デュピュイ・永倉千夏子訳『チェルノブイリ ある科学哲学者の怒り―現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012.03を読む(4・完)
- 2012年 3月 20日
- 評論・紹介・意見
- チェルノブイリデュピュイ・永倉千夏子フクシマ原発悪有限性石塚正英
1.問題の所在
2.システム的悪
以上(1)
3.システム的悪からの脱却
4.目に見えない悪
以上(2)
5.カタストロフィー
6.テクノ・セントリズムの終焉
以上(3)以下(4)
7.有限性の自覚
8.今後の課題
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7.有限性の自覚
デュピュイは本書の中で「有限性」の自覚を読者に促している。「運が我々にとって予測不能であるのは、〔考察すべき事象についての―訳者〕知識が不足しているからではない。それならば、より研究を進めれば埋め合わせることができるだろう。そうではなく、我々は有限の存在であるために、ただ無限に計算することのできる者だけが先取りすることのできる未来を、我々には永遠に予見できないからなのだ。明らかなことだが、我々の有限性は、我々に知識が不足していることと同じ意味で有限なのではない。我々の有限性とは、所与の人間の条件であって、それは乗り越えることができない。」(注23)
この問題を考えるとき、私は古代ローマの思索家セネカの言葉を思い出す。イエスと同世代のセネカはスペインのコルドバに生まれ、成長するとローマに出て、ヘレニズム思想とりわけストア派の自然哲学を学んだ。ヘレニズム思想はコスモポリタニズムの立場に立ち、政治的関心よりも個人の心の平静(アタラクシア)を重んじる個人主義的傾向を示したとされる。ローマで帝政が確立した頃に出現したセネカは、圧倒的な軍事力で奴隷叛乱を抑え込んでしまったローマに対して、深い疑念を感じていた。彼は、もはや共和制期のキケロのように、ローマにバラ色の期待をかけるわけにはいかなかった。ネロ帝の側近でもあったセネカは、現にある帝政ローマ=国家(civitas)とは別個に、何ら人為的な規制を受けることのない、自然的、原始的な人類を想定し、その集団を積極的に「社会societas」とみなした。その地域はローマの版図に含まれない。カエサルによってすら占領されなかったアルプス以北のゲルマーニアや、ダキア、サルマティアなど、野生的な非文明人の住む地方である。
セネカが好意を示したような野生の諸民族は、たとえギリシアやローマの文明によって教化されても、意識の底では原初的にして本源的な精神を捨て去ることがなかった。いや、本源にかかわる精神であるから、およそ捨て去ることなどできないのであった。それと同様、文明化したはずのギリシア人やローマ人――とくに文明の矛盾を直観した知識人やそもそも文明の踏台にされていた下層民――にもまた、その本源的精神は忘れ得ぬものなのであった。(注24)その際、セネカはプラトンのイデアに裏打ちされるような観念世界に重きをおかず、野生的な非文明人の住むゲルマーニア地方などで有限の生活を送る人々の社会に重きをおいたのだった。
有限の自覚、それは古代ギリシア・ローマ(文明社会)において希薄となったが、別の意味で、すなわち永遠の科学的真理の意味で、近代に至って希薄となった。永遠・無限に存続すると意識されたパックス・ローマーナ、それは20世紀、パックス・アメリカーナに引き継がれたかのようであった。だが21世紀、9.11と3.11がその意識を最終的に潰したのである。デュピュイは本書の中で有限とか偶然とか、不確実性とか、そのような観念・事象の存在を原子力にかかわる人びとに訴えかけたいのである。私はまったく同感である。
有限とか偶然とか、不確実性とかについて、ここで今一つ、人間学研究の現在に言及しよう。例えば、生身の人間の場合、心=精神を筆頭に、未知の部分があまりに多すぎる。その意味で、人文社会系からせまる人間科学には、常にある種の限界がつきまとう。ところが、現に開発されたヒューマノイド・ロボットならすべて解明されたデータしか持ち合わせませない。そこで、とりあえずは家庭でのコミュニケーションに活用できるよう、ロボットを限りなく人間に近づけていくとする。その結果として、生身の人間、心身をそなえた人間そのものがしだいに解明されていくことになる。
そのような将来を展望した場合、まずもって人間工学や身体科学、人間科学といった複合科学的な研究の進展が重要となる。これらの学問を通して私たちは、人間の心理的ないし生理的な特性および身体的な特性を分析し、認知主体でありつつ認知対象ともなっている人間を研究し、人々が正確かつ安全で容易に操作できる機械・器具を開発し、労働に適する生産システムを設計することができるのである。これは学問分野の文理一体不可分の概念・領域への再統合である。一見、学問が元来哲学として一つであった時代にもどる印象を受けるが、そうではない。一度細分化された諸領域ないし諸学問を前提として、その上に新たな統合的科学の領域をうち立てようとするものである。応用レベルでの複合でなく、基礎理論からの複合・統合を特徴としている。一括りにして表現すると、「認知・身体科学」となろうか。
人間社会は複合的に、あるいは循環しながら進展するものだという事例を、産業社会に拾ってみよう。20世紀前半の産業は、フォード社の創業者ヘンリー・フォードの考案した大量生産技術・分業システムに象徴される。例えば彼は、1台のクルマを生産するのに、なんと南米でゴムまで栽培した。タイヤの原料を確保するためだ。その後タイヤ専門の企業が生まれ、石油をエネルギー源にして重化学工業部門が拡充していき、人造ゴムもできた。このように、20世紀は産業の分業化(ダイヴァージェンス)によって進展したのである。また、20世紀後半はコンピュータ産業にシフトしていく。それは例えばIBM社のIT技術(ハードウェアから出発)とマイクロソフト社のIT技術(ソフトウェアに特化)に代表されるが、これも一種の分業である。その間に、産業構造はエネルギー多消費型から知識集約型に転換していった。その方向を象徴するサービスとして、例えば携帯電話がある。ケータイには、通話、メール、カメラ、ネット接続ほか様々な機能が付加・集約されている。これこそ21世紀にふさわしい知識集約化(コンヴァージェンス)の代表といえよう。このように、産業社会はダイヴァージェンスとコンヴァージェンスとを繰り返しながら進展してきたのである。
原発は、衣食住に深くかかわるエネルギー問題である。核開発者は、誰よりもまず、こうした複合的多元的素養を身につけねばならない。デュピュイは述べる。
「人間は、生命・自然のプロセスを引き継ぎ、バイオエンジニアとなる使命がある。(中略)一言で言えば、重要なのは、複雑性(・・・)〔を(・)有する(・・・)もの(・・)を(・)生成(・・)する(・・)プロセス(・・・・)〕を(・)開始(・・)する(・・)ことだ。これを人間を自然の支配者にして所有者にするというデカルト的夢と比較するならば、革命的計画ということになろう。」(注25)
8.今後の課題
さて、例の2007年新春対談で五木寛之はこうも言った。仏教国ブータンの素晴らしさは、物質的でない豊かさを国是にしたところだ、と。それに続けて、五木氏が訪れた地インドによこたわる涅槃のブッダ石仏映像がテレビにアップされた。五木氏に共鳴する私にすれば、平和の代償は、人命でなく物質にするのがいいに決まっている。貧困の共有とまでは言わないが、我慢や苦しみの共有<共苦>は、今後、多種多様な価値観・ライフスタイルをプラス方向に決定づける要因になるだろう。なぜなら、快楽・共楽の意識は独占したがる傾向にあり、共有の輪はしだいに小さくなる。反対に、苦痛・苦悩の意識は分散したがる傾向にあり、共有の輪はしだいに大きくなるからである。
ところで、人は衣服を着るようになった結果、寒さに耐えられなくなったと言われる。人は視力補強のため眼鏡をかけだした結果、ますます視力を弱めたとも言われる。さらに人は、軟らかい食べ物を口にするようになった結果、顎の発育不全が顕著になったと言われる。こうした現象は農業国や農村よりも工業国や都会に多くみられる。
農業国・農村と工業国・都会とで、人びとの生活様式は異なっている。前者において人びとは、生活の資は、その多くを自然界から五体を動かしてじかに得ている。これに対し後者において人々は、地域的な繋がりを持たずに生活し、自然界で他と協調してでなく、市場で他と戦って勝ち抜くという競争原理を基本にして生活の資を得ている。自然環境の只なかにある農村では、自然と地縁に働きかけない生活は不可能だ。それに対し都会では、人工環境に生活維持とコミュニケーションの手段を組込んだうえで快適な独居生活を楽しんでいる。 だが、地球環境の破壊は止まるところを知らない。
現代文明の未来をよりよきものとするには、農業国・農業地域の歴史性や特殊性を考慮したうえで、都市と農村のほどよい多極分散的共存を実現できるか否かにかかってくるだろう。それが実現されれば、近未来の子どもたちは隣接しあう都市と農村双方の環境に親しみ、苦痛=共苦あっての快適=共楽を知り、各々別個の、しかし双方そろって調和のとれる生き方を体験するようになるだろう。そして、機敏で寒さに強く、遠くまで見ることのできる、しっかりした顎をもつ人に成長し、他者と握手し合って互いのぬくもりを伝えあうことだろう。
しかし、遺伝子治療や脳死臓器移植、核エネルギー研究の現場ほかで最先端を切り開いている科学者は、あまりに斬新で魅力的なテーマに遭遇すると、その研究が自己目的化され、ときとして社会との調和意識や倫理観を喪失してしまう。なるほど、独創的な技術開発はそのときどきの倫理に拘泥していては達成されない、独創は倫理に優先する、といった意見をも散見するが、それは技術の社会性、「技術は人なり」(東京電機大学初代学長・丹羽保次郎の言葉)の精神を軽視した謬見と思える。
西周は、今日の意味では「百科事典」にあたるEncyclopediaを「百学連環」と訳した。その訳語には、百科の諸学は相互に連環し、自然と社会、世界と人間、精神世界と物質世界、それらは相互に連環している、という意味がこめられていると思われる。先端技術の開発に携わる人びとには、倫理観喪失というリスクを回避するため、そのような「百学連環」の発想こそ必要なのである。
たとえば自然観について、文化人と科学者と信心家では次のように相違するかもしれない。文化人にとって「沃土・清水・涼風」は、科学者にとって「窒素・炭素・水素・気圧」だったりするし、信心家には「地神・聖水・神のいぶき」だったりする。あるいはまた沖縄のジュゴンを例にしてみると、文化人には風土景観・人魚姫物語であろうし、科学者には水生動物・哺乳類であろうし、信心家には海の守護神・神なる自然であろう。私たちは、そうした多様な価値観・自然観の共生を「百学連環」的な前提にし、生命倫理観と環境倫理観を培いつつ先端技術を革新すべきなのである。
フクシマ以後の我々にもとめられるもの、それはようするに、想定外の「道なきところに道をつくる能力」(注26)の間主観的育成なのである。
注
1 石塚正英『歴史知と学問論』社会評論社、2007年、所収、参照。
2 ジャン=ピエール・デュピュイ、永倉千夏子訳『チェルノブイリ・ある科学哲学者の怒り―現代の「悪」とカタストロフィー』明石書店、2012年、211頁。
3 同上、40~42頁。
4 プルードン、三浦精一訳『労働者階級の政治的能力』(『プルードンII』)三一書房、1972年、258~259頁。
5 カブラルに関する文献として以下のものがある。石塚正英『文化による抵抗――アミルカル・カブラルの思想』柘植書房、1992年。アミルカル・カブラル、アミルカル・カブラル協会・編訳『アミルカル・カブラル 抵抗と創造』柘植書房、1993年。
6 デュピュイ、前掲書、136頁。
7 ここに記す「横倒しの世界史」という表現は、大塚久雄の次の文章にヒントを得ている。「現代社会のうちには、縦の世界史が、さまざまな、歴史的または地理的な要因による歪みを伴いながらも、いわば横倒しになって同時的に現れている」。『大塚久雄著作集』第九巻、岩波書店、1970年、208頁。ここに記された「横倒し」の世界史を、私は〈正の近代主義〉および〈負の近代主義〉という術語を用いてポジティヴに転用している。詳しくは以下の文献を参照。石塚正英『文化による抵抗――アミルカル・カブラルの思想』。
8 デュピュイ、前掲書、20頁。
9 同上、72頁。
10 イタロ・カルヴィーノ、脇功訳『冬の夜ひとりの旅人が』ちくま文庫、1995年、所収。この寓話は、訳者脇功氏によれば、第二次世界大戦後の冷戦下で東西に分裂した国際情勢を背景に書かれたもので、当時を生きる人々はもともと一つだった身体をまっぷたつにされ、どちらか半身にさせられているように感じる、そうした人間状況を寓意したものである。
11 デュピュイ、前掲書、120頁。
12 同上、43~44頁。
13 同上、38頁。
14 同上、4頁。
15 同上、8頁。
16 同上、161~162頁。
17 同上、115頁。
18 同上、58頁。
19 ジェームズ・フレイザー、石塚正英監修・神成利男訳『金枝篇』全8巻+補巻、国書刊行会、2004年~、参照。
20 デュピュイ、前掲書、75,80,106,117~118頁。
21 石塚『歴史知と学問論』、216頁。
22 2011~12年にかけて、私は新潟県上越市の山間部で水車発電プロジェクトを推進している。詳しくは以下の資料を参照。ますや正英「くびき野マイクロ小水力水車発電事業の提案」、NPO法人頸城野郷土資料室編『くびきのアーカイブ』第5号、2009年7月、17頁以降。http://www.geocities.jp/ishizukazemi/kubikinob.html
23 デュピュイ、前掲書、178頁。
24 Cf., L.A.Seneca, tr.by R.Cambell, Letters from a Stoic, Penguin Books, 1969,.
25 デュピュイ、前掲書、157頁。
26 訳者あとがき、同上、219頁。
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