哀愁の漂う小話一つ二つ――「流れ勧進」と「冬の三十日荒れ」に涙して(下)
- 2012年 3月 27日
- スタディルーム
- 勧進日本海石塚正英良寛阿部五郎
「冬の三十日荒れ」
高い山に雪のおとずれがきかれ、人のはく息も白く、荒涼とした日本海のうえを渡り鳥が北の国から南へやってくる秋十一月も末。陽気な三味線や太鼓、四つ竹で賑わしていた渡り芸人達が「では来年までお達者で」と言葉を残して去って行く。
この地にのらりくらりとなすこともなく遊び暮らしていた文人墨客達も、土地のきびしい寒さや海の荒れ、吹雪の明け暮れが近づくと今日も一人、明日も二人と退散してゆき、裏の崖山のすすきの穂綿をふきちぎらすような台風もどきの風が雪をもって来た。
来る日も来る日も荒れる海、海は凪ぐのを忘れたのだろうか、暗澹とした空に吹雪の咆哮がつづき、屋根を洗うような大波がおしよせ、おそろしい冬の三十日荒れがやってきたんだ。
人々はおびえている。海は一体、いつになったら凪ぐのだろうか。海は漁師とその家族をひぼしにするつもりだろうか。家の中には目ぼしい物もなく、食べる物は一日一日へってゆくばかりであった。
昔漁師が空を見て漁に出ていった頃、冬の三十日荒れ、五十日荒れがつづく生活に困った。借りるところのある者はまだしも、借りるあてのない者、まして幼な子(当時はどこの家でも、五、六人の子供がいた)をかかえた家では、親はともかく、腹がすいたと泣いてせがむ子供達に、せめて一椀の芋がゆなりとすすらせることも出来ないものかと思案にくれた。
やがて正月、家、家からは餅つく杵の音が響き、明るい笑い声が流れても、凪ぐあてもない海を見つめる漁師の表情は暗かった。こんなときに夜勧進がでた。夜勧進の服装は哀れをきわめ、吹雪の夜でも着なりの姿で顔をかくし、うつむきかげんで入口に立って食を乞うた。
そんなに漁師の困った時代があったろうか。……漁に出たいにも海は長荒れでたくわえもなく、子供は多く明日の日をどうしようと思案にくれている漁師の家へ、夜勧進が貰いにきたなどの話がある。
三島郡寺泊地区の老人の話「夜勧進ですか、きましたとも……きたない手ぬぐいをかぶり顔をかくし、言葉少なく力なく立っているのがやっとのように見えましたよ」。
三島郡和島地区老人の話「正月近く海が荒れ続くとよく来ましたよ。握り飯や餅などをくれてやりましたが、この土地からも漁師の家へ貰われていった子があり、どうして居るだろうかと身につまされ涙がでましたよ」。
出雲崎町西越地区の老人の話「夜勧進ですか、来ましたとも。たくさん来ましたと。悪さをするでなし、ただ一時しのぎに貰いに歩くこの人達が来ると哀れでこちらが泣けましたよ」。
刈羽地区老人の話「夜勧進のことですか、来ましたとも。今と違って海がしけても土木の仕事があるでなし、納屋元の仕事に追い使われても、一銭にもならず、飯を食わせてもらうでもなし。家へ代えれば、五、六人の子供が腹がすいたと泣いている、私がその身だったらおなじことをしたでしょう」。
女の夜勧進もあったろうか、なかった。(いずれの地区の人々の声)
また旅から旅を廻る乞食、浮浪者の中で出雲崎の漁師で困っていると物乞いをした者があったとか。海は荒れ、横なぐりに吹きつける風、天地満目唯灰一色に塗り潰された、吹雪の猛威の中を家路に急ぐ人影、子供達がどんなにか腹をすかして待っているだろう。あたたかい人の情、生きるためには……生きていさえすればやがていいこともあるだろう。 三島郡海岸沿いの部落の老人の話「漁師衆とは思われない品格のある人達でした。きっと立派に後にはたちあがったことでしょう」。
時代が変わり、今はつたえ話となったこれらの話、世は移り人は変われども、海に生きる人々を、驚きあきれさせる冬の三十日荒れは、今も秋の終りから冬にかけて続くことである。
* *
冬の日本海はたしかに昼なお暗い。出雲崎を海岸づたいにすこし南下したところ、上越市の南部(高田地区)を故郷とする私は、同じ上越市でも北部の直江津地区(海岸地方)に住んでいた訳でないので、この流れ勧進や夜勧進の逸話は聴かないで育った。けれども、雪深い頸城平野に18歳まで生活していた者として、この悲話は心の奥底に大切に秘めておきたいと思っている。ちなみに、阿部翁が私に書いてくださった手紙によれば、「わが家へも二度きたのをおぼえています(子供の頃)」とのことである。(6)
読者諸氏は、良寛さん(1757~1831年)のことを知っているであろう。子どもたちと鞠つきなどして純真に愉快に遊んだ、あの良寛さんである。この僧は出雲崎に縁のある歌人なのだ。「霞たつ長き春日に子供らと手まりつきつつこのひ暮らしつ」「山かげの岩まをつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」――このように脱俗的な心境を歌にたくした良寛もやはり出雲崎に生まれそこに生活しているのであった。かように洒脱な性格の歌人を生み出すのも出雲崎なのである。
人に幸不幸はその人の生い立ちや価値観によってさまざまであるが、そうであるだけに悲喜こもごもなのが人の世なのであろう。昨今の人たちは私をも含め、心地よさや快楽ばかり追求しすぎである。そのせいで、心はむしろ貧しくなってはいないだろうか。登山で味わうような、苦しみや鍛練のあとの快適こそ社会においても人の心を豊かにするものであろうに。その意味からして今回はどうしてもこの本を読むあなたに、荒れ狂う冬の日本海地方に言い伝えられてきた「流れ勧進」「夜勧進」の悲話をお話したかったのだ。この実話に接して、ふともらい泣きの涙が瞼ににじむようなあなたであってほしいのだ。
註
1 荒木精之『熊本雑記』日本談義社、1967年、15頁。
2 五木村社会科研究部編『五木読本』、1953年、参照。
3 高田素次「肥後民謡風土記(10)」、1971年3月1日付、熊本日日新聞。
4 石塚正英「親鸞の弥陀と越後の鬼神」、同『フェティシズムの信仰圏』世界書院、1993年、所収、参照。
5 阿部五郎『出雲崎散歩』柏新時報社、1988年、43頁。
6 阿部五郎『出雲崎散歩』柏新時報社、1988年、39~40頁。
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