絆について2―東日本大震災によせて―(5)
- 2012年 4月 1日
- 評論・紹介・意見
- 唐澤太輔東日本大震災絆
筆者は前回、〈絆〉と「絆」を区別し、それぞれを定義した。「絆」が人間と他の存在者との「関係」を成り立たせる場であるのに対し、〈絆〉は、「生命そのもの」と人間との「関係」を成り立たせる場である、と定義した。「絆」と〈絆〉は、その位相(次元)を異にするものである。そして「絆」は横の「関係」をあらしめるとした。人間と他の存在者との、自己と他者(対象)との、「関係」である。両者は互いに「語りかけ」合う。我々は通常、対象といわば「適当な距離」を保っている。全く「関係」が持てない程遠すぎもせず、また全く同一化してしまう程近すぎもしない、対象とのこのような「関係」が持てる場が「絆」である。大震災は、この「当たり前」になりすぎていた「絆」を我々に改めて気付かせてくれた。
〈絆〉はいわば縦の「関係」をあらしめる。「絆」が自己(人間)と他者(対象)の「関係」であるのに対し、〈絆〉は「生命そのもの」と人間との「関係」をあらしめる場である。「生命そのもの」は人間に「語りかける」。そして人間こそがその「語りかけ」に「呼応」できる唯一の存在者である。他の動物とは異なる人間の特異性はそこにある。
「生命そのもの」と人間との「関係」を直接、人間と人間との関係に当てはめることはできない。「語りかけ」は常に「生命そのもの」の方から人間へとなされており、そして、両者の間には、両者が混じわる(mix)ための〈絆〉がなければならない。一方、人間同士の場合、互いに「語りかけ」合い、両者は区別され混じわる(mix)ことなく、その「絆」(=「適当な距離」)において交わって(cross)いる。「絆」と〈絆〉――どちらが上位ということはない。しかし〈絆〉の方は、「絆」をもあらしめる、より根源的な場である。
我々は、この大震災によって、「当たり前」になりすぎていた「絆」の大切さに気付いた。同時に〈絆〉のあり方にも気付いたはずである。つまり我々個々の生命体を成り立たせている「全体的生命」と我々との「関係」のあり方である。「生命そのもの」とは、我々存在者を存在者としてあらしめる当のもの、あるいは存在者がそれを基盤として、そのつど既に了解している当のものである。つまり、存在者の陰に隠れてその意味と根拠を成しているもの、さまざまな存在者をまさにあらしめている根底的なものが「生命そのもの」である。また、その「生命そのもの」は存在者に含まれながらも、それを超え出てもいる。
木村敏は以下のように述べている。
生命そのものは、物質や現象のように形をもたず、個別的な認識の対象にならない。それはいわば、個々の生きものやその「生命」のなかに「含まれ」ながら、しかもそれらを超えている「生命一般」としか言いようのないものである。(木村敏 「あいだ」 1988(『木村敏著作集6 反科学的主体論の試み』 弘文堂 2001所収 p.124)
つまり木村は、「生命そのもの」は、物質・現象のように形を持たないため、視覚的な認識対象にはならないと言う。またそれは「個々の生きもの」の中にありながらも、それを超え出ているものであるとも言うのである。
「個」の中には、「生命そのもの」が「含まれ」ている。そして「個的生命」は「生命そのもの」においてある。「個的生命」が「生命そのもの」を想定し得るということ自体、「生命そのもの」は「個的生命」に関係し、そこに「含まれ」ているとも言えるであろう。しかし一方で、この「生命そのもの」は「個的生命」を超え出てもいる。つまり「個的生命」では完全に把捉することのできない、普遍的・絶対的なものでもあるのだ。
人間(生命体)にとって本源的に、「生命そのもの」こそが最も「近い」ものであり、「存在するもの(他者)」は、いわば「次いで近い」ものである。しかし、差し当たり我々は目の前の「存在するもの」だけに注意を向けている。故にそれを「近い」ものと思い込み、「生命そのもの」を最も「遠い」ものとしている。
しかし、この大震災によって、自身の命が危機に瀕した時、それを成り立たせている「生命そのもの」が、我々の目の前にまざまざとその姿を現した。「自分の命とは一体何なのか」、「なぜ生きているのか」、「どうして生かされているのか」――これらの問いが我々を襲った。これは「生命そのもの」からの「語りかけ」でもある。しかし、これらに確実な「答え」はない。あえて言うならば、〈絆〉を思惟することそのものが「答え」である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0838 :120401〕
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