世界で一番信徒の多いのは三L教?―大学講義のあいまに(2)
- 2012年 3月 6日
- 評論・紹介・意見
- やすい・ゆたか宗教愛自然
最近私の講義の中でよく出てくるのが「三L教」だ。「PL教」はパーフェクト・リバティ教という意味だが、「三L教」はLight、Life、Loveつまり光・命・愛の三つはだれもが信仰せざるを得ないので、みんな大なり小なり三L教徒ではないかということである。
結局宗教が違う宗派が違うと言って、いがみ合ったり、戦争までするのは愚の骨頂で、みんな同じ三L教徒なのだから、仲良く助け合って、やっていこうという趣旨である。
光は全てを照らし出し、それで物事を感覚し、認識することができる。また光はそれ自身物質の最も基礎を成す根源物質みたいなもので、我々も含め全ては光の子である。だから光として輝き、光の中で生きていくのだ。光は理性であり、希望でもある。
命は何より大切だが、個体の命は互いに支え合い、与え合って生きている。大いなる命の共生と循環に生きているのである。だから命の信仰は、命を与えてくれるもの、命を支えてくれるもの、命を脅かすものに向けられる。毎日の食事に手を合わせて「いただきます」というのは、命を与えてくれる食物への感謝である。
我々も命を奪って生きている以上、我々を生かしてくれている自然に感謝し、その自然を守るために生きるべきであり、自然である大いなる命に還帰するのである。超越神信仰もこの大いなる命を超越的に捉え返しているだけである。
愛なくしては、何をしても喜びはなく、生きる甲斐もない。人生は憂いの闇に包まれてしまう。人を愛し、自然を愛し、様々な物を愛して、慈しみあって生きるべきである。
このようにだれもが信仰せざるを得ないのが三つのLであり、だれもが三L教徒であることは認めざるを得ないのではないか。
それじゃあやすいは三L教団を作って教組にでもおさまるつもりか、いいやその必要もないし、器量もない。組織など作ったらかえって争いのもとではないか、むしろ全く組織がなく、信徒がいないからこそ、だれもが三L教徒だと言えるのではないか?みんな三L教徒同士だから争うことはないと言えるのではないか?かえって空なるが故に真理なのではないか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0791:120306〕
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