2010年ドイツ便り (1)~(5)
- 2010年 7月 22日
- 評論・紹介・意見
- ドイツ便り合澤清
(その5)
《10年経てばゲッティンゲンも変わる》
東京の変化はいまさら言うまでもなく、めまぐるしいものである。1週間見なかったら情景が様変わりしているなんてことすら間々ありそうだ。それに比べるとたいていのドイツの街の変化は蝸牛の歩みのようにゆっくりとしている。もちろん観光目的で、街の景観を中世のまま数世紀にわたって全く変えていないところもある。逆に商業都市(フランクフルトやシュッツガルト、ハンブルグなど)では日本ほどではないが、大きなビルが建ち、何年か見ないと「え、こんなふうになったの!」と驚かされることも多い。
ゲッティンゲンはそんな大都市から見れば田舎町であり、しかも大学町であることから割に変化は小さいように思っていた。ところが近年になってなぜか町(Stadt)の拡張が盛んにおこなわれるようになり、近隣の森林が伐採され、その跡に高層ビル(もちろん新宿のような超高層ビルとは全くの程度差がある)が建ち並び始めている。僕のアパートは東側に窓がある9階なのだが、そこから見える景色は小山(あるいは丘と呼ぶべきかもしれない)の麓あたりにビルが連立し、かつてはよく見えていた麓が見えなくなっている。
正面5~600メーター先に大学病院の巨大な建物群があり、しかもそれらも年々拡張されているように思われる。
旧市街地はさすがにいろいろな制約があって、勝手に街並みを変えることはできないようであるが、少し細かく観察すれば、古くからあった店舗が少しずつ新しい店舗(全く違った商売の店舗)に代わっていることが分かる。
東京などの大都市でも、今時は大型書店のチェーン店が増えているが、ここゲッティンゲンも、この数年間で大型のチェーン店が何件か、立て続けに店開きを始めている。古くからの地元の書店はおされぎみで、数年前に一軒は店を閉め、今僕が知っているチェーン店でない店はたった一軒残るのみだ。
洋品店、靴屋、薬屋、スーパーマーケットなどのチェーン店の進出も目立つ。日本のような食堂や居酒屋のチェーン店がまだほとんど進出していないのは、まだ救いだ。レトルト食品ばかり食べさせられるのはこりごりだからだ(その割には、お前は○○水産ばかり行きたがるのはどういう意味だ、とおしかりを受けるかもしれないね)。
以前にも書いたかもしれないが、ドイツでは伝統的な木骨造り家屋の古くて、荒れたものを買うのは簡単らしい。コルドラさんが言うには、買うのは1ユーロだが、元通りにするのに最低で数千万円はかかるとのことである。しかも、法律で建て替え(元通りにする以外の)は禁じられている。このようにして街並みの景観が保たれているようだ。
もちろん変化が見られるのは、街の景観や店舗などばかりではない。車の数なども格段に増えている。それに合わせて人情も少しずつ変化するのだろうな、と少々心配している。
《新聞、雑誌の記事から見るドイツの現状は…》
行きつけの居酒屋(「シュチュルテン」)で、時々は一人で辞書と首っ引きでそこにおいてある週刊誌などを読むことがある。大抵、店が引ける少し前ぐらいにラルフやシルビアが傍に来て少し討論などすることになる、これが楽しいひと時だ。語学学校なんかでは学べない、生きたドイツ語の教材である。そのためにはビールの2リッター位を飲みながら、週刊誌の数ページぐらいは何としても訳しておかなければ恰好がつかない。
先日も店に常備している『シュピーゲル Der Spiegel』の7月8日号(?)を読んでいて、面白い記事に出会った。表題は「フンボルトの代わりにジーメンス」となっていた。
内容を一言で表現すれば、「東京大学法学部に代わる松下政経塾」ということになろうか。フンボルトとは、かのベルリン大学(ヘーゲルが学長を務めたことがあり、マルクスが卒業した大学)の正式名称(フンボルト大学)である。ここではドイツの公立大学の代表名詞として使われている。またジーメンスは、言うまでもなく、現在のドイツを代表する会社の一つで、主に電気(子)機器を製造していることは既にご承知のことである。ここでは民間の代名詞と考えてもよろしかろう。
この記事ではジーメンスという民間の研究機関(あるいは民間の大学)での徹底した専門教育指導の在り方が議論されている。酔眼での読書ゆえ、詳細までは記憶していないので、興味のある方はぜひ直接この雑誌にあたってもらいたい。ここでは大まかな記憶に頼って報告したい。
物理学の専門家養成の話である。確か、全寮制になっていて、毎朝6時半あたりに起こされ、食事の後、8時半ぐらいから90分の授業を受け(一日の授業はこれだけ)、その後、昼食時間を除き、10時間ぐらいを図書館で物理の自由研究時間(予習、復習等)として過ごす。終わって寮に帰るときには、もちろんあたりの店などはとうに閉まっている。こういう生活を数年間過ごさせるそうである。当然、卒業時には試験があり、それに合格しない時には再びこのような生活を続けなければならないことになる。
問題は、こうして要請された専門家は、専門知識以外の興味を失い、いわば、世知に疎い、極めて狭い領域しか関心のない「専門バカ」(全共闘時代の言葉でいえば)になりかねないということである。この記事の著者はこのことに警鐘を鳴らしている。
日本では、全共闘没落以後、すでに早くから産・学共同研究体制の積極的推進が行われ、それと歩調を合わせて、大学教養部再編の話(教養部廃止など)、講座からマルクス経済学関連のものをなくそうという動きなど、猶予ならぬ事態が起きている。大学は企業にのみ役立つ「専門バカ」の養成機関でよいというわけだ。
こういう動きは日、独だけのものではない。米、英、仏、韓をはじめ、世界的規模で新商品の開発競争に絡めて胎動してきているように思う。このことの行きつく先はどの様な社会であろうか?マックス・ウエバーのいう「精神なき専門人、心情なき享楽人」が生み出されることは間違いなかろう。そして社会は、さらに無機質の管理社会になるのだろう。
今ドイツでは、カフカが読まれ始めている。不気味な世界の到来を予感させるように思う。
前回『DIE ZEIT』の7月1日号の記事を少し摘要してみた。今回も、7月8日号の記事から、今のメルケル政権への世論の評価はどんなものかという点を摘まんでみたい。
記事の小見出しはこうなっていた。“Spielen und gurken“ もちろん僕が持ってきている独和小辞典などにはgurkenなどという動詞は載っていない。Gurkeとはドイツ語で「キュウリ」のことである。小見出しの後に「ドイツチーム11人の勝利の場面は、ドイツにとっておよそ政府ほどにはひどくないということを示している」というような意味のことが書かれていた。それから推して、spielenはもちろんサッカーの試合を、またgurkenは政府、ないし現政権下で青ざめ、しょぼくれてしまった国民生活(多分、キュウリのようにという比喩であろう?)を指しているように思う。ドイツ代表のサッカーチームと現政権が比較されながら論じられているのであるが、この内容の辛辣さは、日本の大手メディアが政権政党に大甘であるのと大違いである。それはおおよそ次のような内容だ。
どの国民も国民に奉仕する政府を持っているはずだ。今日、ドイツ国のあらゆる問題のうちで、一番大きな問題は政府である。「黒と黄色の連立は1949年以来最悪の政府であると、かなり多くの人が言っている」。
ご存じのように、「黒と黄色の連立 Schwarz-Gelb」とは現在の連立政権を意味している。黒はユニオン(Union)=キリスト教民主同盟と、キリスト教社会同盟の合同を、黄色はドイツ自由民主党(FDP)を現わしている。また1949年とは、旧西ドイツで「基本法」(ドイツ憲法)が制定された年をいう。つまり、戦後のドイツ国家成立以来の最悪の政府だという意味になる。
なぜ「最悪の政府」などという声が出るのか?現政権はこれという失政をしてはいない。赤と緑の連立政権(SPDと緑の党)では、失業者数を隠してみたり、「嫌なアフガニスタン戦争」への派兵増員を強制したりしたが、この政権はそんなことはしていない。財政や経済の危機は前政権から引き続いたものにすぎない。それでもなぜ、不人気なのか?
現政権は現実的な諸問題に関わる前に、自分たちの問題に関わりすぎている。相互に意地の悪い対立を繰り返しているために、国民は呆れているのだ。夏休み明けになってもこういう状態が続くなら、国民はこういう政権を厄介払いするだろう。全ての国民はそれに奉仕する政府を持っているものだが、目下この国にはそういう政府はない。
友人のユルゲン君にこの感想を聞いてみたら、彼も全く同感だと言っていた。
振り返って我が国の政府について考えてみた。決して「対岸の火事」ではないはずだ。しかも前回触れたように、世界で唯一といってもよいほど、相変わらずの対米追随路線(アメリカとの運命共同体路線)堅持である。ドイツではまだこのようなしっかりしたメディアが残っていて、痛烈な批判をしている。それに比べて日本ではどうか?テレビの討論や批判めいた番組は、ほとんどお笑い番組と変わらない。全く暗い気持ちになる。
2010.07.19記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion068:100722〕
(その4)
《こう暑いと…》
こう連日の猛暑が続くとどうしても居酒屋と映画を見ることの回数が多くなる。クーラーはもとより、冷蔵庫も扇風機もない生活を送っていると冷たいものが飲みたくなる。もちろんドイツでも冷やした飲み物やビールなどを店で売ってはいるが、やはりどうしても居酒屋の方に足が向く。今年のようにユーロ安の年は僕のような左党にとっては大歓迎である。ゲッティンゲンはこの近辺のカッセルやハノーファーなどの都会(フランクフルトやベルリンは言うに及ばず)に比べると学生街ということもあって、飲み屋の値段は安めである。
ドイツの飲み屋の値段は、都会は別として、どの店に入ってもあまり変わらないのだが、それでも学生たちが少しでも安い飲み屋を探すのは洋の東西を問わない。僕が見るところでは、ビールの値段は0.4または0.5リッターのジョッキーで大体3ユーロ位(1ユーロを110円とすれば330円ぐらい)が標準だ。しかし、僕の行く「シュチュルテン」では0.5リッターで2.7ユーロ、時には2.0ユーロの時がある。黒ビールは少し高めなのだが、僕はなぜか同じ値段(2.7ユーロ)で飲ませてもらっている。食べ物も抜群に安い。分かり易いのは、日本でもおなじみのハクセという豚のモモ肉を骨付きのままオーブンであぶり肉にするか、柔らかく煮込んだもの(この店では煮込んだものだが)で、かなりヘビーな量のものであるが、それがこの店では10.5ユーロで食べられる。もちろん横にはザワ―クラウトとジャガイモが付け出しでついている。ボン当たりでは15ユーロ以下では絶対に食べられないと、確か以前にC君から聞いたことがある。他の食べ物も推して知るべきだ。チーズの盛り合わせ(6ユーロ)だけでおなかいっぱいになるほどのボリュームがある。今年のように原則的にはアパートで自炊をしないことにしている僕としては、ここでのごちそうが夕食ででもある。
それにしてもドイツ人はどうしてこんなに太めなのだろうか?ユルゲンも、ラルフも1年見ないうちにずいぶん太めになっていた。特にラルフは去年まではまだ細見で背の高い紳士という感じだったが、今年は太めで貫録がついていた。肉食のせいかあるいは甘いものばかり好むせいなのか?彼らは日本人に比べてスポーツもよくやるし、よく体を動かしているように思うが…。(そういえば、昔エジプト人の友人が、ドイツの女性は君の三倍ぐらいは食べるよ、と言っていたが、本当だろうか?)
天候のことに触れれば、今年のようなドイツの暑い天候の時は、高気圧がシベリアの上空にとどまって、南下しない時だと、以前に聞いたことがある。南下してヨーロッパを通り過ぎると、エジプトが猛暑になるそうだ。日本はいまだに梅雨のような鬱陶しい毎日が続いていると聞く。どうも世界中の天候の歯車が狂ってきているのかと思いたくなる。僕がヨーロッパに入る直前ごろまで、連日の雨で気温は上がらず、北ヨーロッパ、とくにポーランドから北ドイツのブランデンブルク州辺りは洪水に見舞われたとのことであった。それが一転して連日30度を超える(ときには40度を超える)猛暑になるとは、なかなか儘ならないものだ。最近ゲッティンゲンでもクーラーを備える店舗が増えてきている。
《映画のこと》
たいてい映画館は涼しいものと相場が決まっている。空気が乾いているため、日光を遮断するだけで温度差は全然違ってくるからだ。午後10時ごろに映画館を出る頃は、大抵うすら寒くて、上着を持ってくればよかったと思うときが多かった。
ところが、今年の夏は映画館に入っても冷やっとしていない。なんだか蒸しっとしている。2時間ほど中にいても体が冷えない。外に出ると外気が異様に暑い。多分、去年体験したオープン・エア・キーノ(郊外での上映)にでも行けば違うのであろう。
話が横道にそれるが、ドイツに来て今年ほど汗疹に悩まされる年もない。足首(靴下のせい)や腕の肘の裏側(絶えず曲げたりしているため汗がたまる)、時計のバンドをする手首など、今までは日本でできた汗疹がこちらに来て治るのが普通だった。…それほど今年のドイツは湿度が高いということか。
閑話休題。この2週間で映画を3本観た。最初に観たのは『マダム・ミシェルのエレガント』というフランス映画だ。簡単に内容を言えば、マダム・ミシェルという名の初老の婦人が、今は亭主に死に別れ、孤独にアパートの管理兼清掃婦として暮らしている。将来には何の希望もない、全くのその日暮しである。そこに突然オヅ・カクロウという名前の同じく初老の日本人の寡夫が入居してくる。彼は全く直感的にマダム・ミシェルのインテリ性を見抜き、『アンナ・カレニーナ』を贈呈し、食事に誘い、また豪華な衣服や靴などをプレゼントし、ついには京都を舞台にした「小津安二郎」(?)監督の映画を二人でビデオで鑑賞するに及び、さしもの彼女の閉鎖的な心も解きほぐれ、再び希望が目覚めるのであるが、その直後に彼女は交通事故であっけなく死ぬというストーリーである。
なんだかあまりに日本人がカッコよすぎて、しかも神秘的で、その自宅の部屋などはまるで美術館のように陶器や絵画で飾り立てられていて、トイレの便座に腰かけると、突然モーツアルトが鳴り響くとなると、なんだか同じ日本人としては面映ゆいというよりは、居ずらいという感じが強くなってきたわけです。漫画にしても、私のような貧乏な日本人には誠に迷惑な話だと思った。期待する人もいますまいが。
次に見たのは『SIN NOMBRE』というタイトルのメキシコ・アメリカの合作映画だ。南メキシコの街を舞台にしたもので、まことに貧困を絵にかいたようなすさまじい街の様子だった。少しでもまともな暮らしをしようと思えば、アメリカに不法入国するか、ギャング団の仲間に入るより他に道はないといった具合で、若い全身に入れ墨を施した男が、愛人を殺され、仕返しにその男を殺し、また仕返しをされて殺されるというよくあるパターンの映画ではあるが、この映画の見せ場は、やはりこういう貧困が世界中に広く分布しているということ、貧困をなくす以外に環境の浄化、人間らしい生活などはあり得ないということ、このことが実に説得的に語られていて、考えさせられた。
三本目は『THE AGE OF STUPID』。今はやりの訳語では、多分『バカの時代』となるのであろうか?「なぜ、われわれは何もしないのか?」という副題がついていた。2009年にイギリスで制作されたものだ。これは多分地球環境団体あたりのテコ入れによる制作映画であろうと思う。それなりの面白さはもちろんあるが、富と貧困の問題にしても、残念ながらあまり抉れていないように思った。富者がいて貧者もいて、貧者の生活環境は劣悪で、環境汚染、災害は年々増加の一途であることが、アメリカのハリケーン、アフリカの水汚染、工場新設による漁労民の生活環境の劣悪化、インドの貧困、石油を巡る戦争(主にイラク戦争)などを事例にして語られるのだが、上滑りの感はぬぐえなかった。
僕のドイツでのささやかな体験でしかないが、映画の質が年々落ちているのではないかと危惧している。今年のプログラムを眺めても、まだあまり見たい映画が見つかっていないのはどうしたことだろうか。
《『ディ・ツアイト』紙の記事から》
“DIE ZEIT“ 紙の7月1日号(Nr.27)のトップページから興味ある記事を紹介したい。小さな記事だが実に辛辣なものだ。「オバマはどこをさまようのか」という見出しである。
アメリカからのもっと金を支出せよという要請に対する強烈な反論となっている。
以下に僕が理解できる範囲でつまみ食いしながら要点のみ紹介してみたい。
2008年のクラッシュによって突発したパニックの中でアメリカは、ワシントン発、ベルリン経由、北京へ向けて、次のような一つのパートだけを謳ってきた。
「われわれは金と需要でもって経済をあふれさせる。何が何でもそれをやるつもりだ。もう決して30年代のような危機にはならない」。
ギリシャ経済のほとんど破産状態以来、色々思い迷いながら経済の持ち直しを図っているうちに、EUという合唱隊のチームワークもばらばらになっている。ヨーロッパには、倹約家もいれば借金の踏み倒し屋もいる。オバマはアメリカで過去の過ちは繰り返したくないらしいが、とりわけドイツを悩ませるのはもっと金を支出せよということだ。彼のブレインのポール・クルーグマン(ノーベル賞受賞者)は、かつてのワイマール時代の首相だったハインリッヒ・ブリュンニングの提唱した「倹約は美徳だ」というスローガンを「ワイマール共和国の没落を確定したものだ」と非難している。しかし、今ドイツはかつてとは違ったやり方で倹約(貯蓄)を進めようとしている。その違いとは、ドイツ一国だけではなく、イギリスやフランスなどをも含んでいるからだ。(ヨーロッパ人はアメリカ人よりも利巧なのだ。よりによって今、アメリカが、負債の悪習を素晴らしいことだと唱えるなんて全くどうかしている)。
オバマのお師匠さんのジョン・メイナード・ケインズ(あの有名なケインズ)が1937年に提唱した公共投資による有効需要の創出という理論、それに忠実に従って、「道路をコールタールで4度も上塗り」するような公共工事をしたばっかりに日本経済は「失われた10年」というひどい目にあったではないか。われわれヨーロッパ人はその教訓から学んでいる。
ハーバード大学の経済学者、エドワード・グレーサーが報告したように、「国家支出と労働市場との間には、もはや関連はない」のである。
オバマ=ケインズ流だと悪夢のような借金(負債)が残るだけだ。そして負債は再び投資に回るだけで、最大の痛みである失業と経済成長の衰退の治療にはほとんど全く役立たないだろう。
西欧の連結計画(先述した貯蓄、倹約の計画)は、あらかじめ消費の方に流れ込むようになっている。急激に増える負債にどう対応し、将来に向けてどのように投資していくのか、そのためには新しい成長の芽を作り出すしかないのではなかろうか。
古いケインジアンのオバマはそんなことは考えない。彼の考えでは、「人口は増え続け、バイオロジーのやり方で絶えず需要が作り出される。特にドルが世界通貨である限り外国から際限なく金は入ってくるため、それを国内に償還しうる。また、ヨーロッパは古臭くて萎縮している、そのため国の負債は雪だるま式に増え続け、やがては破産してしまうだろう。ひどいことになるのは次の世代である。ますます少なくなる就業者が、増え続ける老人の扶養をする事になり、その上相続した負債の金利を払い続けなければならない。孫たちのために伝えたいと思える未来はない。」
この言葉が正当であるとすれば、だからこそメルケル、キャメロン、サルコジは正しい選択をしているのだ。
(以下は皮肉であるが)ヨーロッパ人が財政をきちんと処理しようとしている今になって、どうしてまたアメリカは(負債の)悪習が素晴らしいなどと言い出すのだろうか。オバマは3年以内に赤字を半分に減らすつもりらしい。
今やアメリカに完全について行こうとしているのは、どうやら日本ぐらいのものかもしれない、と思った。
2010.07.15記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion064:100716〕
(その3)
《サッカーの試合と国民性》
このところゲッティンゲンは猛暑の日々が続いている。7月3日、4日と37度に達する暑さだ。去年は比較的涼しい夏だった。眠るにしろ、読書するにしろ快適な気候だったように思う。ところが今年はカンカン照りの熱暑で、こう暑くては日昼表に出かけるのも億劫になる。シャワーを浴びて、部屋でゆっくりする方がなんぼましかと思ってしまう。
ところが先日、3日のサッカー(ドイツ語では「フスバール」という)の世界選手権でドイツがアルゼンチンと試合をするので、是非4時(こちらではこの時間に開始になる)にきてテレビで観戦してほしいと「シュチュルテン」(こちらの方が「シュツルテン」よりはドイツ語のアクセントに近いのでこちらに変えることにした)のシルビアに誘われたのだ。その時は、僕はあんまりサッカーに興味はないから、いつものように夕方に来ることにするよ、と断ったのだが、たまたま買い物などの用事があったため、仕方なく午後から外出した。用事を済ませ、一端アパートに帰ろうかと思ったのだが、この暑さではまた出直すのはかなりつらそうだと思いなおして、とりあえず「ボターニッシャー・ガルテン」(大学の植物園)の喫茶店に行って時間つぶしをすることにした。
途中で見かけた喫茶店や居酒屋、レストランなどにはすでに大型のテレビ画面が用意され、人だかりがしていた。そのせいか、「ボターニッシャー・カフェ」は閑散たる有様で、明らかに客よりも従業員の方が多いといった様子だった。
4時少し過ぎに「シュチュルテン」に行った。もう試合は始まっていて、建物の中は既に若い学生らでいっぱいだった。顔見知りの学生アルバイトが早速話しかけてきて、「ビール飲むでしょ、ラルフがそこにいるよ」と外の窓際を指さした。外にも既に15人ぐらいの人が座っていたが、たまたまラルフの隣のテレビ画面の正面の席が空いていたので、彼に挨拶をしてそこに座った。すぐにビールが来て、試合中2~3リッターを空けた。
サッカーはドイツはもちろんのこと、ヨーロッパ各国の国技である。日本ではサッカーよりも野球が盛んだというと「アメリカ的だ」と軽蔑されるほどだ。試合に入れ込む熱意は尋常ではない。一々のプレーに歓声が沸き、ドイツチームが得点するたびに、大きなドイツ国旗がテレビ画面を覆い、よくわからないが、「ドイツが勝った」という意味のような歌がうたわれる。試合が半分進み、途中の休みには、オリバー・カーンが解説者として画面に登場し、話をしていた。
ドイツの勝利の瞬間には、店の中はもちろんだが、街中の至る所から歓声が沸き起こり、どこから集まったのか、まるでデモか戦勝祝いの行進のように大勢の若者たちが国旗を持ち、鳴り物を吹きならしながら旧市庁舎前の「がちょう姫」の銅像目指してそぞろ歩きを開始し始めた。両頬にドイツ国旗を描きこんだまだ幼い感じの子供たちもたくさん見かけた。「ハロ」と挨拶して手を振ると、先方でも恥ずかしそうに「ハロ」と手を振ってくれた。街中を、タクシーはもちろん、両サイドに小さな国旗をつけた車が走りまわっている。アパートのテラスや、学生アパートなどでは窓に、国旗がはためいている。
日本では「日の丸」を掲揚したり、持っているだけで右翼的と看做す傾向がある。日・独のこの違いは何なのだろうか、と考えさせられる。日本では「在特会」などの右翼的な動きに対して政治家も民衆もきわめて鈍感であるが、逆にドイツの方ではネオナチなどの右翼的な動きにはきわめて敏感である。やはり、かつて国旗とされていた「ハーケン・クロイツ」を否定したものという安心感があるのだろうか。因みに現代のドイツの三色旗の色は、昔々の学生運動が使った旗の色に由来するとか、何かで読んだことがある。
私念にすぎないが、「日の丸」には「ハーケン・クロイツ」と同様に、お上(国家や天皇制など)からの統制、強制、自己犠牲などと言う嫌な思いが絶えずついて回る。これは日本で今日まで、真に民衆レベルの「革命」がなされなかったことの結果であろう。この意味で僕自身は「日の丸」をそのままで認めるわけにはいかない。敢えて愛国(愛郷)を言うとすれば、「共同体と自己との本質的な一体化の自覚」という点でしかない。しかし、国家という共同体がその成員に対して無責任極まりない今日の実状において、果たしてそういうことも言いえるのだろうかと危ぶむ。
さて、「シュチュルテン」の学生アルバイトも、今日は早めに上がるからと言いながら、出て行った。まさにFest(お祭り)だ。「がちょう姫」の銅像には、多くの若者が駆けのぼり、ぶら下がって、広場は人込みであふれかえっている。いつもはこわもての警察官たちも、この日ばかりは遠くで眺めているだけだ。
この点でも、最近の日本はやたら機動隊が出てきて取り締まっているが、まさか本気で渋谷の「ハチ公」の銅像がいたずらされることを心配して、あれだけの数の機動隊を動員したのでもあるまい。むしろ本音は、若者の「暴走」が政治性を帯びるのを恐れてでもいるのではないのだろうか。若者はすべてちんまりと、おとなしく、事を起こさないようにと管理・統制され、結局は体制内で小賢しく従順に生きて行くのがよいと考えているのが今の日本の政・財界の支配者たちである。しかし、体制を揺るがすほどのエネルギーを持たない社会は、社会自体としても魅力のない衰退社会とならざるを得ない。
先日のこの「便り」の中でも触れたが、ドイツでも若者の政治性の高揚はまだほど遠いようだ、しかしここにはまだエネルギーがある。日本社会との違いを感じる。
5日の新聞によると最終的には数千人の若者が広場を埋め尽くしたようだ。ベルリンの様子もテレビ放送していたが、日本の60年安保闘争時のような人だかりであふれていた。
僕の方も便乗して、と言っても広場でいっしょに騒ぐのもばかげているので、あくまで「シュチュルテン」の中で、なんとなく話しかけてくる客たちと一緒に盛り上がってしまった。今年ドイツに来て初めての飲み過ぎである。
実は7日のドイツ対スペインの試合も観戦して、その方の観戦記も書こうかと思っていたのだが、この数日前に急に陽気が冷えてきて(わずか2日間程度だったが)、治りきらない風邪のせいか、喉がひどく痛み出し、ビールで消毒するのも逆効果になりそうだったので、ついにあきらめてしまった。
《在独外国人について》
対アルゼンチン戦を見た翌日の日曜日は、さすがに37度の炎天下の中を外出したいとは思わなかった。アパートでじっと眠っているに限る。お昼過ぎに廊下に出たら、確か4~5年前にここのアパートのどこかの階で一緒だったスリランカ人と鉢合わせになった。向こうも僕の顔を覚えていたらしく、「ハロ」と言って笑いかけてくれた。「そこの部屋か?」と聞かれ、「そうだ」と答えてから、「君は元気なのか?」と聞いたらうなずいてにっこり笑った。美味しそうなカレーの匂いがしていた。
確か彼は亡命生活を送っていたように思う。あるいは学生として来たまま帰国できないでいたのかもしれない。かつての時もそうだったが、今も同様の貧しい生活を送っているように思う。どうやって生活しているのだろうか?このままここで年をとり、朽ち果てるつもりなのだろうか?以前に食事の支度をしながら、ほんの少し話をしたことを覚えているが、詳細は思い出せない。
ついでに触れれば、今年はここ4~5年の間では珍しく中国人の姿が目に付く。一時は、ドイツは中国人に占拠されるのではないかと思えるほど多くの中国人がいた。そのうち、中国本土の産業が高成長し、高学歴の労働力不足が起きた時、潮が引くようにたちまちいなくなった。そして今日の微増である。この事態をどう理解すべきであろうか?
金持ちの中国人の子弟が箔をつけるためにドイツに留学しているばかりとは限らない。というのは、それなら僕が住んでいるようなみすぼらしい住宅になんか入居しないであろう。
ゴキブリも寄り付かないような汚らしい台所で、ラーメンかなんぞを茹でている若い中国人とは時々挨拶ぐらい交わすのだが、どう見ても苦学生にしか見えない。
いろいろな事情で、ドイツに定住している外国人をよく見掛ける。ごく一部のエリート層を除けば、それぞれに大変な生活を送っているようだ。このアパートの前の道は、今も道路工事の真っ最中なのだが、現場には黒人やアラブ人の姿をよく見かける。彼らは肌の色で見分けがつくからそれとすぐ分かるのだが、トルコ人や、他のヨーロッパ各地からの出稼ぎなどは外目だけでは全く見分けがつかない。おそらくかなりの数の人たちが働いているものと思われる。
僕の行きつけの「シュチュルテン」も、ラルフはドイツ人であるが、シルビアはポーランドからきているし、ウエイトレスで働いている人たちも多くはポーランド人(今年は女子学生のアルバイトが多い)で、中にはトルコ系のおばさんもいる。多分シルビアと一緒に調理をやっているおばさんもポーランド人ではないだろうか。出される料理はドイツ料理とポーランド料理で、どちらもボリューム満点である。
またインターネット・カフェ(一昨年まではアフガニスタンの親父がやっているところに通っていたのだが、事情があって去年からインド人の店にした)は、去年はドイツ人に雇われる形でインド人がやっていたように思うが、今年は彼がすっかり取り仕切っている。そのせいか、夜も深夜近くまで店が開くようになった。
「シュチュルテン」の調理場も狭いうえに今年のこの暑さである。シルビアの顔を見るのがつらくなるほど、熱で顔を真っ赤にしながら働いている。しかも、長時間の労働だ。午前11時から、場合によれば深夜まで(ただし、調理は9時で閉めてはいるが)働いている。
いずれの在独外国人労働者も生活のために遮二無二働いている。それだけ生活するのが大変なのだろう。
そういえば、先日会ったときに、ドイツ人のコルドラさんもメルケル(現ドイツ首相)になってますますひどくなっているように思う、と嘆いていた。彼女にしてみれば、ご主人と義理の娘と相次いで入院させ、亡くしている。医療費問題、これからの老後の生活問題など身につまされる思いであろう。
追記。この記事を書き始めてからドイツでは異常な猛暑が続いている。昨日(10日)はフランクフルトで、なんと44度まで記録したそうだ。ここゲッティンゲンでも、ここ数日はあまりの暑さで目が覚める。夕方の7時にアパートを出ても空気がむっとしていて、少しも涼しくないどころか、かえって蒸し暑さを感じるばかりだ。部屋にいても外に出ても、汗が流れおちてくる。こんな経験をしたのはこれで二度目(確か7年ぐらい前)だと思う。思考減退。いつまで続くのやら。いっそ北ドイツに逃走しようかと考えたくなる。今年はユーロが安いのだけが唯一の救いだ。
2010.07.11記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion059:100712〕
(その2)
《やっと少し落ち着きを回復?》
6月30日の早朝にコルドラさんから電話がかかってきた。それまで何度かこちらから電話をしていたのだが、通じなかった。どうも彼女が携帯電話を職場に置いたままだったため、そうなっていたようで、さかんに謝られた。僕の方は下手なドイツ語を駆使して、ともかくも彼女に弔意を言わなければならない(というのは、彼女の義理の娘が、まだ若い身空で2か月前に癌で亡くなったからだ。このことは出発直前に彼女からの手紙で知った)。しかし、どんな辞書にも慶事に関しての文句は載っているが、弔意に関しての文句はあまりお目にかかれない。これは自国語について考えてみても同様で、あまり不幸なことは考えたくないということなのかもしれない。だからと言って無視したままでいるわけにはいかない。まあとにかく「和独辞典」を調べながらではあるが、「最初に心からのご哀悼を申し上げたい。本当に残念だと思う。」という意味のことを記憶して述べた。彼女は「どうもありがとう。若かっただけに本当に残念だったが、でも最近私たちもやっと平常の生活に戻った。」と言っていた。彼女とは7月2日に会う約束をした。 コルドラさんのことが気がかりだったので、この電話で僕の気持は少し安らいだ。
それではと、今度はボン大学のC君に電話した。彼にも何度かそれまでも電話していたのだが、多分パーティ(飲み会)に忙しくて不在続きだったのであろうか、この日やっとつながった。相変わらずの元気な声で、愈々ドクター試験の最後、口頭試問を残すのみだという。彼の長い苦労も報われる日が近いということなのであろう。
僕の方のアパート契約のやり取りと、実に不愉快な思いをしたことを話した。僕の語学力を全く信じていない彼は、「どうしてだれかドイツ人を同席させなかったんですか?全部一人で交渉したんですか?」といきなり切り出した。去年までの数年間だって自分一人で交渉してきたのだ、それでうまくいっていたではないか。今年の新しく替わったハウスマイスターのおばさんが悪辣なだけなのだ、と心で思った。しかし、ともかく今年でこのアパートとは縁切りだ、ということだけを彼に話した。
この日は外出を控え、酒も飲まず、初めて少し本を読み、昼寝をし、夜食の後、ベットに寝そべりながらパソコンに入れたジャズを聴いていたら、またまたそのまま眠ってしまった。夜中に一度起きたのだが、パソコンを消しただけで再び熟睡した。やっと心身とも休まり始めたのかもしれない。いやそうではなく、本来の怠惰な実体的な君に還っただけだ、という人は廣松関係論を再読吟味し、「実体信仰」から解放される必要があろう。
《持つべきものは友人だ》
ゆっくり眠ったせいか、朝起きてすぐに今日はどうしてもハウスマイスターのおばさんにねじ込んで、シャワー室のお湯が出ないことの苦情を言わないではおかないぞ、と決心した。とにかく一カ月分余分に家賃を払わされるのだから、問題のあることはなんでも断固苦情を言おうと改めて決意した。もし聞かないなら、金を払わないようにしようとも思った。10時前に事務所の前で待っていたが、相変わらず5分ぐらい遅れてやってきた。言うべきことをメモにも書いて、渡しながら文句を言った。今回はあっさり、すぐに修理をさせるからと返事をした。拍子抜けだ。(もちろん、午前中に修理は完了した。)
夕方7時に旧市庁舎前の「がちょう姫」(グリム童話に出てくる)の前でユルゲンと落ち合った。彼はその日はあまり時間がないというので、Zak(居酒屋の名前)に行った。よもやま話をした後で、僕がアパートの契約の話をし、かなり頭にきていることを伝えたら、契約書を見せろという。丁寧に眼を通していたが、彼自身で電話をして苦情を言ってやろうということになった。僕としてはお金の方はとうに諦めているが、このままでは気が済まなかったので、これで少し溜飲が下がる思いがした。
9時過ぎに彼と別れて、帰るには少し早すぎるので「シュツルテン」に行った。お客がほぼ帰ったころ、シルビアが来て「キヨシは残って飲んでいってもいいよ」と言ってくれた。間もなくマスター(彼の名前はラルフというそうだ)が来て、二人だけの飲み会になった。再びアパートの話になり、今回の事態の話をしたら、今度は彼が、電話をしてやるから連絡場所を教えろという。先ほどのユルゲンとのことがあるので、今は解らないから、と誤魔化したが、このことも大変うれしかった。
確か去年も書いたように思うのだが、事ほど左様に一般的にドイツ人は親切である。おせっかいなところがあるのだが、シャイなので、こちらから言い出さないと向こうから親切さを押し付けはしないのだ。12時過ぎに外に出たら、風が冷たくて気持ちよかった。
ドイツは大統領選挙の真っただ中である。「シュピーゲル」誌によれば、「これという候補は見つからない」そうだ。
もう一つ興味深そうな記事が“Die Zeit”紙のトップタイトルになっていた。それはダ・ヴィンチの例の最後の晩餐の絵をもじっていて、キリストがたった一人座っている。そしてこうつぶやいている。「汝らはどこにいるのだ、ドイツの若者たちよ」と。若者の政治離れを嘆いているのだろうと僕は想像している。残念ながら引越しの最中で、重い荷物を増やすことは考えたくなくてそのままにしていたら、次の機会にはもうなくなっていた。売れてしまったのではなくて、新しい号のものになっていたということである。
翌朝8時ごろにコルドラさんから電話がかかってきた。朝食を一緒にしないか、という。もちろん承知した。毎朝8時にスーパーマーケットが開くのだが、僕の一日は大抵、8時に隣のスーパーにいって朝食の食材を買い、部屋で少し手を加えて食べることから始まる。この日はそれを省いて、9時に彼女が迎えに来るのを待って、彼女の知っているレストランで朝食をとることになった。
約束どおり9時に車でやってきて、郊外の定食屋に行った。こんな時間にあいているのはこんなところしかない。昨夜遅くまで飲んでいたので、あまり食欲がなく、コーヒー2杯と紅茶を1杯、モッツァレラチーズの盛り合わせとドイツパン1個だけを食べた。そのまま1時までここで彼女と話し込む。それから彼女は仕事に行くのだが、その前に僕をアパートまで送ってくれた。8月には休暇を取るつもりだと言っていた。
外国ではその国の友人を作るまでが一苦労である。言葉ができないとうっかり話しかけることもできないからだ。友人ができると異国での生活が楽しくなる。生活習慣の違い、考え方のちょっとした違いなどを楽しむことができるからだ。
日本ではまだ梅雨の真最中で、じめじめした天候が続いていると聞く。ドイツでは例年より早めだが、このところ夏本番になった観がある。連日30度を超す猛暑である。週末には37度ぐらいになるそうである。ビールがひと際旨くなる。
2010.07.03記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion054:100708〕
(その1)
《出立》
6月26日の午後にアパートを出発して、千葉市の義姉夫婦の家に行く。これはここ数年の慣例になっている。アシアナ航空の格安搭乗券を利用し始めた時、我が家からでは朝一番の電車に乗って出かけても成田発の飛行機には間に合わないため、家内が姉に頼んだことから始まった。今回はスカンジナビア航空で行くことになったのだが、まあ通常通りお世話になることになった。お互いに年をとり、先方の娘たちが大きくなって独り立ちした昨今では、年にこの時一度程度の顔合わせになってしまっている。
さて、アパートを出たとたんにポツポツ降り始め、大きな荷物を持っているため少し心配になったが、それでもJRの駅までは徒歩5分ぐらいなので、何とか傘をささずに辿りつくことができた。ここ数日のいかにも日本の梅雨といったいやな気候には本当に悩まされる。何もせずにいても肌に汗がまとわりついてくるし、外も内もジトジトベトベトして、実際に気分までもカビ臭くて病気になってしまいそうだ。僕ら夫婦はクーラーが嫌いで、普段はほとんど使わない、たまに風が凪ぐときに除湿をかける程度だが、それもほとんどこの季節に集中している。
千葉で一泊した後、今回は割に余裕を持って出発の朝を迎えることができた。空港の荷物チェックでちょっと引っかかったが、それは検査官の方の見間違いだったようだ。
飛行機は、午前11時50分に予定通りに成田を飛び立った。乗客は欧米人と日本人が半々ぐらいだったが、座席は最初から双方棲み分けされていた。また、機内でのアルコール飲料は、食事のとき以外は有料とのことだった。乗り換えのコペンハーゲン空港までは約11時間、座席のテレビで映画を2本観て、居眠りをしているうちに到着した。
《乗り換え》
コペンハーゲンは小さな空港であった。改めて手荷物検査を受けたが、その厳重さには驚かされた。ポケットの中のハンカチやティッシュまでもとりださせられたからだ。過去に何らかの事件が起きた後遺症ででもあるのだろうか…。しかし、乗り換えの表示に日本語があったのには二度びっくりさせられた。
ハノーファー行きの便の出発ゲートは、パスポートチェックの場所(ここには大勢の人が並んでいるのに、検査官はただの一人だけで、しかも実にゆっくりとしていた)からはずいぶん遠いところにあった。途中いろんな店が並んでいたし、大勢の人がまるでショッピング街を冷やかしてでもいるようにそぞろ歩いていた。乗り換え時間は1時間で、30分前までには出発ゲートに行くように指示されていたため、不慣れな私としては、ひたすらゲートへと急いだ。
B9というゲート番号は、手持ちの切符には書き込まれておらず、空港の表示板で確認してから初めてその場所が分かった始末。しかもこのB9というゲートは最近になって新しく付け加えられたものだという。上手く乗り換えができるだろうか、と多少不安がよぎる。
しかし、汗だくで急いだ僕の努力は全くの無駄になった。というのは到着したゲートに待っていたのはただの二人だけ、空港関係者らしい人の姿もない。今度はここで間違いないのだろうかと不安になる。再度のチェックのために表示板を探して見直した。間違いないはずだ。それにしても、時間的に考えても、乗客はどうして来ないのだろうか。関係者を見つけて聞こうにもデンマーク語はまるで話せない(ときどき放送されているデンマーク語は、ドイツ語とは似て非なるもののように思える)。待合室の中や外をうろうろしていて、出発15分ぐらい前というところで、やっと人々が集まってきた。乗務員らしい人が来たのはそれから5分遅れで、さあ機内に乗ってくれといわれた。その時になってやっと、ここは田舎の空港なのだと初めて気がついた。
《ハノーファー空港へ》
乗ったのは小型機だったが、それでも機内は閑散としていた。これで採算が合うのだろうかと、変な心配をしてしまう。機内サービスは、小さな紙パックのオレンジジュースだけ。窓際の席だったので、ずっと外の景色を眺めながらの旅となった。最初は美しい海と小さな島々が見えていた。海には風力発電用の風車が沢山立っていた。やがて飛行機はドイツと思しき土地の上を飛び始める。今度は見はたす限りの田園と森である。ところどころに集落が点在している。集落間を結び、田園や森を突っ切って直線につくられた道路が見えた。それにしてもこの環境は見事である。日本と比べるとどうだろうか。東京から九州までの飛行機から見える景色は、山並の緑とその淵に密集して続く人家の灰色と、瀬戸内海辺の多少のどかに思える内海の景色である。どうも人が人として快適に住める環境とは縁遠いように思えてならない。列島全体が「都会色」とでも呼びたくなるような同じ無機質色で塗りこめられているように思う。これは梅雨以上に住人たちを不快で不安な方向へと駆り立てる。思考力は低下し、イライラした気分だけが先行してくる。
ハノーファー(日本では英語読みしてハノーバーと呼ばれる)はドイツでも有数の大都会であり、メッセが開かれることでも有名である。時間的に近いと思われるあたりで、それらしき都市を探してみたのだがついに見当たらなかった。多分、ほとんどのドイツの都市が森にすっぽり囲まれた環境の中にあるせいだろうと思う。
ハノーファー空港もそれほど大きくはなかった。日本の地方空港ぐらいである。ともかくそこに無事到着し、預けた大荷物を受け取りにコンベアーの場所に行った。コンベアーは3台ぐらいあるのだが、廻っていたのは2台で、そのうちの1台の周りに人だかりがしていた。フランクフルトのように到着便によってどのコンベアーに行くかの表示もなかった。なんとなくその人だかりのところに立っていたら、それほど待つこともなく僕の荷物が運ばれてきた。それを引っ張って、今度はハノーファー駅までSバーンという市電に乗っていくことになる。実は友人のユルゲン君が9時にゲッティンゲン駅のホームで僕を待っていてくれる約束になっている。その時間だけはキープしなければ彼に迷惑をかけることになる。しかし、Sバーンには改札などはない(ドイツは原則的に改札がない)し、係員の姿もない。機械で切符を買うしかないのだ。確かに去年は上手く買えた、だが人間は1年たてばすっかり忘れるものである。機械の前でハタと困ってしまった。しかも次々に人が並んでくる。親切な女子学生がどうしたのかと尋ねてきた。理由を言ったらゲッティンゲンまでの安売りの乗車券の表示を出してくれた。27ユーロだった。しかし、それだとユルゲンとの約束よりも1時間も早く着いてしまう。これでは時間のつぶしように困りそうだ。そのため、あくまで9時にゲッティンゲン着の時刻にこだわった。そのうち彼女の方の乗車時間が来てしまい、「ごめんなさい」と言いながら去っていった。仕方なく再び自力で機械を操作し、何とか切符を手にする事が出来た。34ユーロ。次のSバーンの発車時刻まで30分以上も待たされた。全てが初めての経験(ハノーファー空港を使うのは初めて)なので、上手く乗り継ぎができるかどうか、再び心配になってきた。ハノーファー駅に着いたら、Sバーンで隣り合わせて座っていた二人組のおばあさんが、どうぞ先に降りなさいといって親切に乗り換え口を教えてくれた。
いろいろともたついてしまったが、何とか9時ゲッティンゲン着予定のICEに乗ることができた。ところが今度はこの新幹線が発車時刻が過ぎてもハノーファー駅で20分もの間動こうとしないのである。その間何の説明らしき放送もない。僕はつくづく反省した。先ほどの女子学生のいうことを聞いて27ユーロの切符を買い、ゲッティンゲンで時間つぶしをすればよかったと。後の祭りである。
20分遅れで到着したのであるが、彼はホームで待っていてくれた。握手をして20分遅れたことを詫びたら、笑いながら、僕は先日やはりICEで1時間遅れを経験しているから平気だよといった。この日のドイツはかなり暑い日で、彼は半ズボン姿だったし、僕は上着を手に持っても動くと汗が出るほどの陽気だったが、彼の話だと前の日までは連日12度C位の寒さが続き、この夏はどうなる事かと心配したほどだったようだ。
《ユルゲンのアパートにて》
彼の車で彼のアパートに行く。彼の部屋は日本流にいえば4階にある。恐縮にも、重い荷物は彼が運びあげてくれた。先ずシャワーを使わせてもらう。それから早速ドイツビールで乾杯となる。彼は僕の好みを覚えてくれていて、「アインベッカー」と「ベックス」の両方を買っていてくれた。飲み比べてみると「アインベッカー」の方が少し苦みが強いように思われた。11時半過ぎまで話をした(といっても、まだ僕の耳はネイティブのドイツ語にほとんどついていけなかったのであるが)。それからベットにもぐりこんだが、さすがにその後、朝まで全く覚えていないほどの熟睡、快眠であった。
翌朝、ドイツ風の朝食を済ませ、彼は8時半に会社に出かけ、僕の方は鍵のスペアを預かって更に30分ほどゆっくりさせてもらった。それからいつも借りているゴスラーシュトラーセのアパートに部屋を借りるために向かった。この日も前日同様に暑い日であった。
荷物を引きずりながら途中の公園まで来たら、ベンチに腰かけていた年寄りの親父に突然時間を尋ねられた。なんだかドイツ語のレッスンを受けているようだなと思いながら、今9時20分だと教えた。
《全くひどい話》
借りるためのアパートのビューロー(事務所)に10時10分前についた。僕はてっきりウイークデイの10時にはここは開くものと思っていた。ところがである、その日(6月28日)から毎週ビューローは月曜日と木曜日の二日だけしか開けず、しかも、各日2時間のみしか開けないとの張り紙がしていた。僕は少なくとも1カ月ほど前にこのビューローあてにメールをして、28日の午前中に行く旨を連絡してある。その際「返事を待つ」とも書いているのに、全くのなしのつぶてである。その結果がこれだ。全く頭にきた。すぐに管理人に電話をかけた。メールで今日来ると予告もしてある。今すぐ来て部屋を都合しろ、と言ってやった。管理人曰く、遠くに住んでいるので行くのは無理だ、すまないが明日もう一度来てくれないか、と。後はお決まりの『すみません(Es tut mir leid.)』の一点張りだ。
実際にはそのままホテルにでも行って泊まり、ユルゲンにはこれ以上の迷惑はかけたくないと思っていた。しかし、考えてみたら大概のホテルのチェックインは午後3時ぐらいからであり、しかも僕は重い荷物を持っているためチェックインまでの時間をどうすべきかが判らない。
やはりここはユルゲンに迷惑をかけるが、もう一晩泊めてもらう以外になさそうだと思うにいたった。早速彼に電話をしたら、もちろんだと快諾してくれた。困った時に頼れるのは友人だ。外国ではなおさらのことだ。
気を取り直して再び彼のアパートに荷物を運びこむ。その後は、あまり勝手をするのも失礼なので、外出し、街の散歩をしてから大学図書館に行き、5時半までヘーゲルの『法哲学講義』の原書を眺めて過ごした。久しぶりに一日が長く感じられた。
6時くらいに彼のアパートに帰ったら、彼の書置きがあり、僕も紹介されたことのある彼の友人と一緒にサッカーを見ながらパーティをやるので、僕にも来てくれと書かれていた。書置きに指定された番号に電話をして、申し訳ないがそれなら僕は「シュツルテン」(居酒屋の名前)に行きたいから、今日は別行動にしようと断った。
《シュツルテンにて》
7時ごろに件の居酒屋に行く。表の椅子にかつてよく知っている2m3cmあるマスターが腰かけてお客と話をしていた。僕が挨拶したら、「ハロー、キヨシ」と言いながら握手をしてきた。店の中に入るか入らないかで、調理場からシルビアが飛び出してきた。お客と学生アルバイトの若い男女がびっくりしてこちらを眺めていたのが、なんとも照れ臭かった。
彼女は僕らが出した手紙を受け取ったこと、その返事を含めて手紙を1本とメールを2回出したのだが受け取ってくれたのかと聞く。残念ながら、どちらも届いていない。あるいはメールの方は「迷惑メール」に分類されて消してしまったかもしれないが。
久しぶりに飲む「ヴァールシュタイナー」(ピルスビアー)の味は格別である。
その日は早々と店が閉められた。9時には表の窓を閉め、椅子やテーブルを片づけて、マスターは僕と差し向かいで話をしてくれた。僕が「ドイツ語をほとんど忘れてしまったよ」と言ったら、笑いながら「シルビア、キヨシはドイツ語を忘れたそうだよ」と大声で伝えた。いつの間にかピルスナー2リッターと黒ビール0.5リッター飲んでいた。
10時半ごろユルゲンの部屋に帰る。そのままベットにひっくり返り、眠っていたら、ユルゲンが返ってきた。話もそこそこに再び夢の世界に入っていく。
《更にひどい話》
翌朝、前日と同様に朝食をとり、再びゴスラーシュトラーセに向かう。やはり10時10分前に到着した。しかし今度は管理人のおばさん(去年とは変わっていて、もっと年をとった人になっていた)は10分以上遅れてやってきた。そしていよいよ話合いの段になって、僕がメールを出したこと、昨日も来たのに開いていなかったこと、また例年のことだが僕は2ヶ月間しかいられないこと、などを話したのに対して、彼女は都合よくメールの件は無視し、昨日は休暇中だったで済ませ、今年から最低3カ月契約でないと受け付けない旨を一方的に通告してきた。去年と今年とでは違うのだと、頑強に自己主張するだけで、全く埒が明かないありさまである。しかも、こちらが3カ月分払うから6~8月の3カ月で契約したいといっても、それもだめで、あくまで7~9月だと言い張るのである。保証金(210ユーロ)を返したくないとの魂胆からではないのかと疑いたくなる。
今年限りで、来年からは別のアパートを探そうと決めて先方の言うとおりに契約をした。これで、ひとまず部屋だけは定まったわけだが、調理場の汚さは異常であり、しかも電熱器もほんの数台しか使えなかった(調理をしていた中国人に聞いた話だが)。調理室が汚いと僕が言っていることも無視して、使用料を払うのかどうかと聞いてきたので、使用しないからと言ってやった。どこの世界にもあくどい奴はいるものだが、金融業と不動産屋の世界は(もちろん皆が皆そうだと言うつもりはないが)万国共通のものなのかなとふと思った。
こんなことでくじけたらドイツが嫌いになりそうだと思い、その晩も「シュツルテン」に行って美味しい料理と美味しいビールで憂さ晴らしをした。
まだまだ先は長い。この嫌な状態を好転させる方策を考えて行かなければせっかくの休暇が無駄になってしまう。ユルゲンやコルドラやシルビアなど、友人の輪は確実に増えている。後は自分の課題を確実にこなしていくことだろう。
シェクスピアがいうように「終わりよければすべてよし」にしたいものだ。
2010.6.30記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion048:100703〕
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