巨星墜つ ―― 広島のシンボル・庄野直美氏が死去 -原爆被害の実相解明に尽力-
- 2012年 3月 14日
- 評論・紹介・意見
- 原爆反核平和運動岩垂 弘広島庄野直美
「巨星墜つ」。その人の訃報に接して、まず私の脳裏に浮かんできたのは、そうした思いだった。その人とは、庄野直美・広島女学院大学名誉教授。2月18日、肺炎のため86歳で亡くなったが、庄野氏こそ、広島の反核平和運動のシンボルとされてきたき著名人の1人であり、広島原爆の実相を内外に伝えるために大きな足跡を残した理論物理学者だった。今年に入って、服部学・立教大学名誉教授が死去するなど、戦後の反核平和運動を理論と活動の両面でリードしてきた学者・研究者の訃報が相次ぎ、残念でならない。
庄野氏は広島県の戸河内村(現安芸太田町)の生まれ。九州帝国大学理学部理学科に入学するが、1年に在学中の1945年8月6日、米国によって広島に原爆が投下される。3日後に広島市に入り、両親の生存を確認するが、原爆によるすさまじい惨状を目撃する。自らも残留放射能を浴びて被爆者となる。こうした経験が、後年、核兵器廃絶に向けた運動に積極的にかかわる母胎となる。
九州帝国大学理学部理学科卒業後は、研究室に残って原子・原子核・素粒子を研究。1950年に広島大学・理論物理学研究所(広島県竹原市)へ移り、1961年には広島女学院大学(広島市)の教授に就任する。
庄野氏の功績は、まず、広島原爆の被害の実相解明に寄与したことだろう。最初は、専門の理論物理学の立場から、原爆の炸裂によって生じた放射線が人体に与える影響の研究に従事した。広島、長崎の原爆被害の実態を解明したものとしては、広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編の『広島・長崎の原爆災害』(1979年、岩波書店)が最も権威あるものとされているが、34人の原稿執筆者のうちの1人が庄野氏で、同氏は物理学関係を担当した(物理学関係の執筆者は5人)。
同書の刊行に先立つ1977年夏には、内外のNGO(非政府組織)が中心となり、被爆の実相と被爆者の実情を明らかにしようと、『NGO被爆問題国際シンポジウム』を東京、広島、長崎を結んで開いた。庄野氏はその運営委員会の日本側委員を務めた(運営委員は国際側、日本側とも各10人)。
その後、庄野氏は、単に物理学の観点からだけでなく、被害の総体を総合的な観点から明らかにしようとする。その成果が、同氏編著の『ヒロシマは昔話か―原水爆の写真と記録―』(1984年、新潮文庫)だ。庄野氏には多くの著作があるが、これこそ氏の代表作だと私は思う。
第1章「その日、子供たちは」、第2章「肉親との再会・別れ」、第3章「裸になった街」、第4章「体に残された傷跡」、第5章「変えられた人々の暮らし」、第6章「それでも核実験は続く」、第7章「わたくしたちは生き残れるか」、第8章「ヒロシマは昔話か」という章立てからも分かるように、広島原爆の被害の全体像の解明に迫ったものだ。
本書の解説を書いた大江健三郎氏は、その中で「1945年8月6日午前8時15分に広島で起っ出来事。庄野さんは子供たちの文章を引用して、被爆時の経験のいくつもの局面に光をあてたのち、原爆のひきおこした爆風、熱線、そして複合された災害として簡明なまとめを提示します」「この小さな本が、原爆経験の全体像について、深い内容をはらんだ入門書たりえているのは、医学的な被爆の障害についての、新しい資料に立つ解説がよくなされているのに加えて――その点について一例をあげれば、原爆による遺伝的な障害をめぐる部分など、情理かね備えたものです――社会的な側面からの眼くばりも強くなされているからです。原爆被災は人を殺し傷つけたのみならず、生き延びた人びとを、社会的・経済的に痛めつけ、あえていえば、人間としての生の全側面について圧迫したのであり、それは現在までつづいているのです」と述べている。
被爆の実相を後世に伝えねば、という願いも強かった。そうした見地から、被爆建造物の保存のためにも奔走した。広島平和記念資料館が1996年に『ヒロシマの被爆建造物は語る――未来への記録』を刊行した時、庄野氏はその監修を務めた。
庄野氏の功績の第2。それは、反核平和運動がスタートして以来、絶えずその運動に積極的にかかわったことだろう。学者でありながら「象牙の塔 」に閉じこもることなく、運動の現場に出ていった。夏に開かれる原水爆禁止世界大会には必ず参加したし、広島市で開かれる反核平和のための市民運動では、いつも主催者の位置にいた。
原水爆禁止運動が分裂すると、その統一のために奔走した。1977年に、分裂していた運動が14年ぶりに統一を回復し、統一した世界大会を開くために原水協、原水禁、市民諸団体が参加する「原水爆禁止統一実行委員会」が発足すると、庄野氏は統一実行委幹事会の幹事オブザーバーを務めた。関係各団体からの信頼が厚く、幹事会の助言者的な役割を期待されての就任と言ってよかった。
それだけに、1986年に運動が再分裂すると、庄野氏の落胆と失望は大きく、挫折感と無力感を味わったようだ。
それに、大会や集会への参加を続けただけではない。1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を創設し、理事長に就任した。反核平和のために活動する個人・団体に助成金を贈るためのファンドで、全国から寄付金を集め、これを基に20年間にわたって助成を続けた。
反核平和運動にかかわった学者・文化人は少なくない。が、反核平和のために活動する個人・団体に財政的支援を継続的に行った人は私の記憶では庄野氏のほかには見当たらない。こうした活動に対し、2005年に広島市から「広島市民賞」が同氏に贈られた。
陽気で、気さくな、人懐こい人柄だった。ビールが大好き。夏の原水爆禁止世界大会で、その日の行事が済むと、市内のビアホールで、大会参加の活動家と議論を戦わせながらジョッキを傾ける庄野氏の姿がみられた。
個人的にも、庄野氏にお世話になった。私が、ルポライターの中島竜美氏(故人)との共編で原爆に関する論考を集めた『日本原爆論大系』(全7巻、1999年、日本図書センター)を刊行するにあたり、庄野氏に監修者をお願いしたところ、快く引き受けてくださった。
被爆後の広島は、反核平和運動で指導的な役割を果たした学者を輩出してきた。まず、被爆者の森瀧市郎氏。広島大学教授(哲学)から、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)理事長、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)代表委員となり、世界を駆けめぐって「核廃絶」を訴えた。次いで、今堀誠二氏。広島大学教授(中国近代史)、広島女子大学学長を務めたが、そのかたわら、被爆問題や原水爆禁止運動について積極的に発言した。さらに、飯島宗一氏。広島大学教授(医学)、広島大学学長、名古屋大学教授、名古屋大学学長を歴任し、やはり反核平和問題で積極的に発言した。
これらの学者・研究者はいわば「ヒロシマ」を象徴する人たちで、いうなれば広島のシンボルだった。庄野氏もその人脈につながる人だったと言えるだろう。
「巨星墜つ、だって? おれ、そんな大物じゃあないよ」。耳をすますと、あの世で高笑いする庄野氏の笑い声が聞こえてくるような気がする。
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