年金の資産はなぜ消えたのか ―資産運用OBの眼からみると―
- 2012年 3月 1日
- 評論・紹介・意見
- AIJ投資顧問半澤健市
AIJという資産運用会社から2100億円の年金資産が消えた。
運用の老兵として発言したい。私事ながら必要な範囲で自分の仕事歴を書いておく。信託銀行に30年勤めた私は、約8年を資産運用業務に関わった。個人富裕層、年金基金が顧客であった。日本株式が、年金資産として僅かな運用が認められた1970年代である。サラリーマン終盤の6年は証券マンとして運用商品を売り込む仕事をした。90年代である。退職後16年も経つから私の経験と知識は陳腐化しているだろう。それを自覚した上で今度の事件を考えたい。拙稿の現状認識に誤りがあれば読者からコメントを頂きたい。
《年金の「デザイン」と「資産運用」のこと》
勤労者・サラリーマンの老後を保障するために作られた「運命共同体」をイメージしてほしい。この「年金基金」―AIJの顧客には「厚生年金基金」が多かった―は、「カネを積み立てる人」、「積み立てたカネを運用する人」、「運用されたカネをもらう人」、「共同体」全体を運営する小集団、さらに全体を取り囲む行政官庁から成り立っている。基盤になる法律や制度が存在する。この共同体は精密に設計された「制度」(デザイン)をもっている。入社・退社による年齢構成の変化、資産運用の成果たる利回り水準の予想、男女比率や勤続年限の変化、そういう「制度」から弾き出されて積立金や給付年金額が決まる。「制度」が重要であることは、現に公的年金の総体が破綻の危機にあることからも容易に想像できよう。公的年金の危機は「現行制度」では日本経済の現状に照らして持続不可能という危機である。
年金「運用」とは、積み立てられたカネを主に金融資産へ投資して成果を得ようとする経済活動のことである。その大筋の理解には多少の専門知識が必要だが、明快な説明さえあればそんなに難しいものではない。ただし紙幅の関係でここでは複雑な制度論議は省く。
運用の観点から前記三者の関係を常識的にいうと、「任せる人」は「基金自体」であり、「運用する人」はプロの投資家であり、「カネを積み立てる人とカネをもらう人」とは年金を受け取る本来の受益者である。「運用成果」が優れていれば、つまりカネが上手に運用されれば、積み立て金を減らしたり、年金給付額を増やすことができる。5年に一回、必要ならデザインが変更できる。
《年金運用の主なテーマは何か》
「運用」のテーマは、「誰に何を選択基準にしてやらせるか」、「何に投資するか」、「投資成果と運用者の評価」という問題である。
「誰に」とは、信託銀行の運用部門、生命保険会社、独立の投資顧問会社などの何れかの会社―複数も可―を運用委託先として選ぶことだ。プロ運用者リストには銀行系、証券系、シンクタンク系、外資系―たとえば三菱、三井住友、野村、大和、モルガン―が美人コンテストのように並ぶ。事実、面接を「ビューティーコンテスト」と呼んだりする。
「何を基準に」とは運用者を選ぶ基準のことである。委託者にも確固たる運用哲学がないと「ガク」がありそうに見える運用者に丸め込まれてしまう。投資哲学と具体的な投資方針、過去の運用実績、プレゼンテーションの巧拙、母体企業との金融取引、人間関係などから総合的に判断して運用者は決まる。
「何に投資するか」、「投資成果をどう評価するか」も極めて重要だ。
私が現役の頃は、行政の規制が強かったから運用成果競争は限定的だった。もちろん当事者としては神経を磨り減らす労働であったが。今は投資対象は原則自由である。もちろん海外商品への投資も自由である。それだけに投資対象の吟味は特に重要である。「サブプライムローン」という専門家にも分からぬデリバティブ(金融派生商品)がリーマンショックの原因となったのは周知の通りである。厚生年金基金は厚生労働省が監督する。AIJは、継続的に高い投資成果を上げていたというが、その不自然さへの疑いが委託者側に生じなかったのか。厚労省のガイドラインはなぜ機能しなかっのか理解できない。
《基金と運用者の戦い》
年金運用の成果はプラスもマイナスもそのまま受益者に帰属する。成果の極大化のために「基金」と「運用者」は激烈な理論闘争を行い、基金側は運用成果を厳しく評価する。「運用者」間では、激烈な運用成果競争が行われる。競争に勝って自社の運用シェアが拡大すれば、競争相手が運用するゴッソリと奪い取る。それに伴い基金からの手数料も増える。大企業の年金基金は、財務部や労務部が優秀な人材を充てている。しかし中小企業や同業者連合のつくる「年金基金」においては「運用者」と渡り合えるプロが少ないと思う。
私が現役時代には、同業者連合が組成する総合型の「厚生年金基金」には、「日本経済新聞」も読んだことのない厚生省の実務官僚がしばしば「常務理事」として天下っていた。運用に関する「理論闘争」は理解もされず必要でもなかった。理論の要らない競争では、ゴルフ、マージャン、カラオケが武器になる。それは年金セールスとアフターケア担当者の仕事だったから、私は話で知るにすぎないが典型的な日本的接待だったようである。それから40年、いまはそんなことはあるまいが。
《基金ガバナンスの欠落》
「何を選択基準にして誰にやらせるか」、「何に投資するか」、「投資成果をどう評価するか」は、「年金基金」という「運命共同体」の死活的テーマである。命の次に大事な資産がどう運用されているかを明確にすること。これは「公的年金記録の喪失」という大事件の陰で関心が不十分だったと思う。今回の事件を奇貨として基金内ガバナンスを徹底的に整備してもらいたい。上記各項目に関する評価についての機関決定のあり方も真剣に論議される必要があるだろう。
「規制緩和と自己責任」をうたった小泉・竹中路線に人々が歓呼の声を上げてから10年が過ぎた。その路線は、参入は自由だが厳しいルールによる事後チェックで悪者を退治するといっていた。投資顧問業は免許制から登録制になって一定条件を充たせば参入は自由である。投資顧問業者を監督する「金融庁」の検査は、263社も業者があるのに、1年15社ほどしか実施されなかったと報道されている。10数年に一度の検査なら業者の自己規律も緩むだろう。
《社会保障の受益者への裏切り》
推測でしかいえないが、今回の不祥事は、運用者の運用失敗―またはカネの不正流用―とその隠蔽、騙されていた基金側の知識欠落、基金運営の監督をサボった厚生労働省、検査機能が不発だった金融庁の怠慢、という四つの作為・不作為の帰結である。これは年金基金加入者への大きな裏切りである。「元大手証券出身」の社長と書いて社名を出さないメディアの体質を含めて、このスキャンダルは関係者へどんな「成敗」をもたらすか。従来、専門家の聖域とされてきた年金運用の実態をどのように明るみに出していくか。我々は自分のこととして事態の推移を凝視すべきである。原発事故隠蔽で見せた大本営体質を年金行政の失敗においても許してはならない。
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