旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(12)
- 2012年 3月 26日
- スタディルーム
- 岩田昌征
27 堅固な証拠かファンタジーか
収容所開設の初日から収容所の仕事を意識的に調整し方向付けた一群の人々がいた。彼等はそうすることで全セルビア人にどれだけの損害をもたらすかを考えもしなかった。ドイツ人ジャーナリスト・グループとプリェドルの私の政敵達の頑固のおかげで、私は諸世界的メディアで先ずオマルスカ収容所司令官、看守として、次いでプリェドル・オプシティナで起こった諸事件すべてに有責のパラミリタリー部隊のリーダーとして名指しされた。事態がかく展開して、ドイツ最高裁の調査判事は1994年2月13日に私の逮捕令状を発した。容疑はボサンスカ・クライナ地方で生起した戦争のすべての局面に「セルビア国籍者」と警察官として参加していたと言う事だった。逮捕令状にはなかんずく次のように書かれていた。
(実際は、当人ドゥシコ・タディチはボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人:岩田)
1.ある人々がある宗教集団のメンバー達を肉体的に抹殺し得る生命状況に投げ込む事を意識的に繰り返し助力した。その時、その人々はその集団を完全にか部分的にか抹殺する意図を有していた。(p.72)
2.被告はオマルスカ強制収容所において行われたセルビア人側による諸殺害をセルビア人警察官として知っており、許容しており、そして支持していたと言う抗し難き容疑の下にある。
3.被告の行為はドイツ刑法に従って罪する事が出来る。被告が外国人であり、かつ外国で行われた行為に関して告発されると言う事実はドイツにおける刑法的追及を妨げるものではない。(p.73)
(当該諸外国における警察制度、検察制度、裁判制度にほとんど無知であり、職名の正しい訳も知らない。コンテクストで判断して欲しい。27の表題は内容にそぐわないが、そのままにしておく。岩田)
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28 被保護証人
証人「CT」は1992年夏プリェドル・オプシティナで行われた組織的逮捕の直接的参加者、警部であって、内部資料にアクセスでき、諸収容所への出入りが許されていた。以下、彼の証言。(p.74)
「ドゥシコ・タディチの弁護士の要請で行った以前の証言は不十分であった。その時はプリェドル内務部の同僚が固有名や収容所については何も語るなと示唆していた。私は1974年以来プリェドル警察のセンター1で働いている。今日セルビア人共和国に民主主義があり、人々は1992年の諸事件について公然と語り出している。今やドゥシコ・タディチとミチャ・コヴァチェヴィチ博士の無実を内部資料で明らかにする時だ。」(p.74)
「コザラツ攻撃の時はプリェドルの警察署で宿直していた。15日後、署長ドゥラ・ヤンコヴィチ等の個人的友人・ゼムナツと呼ばれるリュボ・クネジェヴィチがやって来て、コザラツ署のムスリム人、オスマ・ディドヴィチ指揮官を殺害して、縦坑に投げ捨てたことを自慢していた。」(p.75)
「警察への報告からドゥシコ・タディチが攻撃前にコザラツを去って、バニャルカに向かった事を知った。個人的にドゥシコを知っているわけではない。戦前にタディチ兄弟が空手をやっていることは知っていた。戦争中はタディチについて多くの事を聞き知る立場にあった。」
被保護証人「CT」が当時の私の弁護士ジョン・リヴィングストンに利用するようにと渡した書面証言の中で、彼は次のように言っている。(p.76)
「警察の資料で私はドゥシコ・タディチがいかなる資格においてもオマルスカやケラテルムの収容所にいたことはなかったと知っていた。私は生き延びた被収容者と良い関係にあった。彼等の多くがサンスキ・モストに戻って、私とコンタクトを持っていた。彼等はドゥシコ・タディチが収容所にいたことはなかったと私に語っていた。ドゥシコ・タディチは逮捕された。真犯人達と命令者達は自由に出歩いており、何人も責任をとらない。ハーグは公正に働いていない。」(p.77)
(4ページに及ぶ証言の中でドゥシコ・タディチに関する部分を主に紹介。岩田)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study463:120326〕
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