哀愁の漂う小話一つ二つ――「流れ勧進」と「冬の三十日荒れ」に涙して(上)
- 2012年 3月 19日
- スタディルーム
- 勧進子守唄石塚正英親鸞野辺送り阿部五郎
研究の一環として私が石仏調査のフィールド・ワークを始めたのは、ちょうど昭和から平成にかわった頃であるが、この調査というのは民俗学の手法にならったものであって、農村をはじめ各地の日常生活者に聞き書きをする機会が多くある。また、地方に在住する人びとが自ら筆をとって記録したものを読むことも多い。そのような折り、ふと心を揺すぶられてしまい、つい研究のことを忘れて聞き入ったり読み耽ったりすることがある。そのような逸話については、何か特にあらためて記録しておこうと、以前から考えていた。それが研究に関連するものであれば論文に挿入してきたのだが、そこまでに至らない小話については意識的にまとめておかないと記憶から遠退いてしまう。感動や感慨の余韻をいつまでも止めおきたいので、また読者諸氏にもそれを味わって戴きたいので、以下にその概要をお話しよう。
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勧進(かんじん)とくれば、人によっては「五木の子守歌」を連想するであろう。人吉市から球磨川の支流川辺川を約30キロほど溯った奥地の里で昔から歌われてきた、哀愁のにじみでた子守歌だ。「おどまぁ かんじん かーんじん あん人たーちゃー よかしー よかしよか帯 よかきもんー」。けれども、『熊本雑記』(日本談義社、1967年)の著者荒木精之氏によると、「くゎんじんをこの頃勧進と書いてゐるが、これはあたらない」のでして、五木では普通、飯「食わん仁」つまり「極貧の者といふことと解するがよい」のである(1)。そのほか、「かんじん」を「非人」と記す例もあるようだ(2)。また、郷土史研究家の高田素次氏によれば「勧進」でよいのである。なぜなら「おどま勧進勧進の勧進は単なる物もらい(乞食)のことではなく、法衣は着なくても経を読み家々を回り歩く信者たちのことであり、子守りはしていても…という気位の高さがこの歌にはある」からなのだ(3)。
私は、なぜかこの子守歌につよく惹きつけられる。その理由は二つあって、一つは越後瞽女(ごぜ)の存在であり、いま一つは愚禿親鸞の存在である。越後高田に生まれた私は、子供の頃、祭礼の日になるとよく寺社境内で三味線を引いては参拝客から施しを受けていた盲目の女性たち(多くは離れ瞽女)を見かけたものだ。地元では「ゴゼさ」という。元来は三味線など芸の修業と生計維持を兼ねて各地を遍歴していたのだが、彼女たちは高齢化が進み、戦後は東本町など市内のそこここに住まうようになった。作家の水上勉氏はこの瞽女たちに注目して小説を書き、それは映画化されもした(はなれ瞽女おりん)。だが、水上氏自らが感じ入っているように、越後瞽女たちは聖(ヒジリ)に通じる存在である。マレビト信仰の上で は、托鉢の行者ばかりでなく雑多な漂白の民は一種の聖なる存在つまり勧進だったのだ。村人は偶然か一定の年月を経てか自村に立ち寄る来訪者を一種の勧進として歓待したのであった。
勧進という言葉にまつわる五木の子守歌で心が揺すぶられるもう一つの理由は、勧進としての親鸞に関連している。親鸞は鎌倉初期に京都から越後に流された。流人である親鸞は俗人に還されて藤井善信とされたのだが、自らは愚禿親鸞と自称した。越後で一人の農民となって田畑を耕す生活者になった彼は、原初的生活者としての体験をもとにして、のちにあまりにも有名となる言葉を遺すことになるのである。――「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』)。その日を生き抜くためには生きものをも殺す。人と喧嘩もする。それほどにあさましい身であればこそ大悲の願心が感じられるのだ。殺生を生業とする猟師や漁師、田畑にへばりつく農民、漂白の商い人、卑賎の輩、安寿と厨子王丸の悲話に出てくる人買いのような悪党、博徒、そして犯罪人、そのような人の世の最下層へ、親鸞は沈淪していったのだった。その親鸞は、喜怒哀楽の穢土に執着する勧進聖となって越後の各地を回って歩いたのである(4)。
さて、これまでに話してきた五木の子守歌や越後の瞽女たち、それに親鸞も、これから私が読者諸氏に紹介する小話のための序論のようなものなのである。これから私は、勧進にまつわるひどく悲惨な言い伝えを皆さんに話す。悲惨と形容してはみたが、それはけっして話すのが嫌なことというのではない。すすんでお伝えしたいことである。かつて世の下層社会ではこんな出来事が日常的だったのだということを、今更ながらに感じ入ってほしいのだ。そればかりか今日にあってさえ、孤立死など、悲惨の極致はけっして非日常でなくごくありふれた風景として存在しているのだということを、諸氏に是非とも連想してほしいのである。
「流れ勧進」および「冬の三十日荒れ」と題するその小話は、新潟県出雲崎地方の漁村での実話を物語ったもので、語り手は同町井鼻に住まう阿部五郎翁である。阿部氏は、長年地元の『柏新時報』に「ふるさとの四季」といった雰囲気のエッセーを寄稿してき、それを柏新時報社から『出雲崎散歩』という単行本にまとめて、昭和63年(1988年)に出版したのである。氏はそれを、1993年頃私に恵送してくださったのである。では、阿部氏の語りに耳を傾けて聴いてほしい。(5)
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「流れ勧進」
秋の風が雨戸をたたき時折りあられまじりの雨が降る、冬の間近い秋の落ち荒れ(春のなま暖かい突風が吹き荒れる頃も)に一度見舞われると、沖合遥か出漁した漁師たちは、必死に陸地へ向けて櫓、櫂を漕ぐが、流されてしまう。
昔の漁師は、板子一枚その下地獄と、覚悟はしているものの、一心不乱神仏のご加護にすがるしかなかった。台風や突風などの近づきを知らずに出漁して、運よくかえって来るものもあれば、不幸にして波間の人となってしまうこともある。
今のように天気予報などなく、風の方向や雲のゆききを見て漁に出ていたころは悲劇も多かったわけだ。そのほとんどが一家の柱だけに、残された妻子もまた気の毒なものである。
「可愛想になあ」「子ども六人も置いて死なしたてや」「どこそこの船は寺泊へ落ちた知らせがきたてや」などと同情のささやきがきかれた。
波風がまだ静まらない浜に立って帰らぬ人を待つ姿や、浜沿いの村落にもしや流れ着いていないだろうかと、漁師の妻は着替えや握りめしを背負って、何里も何里もたずねながら走るようにして回り歩くのである。
そんな時に、流れ勧進とも「奉加」ともいわれる人たちが、連鉦をたたきながら各戸を回って志をもらい歩いた。菅笠をかぶり、すそを端し折った漁師の家の爺さんや婆さんが、素足にわらじばきで、連鉦をたたき、称名を唱え、和讃を歌って来ると、人々は待っていたようにして小銭をあげる。
爺さん、婆さんは、きんちゃくの中に銭をおさめながら「どこそこのお父が子供六人」「どこそこのお父が子供四人残して」とくり返した。
この流れ勧進で集められた金は、その家族の人たちにおくられ、野辺の送りや、七日、七日の供養につかわれた。
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