「いのちの安全保障」を提唱する -大震災から1年、いま論ずべきこと -
- 2012年 3月 15日
- 時代をみる
- 3.11安原和雄新聞社説
日本そのものが再生への道を模索しているときである。大震災から1年のこの機会に新聞メディアもありきたりの社説から脱皮して、再生日本を担うジャーナリズムとしての「責任」を自覚し、担ってほしい。そのキーワードとして新しい安全保障観「いのちの安全保障」を提唱したい。
この「いのちの安全保障」は既存の「軍事力中心の安全保障」、さらに最近の「人間の安全保障」とは異質である。「3.11」で無惨にも多くの「いのち」が奪われてから1年のこの機会に論じてみるに値するテーマではないだろうか。(2012年3月15日掲載)
大手紙と被災地の地元紙は、大震災と原発惨事から1年を迎えて、社説でどう論じたか。それを追跡しながら、「いのちの安全保障」に言及したい。
(1)毎日新聞 ― 異色の連載社説
3月3日付から「震災1年」という共通タイトルの連載社説を掲載した。最終回⑧(3月12日付)までの社説の主見出しは次の通り。
①爪跡と再出発=私たちは何を学んだか
②放射能との闘い=福島の再興を支えたい
③多難な復興の歩み=再生へ壁を超えよう
④原発政策の転換=脱依存の道筋早く示せ
⑤エネルギー政策=国民本位への転換急げ
⑥首都直下地震=世界一のリスク克服を
⑦未来のために=「NPO革命」を進めよう
⑧世界と日本=手を差し伸べる国家に
<社説の骨子> 助け合いの絆と危機の連鎖
ここでは最終回⑧「世界と日本=手を差し伸べる国家に」の骨子を以下に紹介する。
大震災は、世界が二つの意味でつながっていることを教えてくれた。その一つは、国境を超えた助け合いの絆だ。災害を人ごとだと考えず、他国の苦難に積極的に支援の手を差し伸べるたくさんの国や人々がいるからこそ、被災国は立ち直ることができる。
もう一つは、危機の連鎖である。原発事故は国境を超えて放射能を拡散させる。また一つの国で大きな事故や災害が起きれば、世界経済は一時的にせよマヒしかねない。日本の震災、タイの洪水しかりである。危機を一国の中に封じ込めることはむずかしい。
助け合いの絆を考えるとき、私たちは日本国の特殊性を頭に置きたい。日本は経済大国であり、一方で地震や津波などの自然災害のリスクにさらされている先進国はない。
東日本大震災では年間750ドル(6万円)以下で暮らす最貧国のうち、25カ国から支援を受けた。感謝を胸に、今度は救う側の国として、世界で重きをなす国になりたい。「人間の安全保障」という考え方に血を通わせ、肉づけをする。それは震災の教訓を踏まえた日本だから可能な、共感される国家理念になるはずだ。
危機の連鎖への対応は、原発事故でも重要だ。事故の実態を世界に説明し、再び大事故を起こさないため努力することは、ヒロシマ、ナガサキに続きフクシマという放射能の悲劇を経験した日本の、国際社会に対する貢献にもなろう。
<安原の感想> 「人間の安全保障」から「いのちの安全保障」へ
連載社説はあまり前例のない新趣向といえよう。力作揃いだが、感想を述べるためにあえて最終回の「世界と日本」を選んだ。それは、震災後の再生をめざすべき日本が世界の中で何をどう貢献できるかをテーマにしていると読み取ったからである。当然とはいえ、このテーマを取り上げているからこそ、連載社説も読み応えのある作品となっている。
特に着目すべきは、「人間の安全保障」を「共感される国家理念」として打ち出している点である。ただあえて感想をいえば、間違ってはいないが、今ひとつ不十分な提案ではないかと考える。
私はここ数年来、「いのちの安全保障」を提唱してきた。この新しい安全保障は、①人間に限らず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること、②軍事力神話の時代は終わったという認識に立って、非武装中立の立場を打ち出すこと、③平和をつくるための構造変革、すなわち「簡素な経済」をつくっていくこと ― などの6本柱からなっている。
安全保障観の推移を辿れば、日米安保体制に代表される「軍事力中心の安全保障」から「人間の安全保障」(国連報告)へと変化しつつあるが、真の平和(=いのちの尊重、非暴力)を構築するためには、「いのちの安全保障」が求められる。
特に「3.11」で人間に限らず、自然、動植物を含めて多くのいのちが無惨にも奪われた。だからこそ今、改めて「いのちの安全保障」が必須のテーマとなってきたと考える。
(参考資料・安原和雄〈「いのちの安全保障」を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった〉足利工業大学「東洋文化」第25号、平成18年)
(2)朝日新聞 ― 東電料金の値上げを批判
朝日新聞は3月10日付から12日付まで「大震災から1年、津波からの復興、福島の再建」という共通タイトルの連載社説を3回掲載した。社説の主見出しは以下の通り。
・3月10日付=もっと「なりわいの再建」を
・3月11日付=つながり取り戻せる方策を
・3月12日付=信なくば、復興は進まず
さらに3月13日付「東電値上げ 燃料費下げる努力は?」という見出しの社説である。ここでは連載社説ではなく、13日付社説と同日付投書「声」=「東電の怠慢 これ以上許すな」を紹介する。
<社説の大要> 「値上げは権利」ではない
まず社説「東電値上げ」(大要)は次の通り。
東京電力が、大企業向けに続き、家庭向けの電気料金も約10%の値上げをするという。平均的な家庭で月600円程度の負担増になる。値上げの理由は燃料費だ。原発が止まって、代わりに火力発電が急増した。燃料費は前年に比べ4割り増しになっているという。
燃料の多くは液化天然ガス(LNG)で、問題は、震災前から日本勢がこのLNGを「高値買い」し続けていることにある。天然ガス市場は今、大転換期を迎えている。先行する米国では劇的に値段が下がり、日本の輸入価格の6分の1ほどで流通している。
ところが日本勢が買うLNGは下がらない。原油価格に連動した値決め方式で買い続けているためだ。この方式は1970年代の石油危機を機に始まったが、40年経ち合理性はとうに薄れた。欧州勢は産油国と粘り強く交渉し、日本の7割前後の価格で仕入れつつある。
日本の電力会社も、ガス会社や商社と共同でLNGを買ったりする例はある。
だが本気で価格を抑えようとする機運はなかった。高値で仕入れても料金に転嫁して利益が出る制度に守られてきた。顧客を大切に考えるなら、まず燃料調達の原価を下げる交渉に努めるべきだ。
大震災で多くの工場が被害を受けた。大変な苦労で操業を再開している。だがコスト削減に努め、「値上げは権利」とは決して言わないだろう。そんなことをすれば客は他社を選ぶ。電力会社も、この厳しさを見習わなくては理解を得られない。
<投書の大要> 東電の怠慢 これ以上許すな
投書「東電の怠慢」(大要)はつぎの通り。投書者=保険コンサルタント 及川輝治 東京都葛飾区 82歳。
東電原発事故による被害は全国に及んでいる。この責任は東電にあるのに、その意識が全く感じられないことに驚く。被災地・被災者への補償も遅々として進まず、原子炉の制御も危険な状況を脱していない。自らの事故原因究明も行わず、民間事故調への協力さえ拒否している。
にもかかわらず、進んでいるのが電気料金の値上げである。企業17%、民間約10%という値上げが独り歩きし、既成事実化が進んでいるのにはあきれるほかない。
今後予想される膨大な補償と除染、廃炉の費用など、血税の投入は不可避とされつつある。いまなすべきことは発電所や送電線の売却に踏み切ることだ。そして発送電分離を実現し、電力の自由化を進め、新たな電気事業者の参入を促し、原発廃止への道を探る。これ以上、東電のサボタージュを許してはならない。
<安原の感想> 地域独占・東電の傲慢な体質
朝日新聞の上述の社説にも投書にも教えられるところが少なくない。そこには地域独占・東電の傲慢な体質が浮かび上がっている。
例えば社説の「本気で価格を抑えようとする機運はなかった。高値で仕入れても料金に転嫁して利益が出る制度に守られてきた」という指摘は見逃せない。長期間の「地域独占による無競争」という「甘えの構造」にどっぷり浸かって、その「甘えの構造」そのものに気づこうともしなかったということではないか。
一方、投書は「原発事故による被害の責任は東電にあるのに、その意識が全く感じられないことに驚く」、「料金値上げが独り歩きし、既成事実化が進んでいるのにはあきれるほかない」と指摘している。「驚くこと、あきれること」のみ多く、それが体質化し、自己変革力を失った組織の行方はいかにあるべきか。もはや解体して出直す以外に打開策はないというべきだろう。
(3)福島民報 ― 「英知集めふるさと再生」
毎日、朝日以外の大手紙は、東京新聞社説=3月10日付から「3.11から1年」の共通タイトルで「被災地に自治を学ぶ」、「私たちは変わったか」と題する二つの連続社説を掲載した。さらに読売新聞社説=3月11日付「鎮魂の日 重い教訓を明日への備えに」、日本経済新聞社説=3月11日付「しなやかな備えで災害に強い国へ」など。
ここでは甚大な被災地(福島、宮城、岩手の3県)の地元紙に目を向けたい。
*福島民報社説=3月11日付「〈3.11を迎えて〉英知集めふるさと再生」、12日付「〈長引く避難生活〉心のケアより重要に」、13日付「〈原発事故賠償〉法改正し支払い急げ」
*河北新報社説=11日付「大震災1年 沿岸漁業の再生/計画のスピードアップ図れ」
*岩手日報社説=11日付「鎮魂と心の復興 思い忘れず前に進もう」
被災3県のうち東電福島原発事故の被害を直接受けた福島県の地元紙、福島民報社説(11日付)の大意を以下、紹介する。
<社説の大意> 復興はようやく出発点に
巨大地震と大津波に加えて東電福島原発事故が本県を襲った。人類が初めて経験する複合災害は今なお進行中だ。あらためて犠牲者の冥福を祈るとともに、「うつくしま」の再生を誓う。
県内の死者・行方不明者は二千二百人余に上る。高い放射線量のため、捜索さえ手つかずの区域が残る。原発から遠く、家屋に被害のない住民までが古里から切り離された。現在約十六万人が避難生活を強いられる。県民の多くが不安を抱えて暮らす。
健康への心配、土壌や水域の汚染、農林水産物や観光業の風評被害、人や地域の分断など過酷な現実に直面してきた。いわれなき偏見や差別とも闘う。復興はようやく出発点に立ったばかりだ。美しく豊かな県土をよみがえらせるには長い年月を要する。心を一つに英知と力を集めなければならない。
原発の安全神話は崩れた。政治や行政への信頼も揺らぐ。再発を防ぐ国家的な態勢が急務だ。中央依存の地域づくりからの脱却が求められる。地方の真の自立を実現すべきだ。
〈福島に生まれて、福島で育って、福島で働く。福島で結婚して、福島で子どもを産んで・・・それが私の夢なのです〉。昨年八月の全国高校総合文化祭で示された若者の願いが頼もしい。震災以降に一万三千人を超す新たな命が県内で誕生した。未来の福島を担う希望になる。
震災は絆の大切さを教えた。思いやり、助け合う心が苦難に立ち向かう活力となった。県民の財産だ。国内外からも支援や励ましが相次ぐ。人や地域の連帯とつながりを一層強め、笑顔を取り戻そう。
<安原の感想> 「地方の真の自立」と「いのちの安全保障」と
原発の安全神話が崩壊し、一瞬のうちに日常の暮らしに信じ難い激変をもたらしたのが一年前の「3.11」だった。この「過酷な現実」からどのようにして立ち上がり、再生を図っていくのか。社説も指摘しているように「地方の真の自立」をどう実現していくかにかかっている。いいかえれば「いのちの安全保障」をどう生かすかである。
多くの人間のいのちが奪われただけではない。自然、動植物のいのちも「高い放射線量」の犠牲になっている。「土壌や水域の汚染」も自然のいのちの汚染にかかわっている。
夢、希望、人と人との絆、思いやり、助け合う心、笑顔 ― などの大切さも忘れてはならない。それが苦難に立ち向かう活力として働くに違いない。そのことを社説は説いてやまない。考えてみれば、夢、絆、思いやり、笑顔などは「軍事力の安全保障」とは両立しない。むしろ「いのちの安全保障」に安心とふくらみを与えてくれる。
人間中心の「人間の安全保障」も重要だが、やはり広くいのちを視野に取り込み、打開策を実践していく「いのちの安全保障」という視点を共有したい。そうすることによってやがて「地方の真の自立」、「美しく豊かな県土」がよみがえってくることを心から願っている。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(12年3月15日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1866:120315〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。