君が代訴訟の問いかけるもの(2)
- 2012年 3月 8日
- スタディルーム
- 君が代訴訟宇井 宙
- o) 本件各職務命令のうち「起立」を求める部分については、その職務命令の合理性を肯認することができるが、「斉唱」を求める部分については上告人らの信条に係る内心の核心的部分を侵害し、あるいは、内心の核心的部分に近接する外縁部分を侵害する可能性が存するものであるといわざるを得ない。本件において、上告人らが国歌斉唱の際に起立しないという行為(不作為)を行った理由が、国歌斉唱行為により上告人らの信条に係る内心の核心的部分(あるいは、それに近接する外縁部分)に対する侵害を回避する趣旨でなされたものであるとするならば、かかる行為(不作為)の、憲法19条により保障される思想及び良心の自由を守るための行為としての相当性の有無が問われることとなる。
2.最高裁合憲判決の論理
2月17日に「君が代訴訟の問いかけるもの(1)」を書いてからすでに3週間近くも間があいてしまった。今後も諸般の事情で断続的な連載となることは避けられそうにないが、ともかくもこのシリーズを続けたい。
「君が代訴訟」の意味を探求するにあたって、まずは「君が代訴訟」に対する最高裁判決の論理を検証しておこう。一口に「君が代訴訟」といっても様々なものがあるが、ここでは主に、学校式典における「国歌斉唱」の際に、日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することを教職員に命じる職務命令(以下、「起立斉唱命令」)に反したことを理由になされた不利益処分に対して、そのような職務命令が思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反し無効である等の理由で処分取消や損害賠償等を求めた訴訟(以下「国歌斉唱訴訟」と呼ぶ)を念頭に置く。そのような訴訟のリーディング・ケースとして、具体的には以下の3つの判決を検討する。
① 2011年5月30日最高裁第二小法廷判決
② 2011年6月 6日最高裁第一小法廷判決
③ 2011年6月14日最高裁第三小法廷判決
①と②は都立高校の教職員であった上告人らが起立斉唱命令に反して戒告処分を受けたことを理由に定年後の再雇用を拒否されたために損害賠償を求めた訴訟であり、③は都内の市立中学の教諭であった上告人らが起立斉唱命令に反したことで受けた戒告処分の取消と損害賠償等を求めている事案である。
以上、3つの判決により、「国歌斉唱訴訟」に関する最高裁のすべての小法廷の判決が出揃ったことになり、これ以後の君が代関連訴訟に関する最高裁判決における憲法判断はすべてこれら3つの最高裁判決を踏襲している。これら3つの小法廷判決は、細かな文言等の違いを別とすれば、基本的なロジックはすべて同一である。なお、②において宮川光治裁判官(注1)の、③において田原睦夫裁判官の反対意見がある。したがって、これらの「国歌斉唱訴訟」の判決に加わった14裁判官(①は4裁判官による判決である)の憲法判断は12対2で合憲・違憲に分かれたことになる。またこのほか、①では3裁判官、②では1裁判官、③では3裁判官による補足意見が付されている。
なお、君が代関連訴訟のうち、音楽科教員にピアノ伴奏を命じる職務命令(「ピアノ伴奏命令」)に違反したことを理由になされた戒告処分の取消を求めた訴訟(いわゆるピアノ訴訟)の最高裁判決はこれらより早い④2007年2月27日の最高裁第三小法廷判決がある。この④判決には藤田宙靖裁判官の反対意見と那須弘平裁判官(注2)の補足意見がある。③と④はともに第三小法廷の判決であるが、両方の判決に加わったのは那須弘平と田原睦夫の2裁判官のみである。ピアノ伴奏命令と起立斉唱命令とでは合憲性の判断において相違があるか否かについては、裁判官の間で見解の相違がみられる。このピアノ訴訟最高裁判決については、必要に応じて言及することにする。
上に述べたように、①~③の国歌斉唱訴訟判決はいずれも細かな文言等の違いを除けば、基本的な論理は同一であるので、これら3つの判決が起立斉唱を命じる職務命令を合憲とした論理構成を抽出すれば、以下のようになっている。
(1)直接的制約性の否認
ア)上告人が起立斉唱命令を拒否する理由は、日の丸・君が代が戦前の軍国主義や侵略戦争等において果たした役割に関する上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等である。
イ)上告人は学校の卒業式のような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体も起立斉唱命令拒否の理由に挙げているが、外部個的行動が求められる場面においては、個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的制約の有無に包摂される事柄であり、別途の検討は要しない。(この論旨は①においてのみ言及されている。)
ウ)学校式典における国歌斉唱時の起立斉唱行為は、一般的・客観的に見て、慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、上記の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものではないから、起立斉唱命令は直ちに上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものとはいえない。
エ)起立斉唱行為自体が特定の思想やこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令にしたがって起立斉唱行為が行われる場合は一層困難である。したがって、起立斉唱命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。したがって、起立斉唱命令は個人の思想・良心の自由を「直ちに制約するもの」ではない。
(2)間接的制約性の認定
オ)しかし、国歌斉唱時の起立斉唱行為は、一般的・客観的に見ても、国旗・国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり、そのように外部からも認識されるものなので、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的評価の対象となる日の丸や君が代に敬意を表明することには応じ難いと考える者が、これらの対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり、それが心理的葛藤を生じさせるので、その者の思想・良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。
(3)間接的制約の許容可能性の一般的判断基準
カ)個人の歴史観ないし世界観が内心にとどまらず、外部的行動として現れ、その外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受ける場合には、その制限が必要かつ合理的なものである場合には、間接的な制約も許容され得る。起立斉唱命令が個人の思想・良心の自由に対する間接的制約となる面があると判断される場合にも、このような間接的制約が許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して、当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。
(4)本件における間接的制約の許容可能性の検討
キ)これを本件について検討すると、本件各職務命令は、(オで述べたように)上告人らの思想・良心の自由に対する間接的制約となる面がある。
ク)他方、学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要である。
ケ)法令等においても、学校教育法は、教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ、学校教育法及び学校教育法施行規則に基づき全国的な大綱的基準として定められた学習指導要領も学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めており、国旗国歌法は国旗は日章旗(「日の丸」)とし、国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして、住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項、地方公務員法30条、32条)に鑑み、上告人らは、法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあり、地方公務員法に基づき、学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件各通達を踏まえて、校長から本件各職務命令を受けたものである。
コ)これらの点に照らすと、本件職務命令は、学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義、在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿って、地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえ、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。
サ)以上の諸事情を踏まえると、本件各職務命令については、上告人らの思想・良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば、上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる。
3.最高裁判決における反対意見の論理
正確を期したために、少々長くなった、この最高裁合憲判決の論理については、後で詳しく検証するが、その前に②における宮川裁判官と③における田原裁判官の反対意見を紹介しておきたい。
■宮川反対意見
a) 日本社会には、「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権とは相容れないと考える人々が相当数存在しており、こうした思いはこれらの人々の心に深く宿り、人格的アイデンティティをも形成し、思想・良心として昇華されている。
b) 上告人らが起立斉唱しないのは、自らの歴史観ないし世界観を表明しようとする意図からではないだろう。その理由は、第1に、上告人らにとって起立斉唱行為は、慣例上の儀礼的な所作ではなく、自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり、自らの思想・良心の核心を動揺させるからであると思われる。第2に、これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として、その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからだと思われる。そのように真摯なものであれば、職務命令に服せず起立斉唱しないという行為は上告人らの思想・良心の核心の表出であるか、少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
c) 教職員は、生徒に対して直接に教育するという場を離れた場面(式典もその一つ)においては、自らの思想・良心の核心に反する行為を求められることはないというべきであり、音楽教師が式典においてピアノ伴奏を求められる場合も同様に考えられる。
d) 上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想・良心の核心の表出であるか、少なくともこれと密接に関連している可能性があるので、その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきである。本件は、原判決を破棄して差し戻すことを相当とする。
e) 多数意見は、式典における起立斉唱行為を、一般的・客観的な視点で、いわば多数者の視点で評価しているが、およそ精神的自由権に関する問題を、一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でない。本件が、少数者の人権問題であるという視点からは、国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたということは、合憲性の判断にはいささかも関係しない。
f) 1999年8月に公布・施行された国旗国歌法の制定に関して、国論は分かれたが、政府は国会答弁で繰り返し、国旗掲揚及び国歌斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと、学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと、国旗・国歌の指導に係る教職員の職務上の責務に変更を加えるものではないこと等が示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立した。
g) 1999年3月告示の学習指導要領は、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と規定しているが、この規定を教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり、教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にある(最高裁1976年5月21日大法廷判決参照)という学習指導要領の性格にも照らすと、上記根拠となるものではないことは明白である。
h) 国旗国歌法施行後、東京都立高等学校において、少なからぬ学校の校長は内心の自由告知を行い、式典は一部教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく信仰していたが、こうした事態を本件通知(10.23通知)は一変させた。都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること、内心の自由を説明しないことを求めていること、不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること、不起立行為等があった場合、速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること、卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していること、その後の戒告処分の状況等をみると、本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができる。本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては、本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠である。
i) 本件職務命令の合憲性の判断に関しては、いわゆる厳格な基準により、本件事案の内容に即して、具体的に、目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか、手段は必要最小限度の制限であるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。
■田原反対意見
j) 多数意見は、職務命令の内容を起立行為と斉唱行為とを一括りにしているが、私は、「起立行為」と「斉唱行為」とを分けてそれぞれにつき検討すべきものと考える。
k) 「起立命令」に限っていえば、多数意見が述べるとおり、上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びにその制約の態様等を総合的に較量すれば、なお、若干の疑念は存するものの、その制約を許容し得る程度の必要性及び合理性を有することを肯認できると考える。しかし、本件各職務命令における起立命令と斉唱命令との関係からすれば、本件各職務命令の内容をなす起立命令の点のみを捉えて、その憲法19条との関係を論議することは相当ではなく、本件各職務命令の他の内容をなす斉唱命令との関係を踏まえて論ずべきものと考える。
l) これに対して「斉唱」は、斉唱者が積極的に声を出して「唱う」ものであるから、国歌に対して否定的な歴史観や世界観を有する者にとっては、その歴史観、世界観と真っ向から対立する行為をなすことに他ならず、同人らにとっては、式典への参加に伴う儀礼的行為と評価することができないといわざるを得ない。また、音楽専科以外の教諭である上告人らにおいて、学校の式典における国歌斉唱時に「斉唱」することは、その職務上当然に期待されている行為であると解することもできない。したがって、国歌に対して否定的な歴史観や世界観を有する者に対し、国歌を「唱う」ことを職務命令をもって強制することは、それらの者の思想、信条に係る内心の核心的部分を侵害するものであると評価され得る。
m) 憲法19条が保障する思想・良心の自由には、内心の核心的部分を形成する思想や信条に反する行為を強制されない自由が含まれ、それには、自らの思想・信条に反する行為を他者に求めることを強制されない自由も含まれると解される。その延長として、第三者が他者に対して、その思想・信条に反する行為を強制的に求めることは許されるべきではなく、その求めている行為が自らの思想・信条と一致するか否かにかかわらず、その強制的行為に加担する行為はしないという信条も、憲法19条が保障する思想・良心の自由の外縁を形成するものと位置づけることができ、その位置づけ如何によっては、憲法19条の保障の範囲に含まれることもあり得る。仮に、本件各職務命令の対象者が、国歌については価値中立的な見解を有していても、国歌の法的評価を巡り学説や世論が対立している下で、公的機関が一定の価値観を強制することは許されないとの信条を有している場合には、かかる信条も思想及び良心の自由の外縁を成すものとして憲法19条の保障の範囲に含まれ得ると考える。
n) 本件職務命令は、「起立命令」と「斉唱命令」の二つの職務命令が同時に発令され、本件懲戒処分では「斉唱命令」違反の点は一切問われていない。しかし、上告人らの内心の核心的部分との関係においては、「起立命令」と「斉唱命令」とは明らかに異なった位置を占めると解されるが、本件職務命令が、「起立して斉唱すること」を不可分一体のものとして発せられたものであると上告人らが解しているときに、その命令を受けた上告人らとしては、「斉唱命令」に服することによる上告人らの信条に係る内心の核心的部分に対する侵害を回避すべく、その職務命令の一部を構成する起立を命ずる部分についても従わなかったと解し得る余地がある。また仮に、二つの職務命令を別々に評価することが論理的に可能であるとしても、本件各職務命令が発令された経緯からして、上告人らが本件職務命令を「起立して斉唱すること」を不可分一体のものとして命じたものと捉えたとしても無理からぬものがあり、本件職務命令違反の有無の検討に当たって、「起立命令」と「斉唱命令」とに分けることは相当ではないといわなければならない。
p) 原審は、本件職務命令が「起立すること」と「斉唱すること」を不可分一体のものとして命じているものであるか否か、また、国歌の「斉唱命令」が上告人らの信条に係る内心の核心的部分を侵害し得るものであるのか否か、あるいは内心の核心的部分に近接する外縁を成し、その侵害は憲法19条によって保障されるべき範囲に属するといえるか否かという諸点について審理し、判断をなすべきところ、かかる諸点について十分な審理を尽くすことなく判決をなすに至ったものといわざるを得ない。よって、本件は、原判決を破棄の上、更に上記諸点について審理を尽くさせるべく、原審に差し戻すのを相当と思料する。
(注1)宮川光治裁判官は今年(2012年)2月27日付で退官し、後任には同じく弁護士出身の山浦善樹裁判官が就任した。
(注2)那須弘平裁判官は今年2月10日付で退官し、後任には同じく弁護士出身の大橋正春裁判官が就任した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study449:120308〕
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