもそものきっかけでした。たまたま私は卒業実験のときに、長崎に落とされた原子爆弾の、今でいうと死の灰の放射能の分析の一部をお手伝いしたものですから、それからずーっと死の灰との腐れ縁が長く続いてきまして、原水爆禁止運動にも足を踏み入れるようになってきたんです」
服部さんを原水爆禁止運動に駆り立てたのは、まず、東京大空襲で見た戦争の悲惨さだったということだろう。そして、その後、核の専門家として原子爆弾のもつ残酷さ、非人道性、ひいては核戦争の恐ろしさを知るにつれ、 ますます運動に傾斜していったということだろう。
服部さんが「核兵器をつくったのは科学者だ。だから、科学者はその廃絶のため努力する責任がある」と語るのを聞いたことがある。科学者がつくり出した核兵器が、人類を絶滅させる威力を持つまでに巨大化したことに、服部さんは科学者の1人として責任を感じていたようだ。
「核兵器は人間がつくり出したものだから、人間の力で禁止できないはずがない」が口ぐせだった。それを耳にする度に、いかにも科学者らしい信念の持ち主だな、と私は思ったものだ。
服部さんが関わった運動は多岐にわたる。まず、夏の原水爆禁止世界大会には毎年欠かさず参加してきたし、1977年に内外のNGO(非政府組織)が中心となって東京・広島・長崎で「被爆問題国際シンポジウム」を開いた折りは、その会計責任者を務めた。
1982年にニューヨークの国連本部で開催された第2回国連軍縮特別総会に向けた運動でも、ユニークな運動を編みだし、注目を集めた。陸井三郎さん(評論家)とともにイニシアチブを発揮した一般市民向けの連続討論会だ。「忘れまいぞ核問題討論会」と名づけられ、東京で13回にわたって開かれた。講師は核問題や軍縮問題の専門家で、毎回、多数の市民を集めた。
第五福竜丸の保存にも力を尽くし、同船が都立の展示館に収められると、そこを管理・運営する第五福竜丸平和協会の理事を1989年から14年間務めた。
日本の原子力政策についても、積極的な発言を続けた。とりわけ「日本の原子力政策は『民主・自主・公開』の原子力平和利用3原則から外れてはならない」と強調してやまなかった。
服部さんが最も長期にわたって取り組んだ具体的な課題は、米国の原子力艦艇の日本寄港反対だろう。米原潜「シードラゴン号」が初めて佐世保に入港したのは1964年11月12日だが、服部さんは「原潜は強い放射能を放出する恐れがある」として寄港に強く反対した。66年5月30日には米原潜「スヌーク号」が横須賀に入港し、その後、原潜の日本寄港が常態化する。服部さんはその度に原潜の危険性を訴え、原潜寄港反対運動の理論的リーダーとなる。
1989年、服部さんは横須賀の運動仲間と「NEPAの会」を結成する。NEPAとは、米国の環境保護法のことで、この法律によれば、米国政府が事を始めるときは、それが環境に負荷を与えないかアセスメントをする必要がある。ところが、米軍横須賀基地に関してはこれをやっていない。明らかに法律違反。だから、米海軍長官を同法違反で訴えようというわけである。91年6月にワシントン連邦地裁に提訴。が、NEPAは域外には適用できないと、門前払い。でも、この提訴はユニークな運動として関心を集めた。
まだある。横須賀の米軍基地には空母キテイホークが配備されていたが、同艦が引退し、2008年9月からは原子力空母ジョージ・ワシントンの母港となった。これにも、服部さんは横須賀市民とともに反対運動を繰り広げてきた。
昔も今もそうだが、日本では、社会運動に参加する学者・研究者は稀れだ。概してアカデミズムという「象牙の塔」から外に出ることはない。が、服部さんは核兵器問題で論陣を張ったばかりでなく、気軽に原水爆禁止運動の現場に出かけていった。大会や集会で発言し、デモの先頭にも立った。その点で、一般の科学者とは全く異なっていた。
しかも、運動の中では一人の市民として行動した。横須賀で服部さんと一緒に行動してきた藤田秀雄・立正大学名誉教授(平和教育、横須賀市在住)が話す。「いばったり、えらぶることがなかったですね。市民の感性を持っていたということでしょう」
藤田教授によると、服部さんや藤田さんが加わるグループが横須賀市内で平和講座を開いたことがあった。会場は建物の2階。受講者の中に障がい者いた。すると、服部さんはその人を背負って階段を登り、会場まで案内したという。
服部さんは10数年前に脳梗塞を患い、外出がかなわなくなっていたが、それでも核問題への関心は衰えることはなかった。
お別れ会は1月13日、横須賀市の美松苑会館で行われた。主催は妻の翠さん。友人、平和運動関係者ら約60人が参じた。献花の後、子息のあいさつがあった。「父は平和運動、反核運動を生き生きとやっていました。おだてられると、いい気になるところがあるので、ますますその気になり、喜んでやっていました。みなさんに愛されていることが、生きるエネルギーになっていました」
服部さんの在りし日の日々が、目に浮かぶようだった。
ビキニ・デーでは、こんな科学者がいたことを記憶にとどめたい。
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