フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(4)
- 2012年 3月 26日
- スタディルーム
- フォルスターフランス革命マインツ二本柳隆
第2章 ドイツのフランス革命――マインツ革命におけるゲオルク・フォルスターの場合
フランス革命が、実際、ドイツの知識人に大きな影響を及ぼしたということは、いくら強調してもしすぎることはない。因みに、その影響の跡を拾い上げてみると次のようになる。フンボルト『最近のフランス革命によって誘発された国家憲法に関する諸理念』(1791年)、フンボルト『国家活動の限界を定めんとする試論的考察』(1792年)、ヘルダー『人間性を促進するための手紙』(1793年)、フィヒテ『フランス革命に関する公衆の判断を是正するために』(1793年)、カント「理論では正しいかも知れないが、しかし実践には役に立たない、という通説について」(1793年)、レーベルク『フランス革命研究』(1793年)、フィヒテ『全知識学の基礎』(1794年)、カント「永久平和のために」(1795年)、フィヒテ『自然法の基礎』(1796年)、フリードリヒ・シュレーゲル「共和主義の概念についての試論」(1796年)、カント「人倫の形而上学」(1797年)、ノヴァーリス、政治詩『信仰と愛』(1798年)、ノヴァーリス『基督教世界或は欧羅巴』(1799年)。もちろん、これに尽きるということではないが、これらの作品は1789年から10年の間、フランス革命に何らか触発されてドイツにおいて誕生したものである。これらの幾つかは次章以降で検討するが、本章ではドイツにおける革命の一中心地となったマインツ、およびいわゆる「マインツ革命」の指導者と目されたゲオルク・フォルスターについて取り上げる。
1.フランス革命前のマインツの政治的情況
マインツは、ドイツ西部を流れるライン河左岸に位置し、現在はラインラント・ファルツ州の州都となっている。このマインツは中世から近代にかけて、神聖ローマ帝国内においてケルン、トリアーと並んで、選挙侯国として大僧正が居住する地だった。17世紀になって選挙侯国はマインツ・ケルン・トリアーの3大司教、ファルツ伯・ベーメン王・ザクセン公・ブランデンブルク伯の4大諸侯のほかに、バイエルン王・ハノーファー侯が加えられたが、そのなかで最も高位にあったのがマインツ選挙侯だった。「かれは帝国の再校顧問官でフランクフルトにおいて皇帝を戴冠せしめた。」(1) このことからわかるように、マインツは神聖ローマ帝国のなかで重要な役割を担っていたのである。
18世紀に至ってもマインツは依然として「ラインおよびマイン河畔の広大な地域を領し、外部のエルフルトの属領地を含んでいた。帝国の宰相として、選挙侯部会の議長として、また皇帝の戴冠役として、ボニファーチウスの管区の大司教は、西部ドイツの政治生活において当然重要な役割を演じたのであった。」(2) ただし、中世を通じて経済的には活況を呈しておらず、その方面での役割はさほどでなかった。
フランス革命に先立って、1774年、エルタール男爵がマインツ選挙侯に選ばれた。男爵は当初、その時代の思潮であった啓蒙思想に反感をもっていた階層から支持を受けていたこともあって、禁圧的施策を実施した。しかし後に、啓蒙主義の擁護者になった。その結果として、エルタール侯は、「ゼンメルリング、ドルシュ、ヴェーデキント、ブラウ、メッテルニヒ、ホフマン、およびその他の〈自由思想家たち〉を大学に招聘し、スイスの新教徒、ヨハネス・ミュラーを数密顧問官」に、また、本節で検討する「ゲオルク・フォルスターを図書管理人に任命した」(3)のである。
ゲオルク・フォルスターがマインツ選挙侯国にやってきたのは、フランス革命の前年、1788年であった。かれは、18歳の時、太平洋の開拓者として有名なキャプテン・クックの世界一周旅行(1772-75)に、父とともに参加した。その成果として『世界周遊記(Reise um die Welt. 2 Bde., 1777)』を公刊した。生物学を含めたあらゆる自然科学を論究し、これが世に認められ、1778年、カッセル大学博物学教授として招聘され、1784年にはポーランドのヴィルナ大学教授に迎えられた。このようにしてフォルスターは、若くして自然科学者としてドイツに名声を馳せ、1788年にはヨハネス・ミュラーの推薦でマインツ選挙侯国に招かれ、マインツ大学の図書館長となった。フォルスターが招聘されたのは、エルタール侯が啓蒙主義の擁護者になったことと無関係ではなかったろう。
エルタール侯の啓蒙主義への転向がマインツ選挙侯国に及ぼした影響について、グーチはこう書いている。「中央寺院会議員のある者の邸宅にはヴォルテールその他の哲学者たちの胸像が見られ、聖母マリア像やキリスト受難はギリシャ・ローマの古典的芸術作品に置き換えられ、エルヴェシウスほかのフランス唯物論主義者の著述が卓上に置かれてあった。」(5) こうした啓蒙主義的な華美な表面とは裏腹に、次のような隠れた部分を見失ってはならない。「宮廷においては、選挙侯とかれの寵妾ハッツフェルト伯爵夫人は、自身をレオ10世にたとえた主君に向かって肉欲の解放と美の宗教とを説いた、華やかなルネサンス的人物ハインゼによって声高に読まれる〈アルデインゲロ〉の淫奔なページに平然と見入っていたのである。」(6) このような淫佚な生活は奢侈な生活に繋がり、民衆に負担を強いることになろう。その意味でマインツ選挙侯の政策はプロイセンのフリードリヒ大王(位1740-86)のとった政策と何ら変わらなかったということである(7)。
このように民衆を無視し淫佚な生活に浸っていたマインツの宮廷は、国境を隔てたフランスで起こった世界史的な出来事をどう迎えたのか。また、フォルスターのような知識人はどういう反応を示したのか。次節ではこの問題を検討する。
註
1.G.P.Gooch, Germany and French Revolution, Frank Cass, 1965, p.2.
2.Gooch, ibid., p.13.
3.Gooch, ibid., p.14.
4.Gooch, ibid., p.303.
5.Gooch, ibid., p.14.
6.Gooch, ibid., p.14.
7.フリードリヒ大王がとった啓蒙主義的政策の欺瞞性については次の文献を参照。F. Mehring, Die Lessing Legende. Berlin, S.45ff. 小森潔・戸谷修・富田強訳『レッシング伝説』第1部、風媒社、1968年、105ページ以下。なお、拙論「ドイツ社会思想における市民社会概念の受容過程――カントの場合」、『明治大学大学院紀要』第13集、1975年、253ページ以下参照。
2.フォルスターのフランス革命への反応
1789年に起こった民衆の蜂起によるフランス革命勃発の報道は、直ちにマインツにも届けられた。民衆の決起、旧制度の撤廃、新しい社会の要求に対して、マインツの支配層は恐怖の念を隠さなかったが、同市の図書館長でありシラー、フンボルト兄弟と親交があったフォルスターは、この世界史的事件に大きな関心を示している。妻の父に宛てた書簡で次のように述べている。「いかに哲学が人々の頭脳のなかに成熟し、それからそれが国家のなかに実現したかをみることは嬉しいことです。そのような広範な変革がこれほどわずかな流血によってなしとげられたことはすばらしいです。それは人々にかれらの真の利害とかれらの権利とを教える最も完全な方法です。そしてその後はおのずとうまくいくでしょう。」(1)
1789年7月、民衆のバスティーユ襲撃に続いて、翌月、立法議会は貴族の封建的特権廃止宣言を可決した。フォルスターはこう書いている。「何という会合でしょう。これは比類なきものです。私は人間の事柄には完全というものはないということを知っています。然しよりよい状態が達成されるなら、それが人類のなし得るすべてでしょう。われわれは理想を樹立しました。そして、もしそれに到達しなくとも、われわれはそれをしなかったよりはさきに進んでいるのです。」(2)
貴族の奉還的特権廃止宣言が近代史上画期的な意義をもっていることは、もちろん言うまでもない。革命前フランスでは財政危機、失業危機、穀物価格高騰、飢饉、凶作が深刻化の度を深めていた。最下層の農民に至っては、一方では「手工業や商業を営んだり時には日雇いとして労働力を提供せざるをえなかった」し、他方では、「仕事がなかったりパンが高すぎたりした時には、彼らは乞食する以外にもはや道がなかった」(3)のである。この意味で、貴族の封建的特権廃止宣言は、最下層の農民にとって誠に救済の宣言であったろう。しかし、貴族の封建的特権廃止は、王権=貴族層の反発もあって、容易には進捗なかった(4)。そのため、たびたび農民一揆が発生している。フォルスターが指摘しているように、「かれらの多くは全くかれらの領主権で生活しているから、貴族の特権の重圧がはげしい騒乱の原因となる」(5)のは当然であったと言えよう。
したがって、農民一揆を含むフランス革命の騒乱が、呪縛のごとき封建的身分秩序の権化ともいうべき支配者層に向けられていたことは、銘記されなくてはならない。それに関連して、フォルスターはつぎのように憂慮している。「いたるところで騒乱が起こっています。革命が真の自由に資することが少ないということは悲しむべきです。」(6) けれどもフランス革命に絶望することなく、こう記している。「それが人々の潜在的な力を発展させ、世界を仮眠と停滞からよびさますだけでも十分ではないでしょうか。」(7) こうして、フォルスターはこれから起こることを楽観視していた。そのことは注目してよいだろう。
註
1.Gooch, ibid., p.304.
2.Gooch, ibid., p.304.
3.G.Lefébvre, La Révolution française et les Paysans, Cahiers de la Révolution française No1, 1934. 柴田三千雄訳『フランス革命と農民』未来社、1977年、22ページ。
4.河野健二「土地改革」、桑原武夫編『フランス革命の研究』岩波書店、1958年、152ページ以下。
5.Gooch, ibid., p.304.
6.Gooch, ibid., p.304.
7.Gooch, ibid., p.304.
3.フォルスターの政治的実践への動きとその背景
1790年、フォルスターは、アレクサンダー・フォン・フンボルトとともにオランダ、イギリス、フランスを旅行した。この時の見聞から、翌1791年から、旅行記『下部ライン地方見聞録(Ansichten vom Niederrhein, 3Bande, 1791-4)』を執筆、刊行した。そのなかで、フランス革命を「1789年の国民の自由」という観点から捉えていた。そこからは、かれが革命の進展に期待をもっていたことが了解される(1)。
フォルスターが旅行記を書き出した1791年、フランスでは旧体制を強固に維持しようとする王権側に対して、民衆は憤懣を強め行動を激化させた。そこへ、ルイ16世の国外逃亡事件が発覚すると、国王に対する民衆の不信感は第一のピークに達した。その情況は、封建制度の維持強化を意図していた諸外国の支配者を震撼させた。フォルスターは、妻の父への手紙でこう書いている。「王の逃亡は議会を強化しました。今や戦争が目前に迫っています。しかもヨーロッパの君主たちは愚かにもそれを始めようとしているのです。われわれは革命なしに1世紀を過ごすことができたでしょうが、戦争はそれを50年早めました。ドイツの貴族は怒りのために盲目となって、合理的な犠牲を払って事態を収拾する代わりに、君主たちを駆り立ててフランスと戦争を始め、同時にかれら自身の臣民を抑圧しようとしています。かれらはフランスの貴族がやったのと同じことをして自らの墓穴を掘っているのです。」(2)
すでに国王逃亡事件以前の1791年初頭以来、フランスからのたちは、革命の波及を怖れるオーストリアなどの支援で、コブレンツやマインツなどに集結して革命の打倒をもくろんでいた。事件以後、その衝撃を受けた神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とは、共同でピルニッツ宣言を発し、フランスに対する武力干渉を公にした。当時、議会の実権を握り始めていたジロンド派は、ピルニッツ宣言に激怒し、オーストリアに宣戦を布告した。オーストリアにはプロイセンが加わり、両国連合軍はフランスへの侵略を開始した(3)。フランス軍は当初不利であったが、「祖国は危機にあり」という非常事態宣言が発せられると、民衆の間に「愛国心」=「国民意識」が強くなり、戦況は好転し、連合軍は撤退を余儀なくされた。そればかりではない。勢いづいたフランス軍はライン左岸に向かい、マインツへと進撃していったのである。危機に直面したマインツの支配層は逃走し、大司教も逃亡してしまった。
この不穏な事態を眼前にしたフォルスターは、ベルリンの出版社フォスに宛ててこう書き送っている。「私はドイツが未だ変革のためには熟していないと考えていたので、現在の制度が続くことを望んでいました。早すぎる変革は決して喜ぶべき現象ではないのです。しかし、古い柵が自由の洪水に打たれて、それが維持できなくなったという気持ちを人々は特記しなければなりません。これは歴史における決定的な時期の一つです。(中略)自由に対する熱情には逆らうことはできません。それは真昼の太陽のように明らかなことで、それを疑い得るのは狂人か盲人のみです。私は2週間待って、それから飛び込みましょう。」(4) フォルスターのこの態度は、現実的なものとなった。
註
1.Georg Forster, Ansichten vom Niederrhein, Reclam, 1965, S.78.
2.Gooch, ibid., p.306.
3.オーストリアとプロイセンによるフランス革命政府について、および同政府に対する他のヨーロッパ諸国の反応を、ローレンツ・シュタインは次のように性格づけている。「フランスにおける市民主義の勝利に愕いた特権階級は、いずれの国家においても直ちに騒ぎだした。彼らは、この革命の最初の結果として、諸君主にたいして絶対君主主義からの必然的戦争を説きたてた。すなわち彼らは、彼らの特権と王権とを同意義に解したのである。彼らは一大団結を作って圧迫し、また強大なる勢力を以って活動した結果、実際にフランスにたいして、ヨーロッパ諸君主を連合せしめるに至ったのである。それはフランスとか国家とかいうものにたいする戦争でもなければ、またその国王にたいする戦争でもなかった。それは、統制されたかつ正気に立ち返った封建的社会と、ようやく成立したばかりの市民的社会秩序とが相対立した最初のヨーロッパ戦争であったのである。」以上の見解は評価に値する。Lorenz Stein, Geschichte des sozialen Bewegung in Frankreich von 1789 bis auf unsere Tage, Bd. 1, Muenchen, 1921, S.267f. 十河佑貞訳『フランス革命思想の研究バーク・ゲンツ・ゲルレスをめぐって』東海大学出版会、1976年、111ページ。対極的に見れば、オーストリア=プロイセン(封建的社会)とフランス(市民的社会秩序)との対立である。この章に限っていえば、マインツ政府(封建的社会)に対するフォルスターの態度=市民的社会の代弁者との関係において捉えることも可能である。
4.Gooch, ibid., p.308-9..
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