ネオヒューマニズム入門 (上)
- 2012年 4月 5日
- スタディルーム
- ネオヒューマニズムパースホッブズやすい・ゆたか
1 人間は生物学的概念ではない
倫理学入門『鉄腕アトムは人間か?』のリポートで、ロボットは機械だし、子供も産まないし、修理次第で不死なので人間ではないという反応が多い。そういう意味では人間ではないのは前提である。既成の人間概念を克服して、人間に含める必要があるのではないかという趣旨なのだが、納得してくれるのは少数派だ。
人は動物の一種、人間はそうとは限らない。生物学的な概念ではない。元々「人間」と書いて「じんかん」と呼び、「人の世」とか人の住む処を意味していた。「人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。」という場合は、人の世にいるのは五十年という意味だ。
「人間到る処青山あり」とは、人の住んでいるところならどこにでも骨を埋められるところはあるので、祖先の墓地のある郷里に引っ籠っていないで、広い世界に出るべきだという意味である。毛沢東も少年時代にこの言葉を引用している。
だから和辻哲郎は『人間の学としての人間学』で、人間を個人と社会の弁証法的統一として捉えた。間柄としての人間を展開したのである。
2 自己意識をもつ存在としての人間
ネコ型ロボットのドラえもんは自己意識もあるし、自由に会話する、果たしてドラえもんは人間なのか、もし自己意識あるロボットが人間だとしたら、ロボットタクシーも調理ロボットも人間だということになる。人間とは似てもにつかなくても人間と呼べるのかというリポートも多い。
動物の一種としての人と人間を混同するからそういう誤解が生じるのだ。人という猿科の動物が二足歩行して人になった時に直ちに人間になったわけではない。また群れを形成して協同労働や分業で人間になったわけでもないのだ。交換を契機にした対他関係と自己意識の成立で人間になった。
宇宙人という発想が起きた時に、猿科の人と人間がカテゴリー的に区別できるようになった。だって宇宙人は哺乳類の一種の猿が進化して人間になる確率はほとんどないからだ。タコ似火星人とか、ヒトデ似宇宙人が映画で登場する。彼らは猿科のヒトではないが、自己意識をもち言語を話す人間だ。
宇宙人であっても生物だから人間なので、機械仕掛けのロボットならたとえ自己意識を持ち、言語を自由に話せても人間ではないだろうというという意見が圧倒的だ。
3 ホッブズの人間機械論
生物と機械を対極的にとらえるのは、19世紀の生物学の時代であって、17世紀のデカルトは動物機械論だった。つまり動物の身体は精巧に作られた自動機械だというわけである。
ただしデカルトは言語を自由に操るのは機械がいくら発達してもできないと考えた。それで人間だけは神が別誂えで、人間特有の魂を作って置き入れたというのである。この人間特有の魂は精神的実体なので、物質的な性質つまり延長性をもっていない。
従って、主観である精神は延長性がないので認識主体ではあっても、認識対象ではない。だからこれを人間が機械として作ることも原理的に無理である。しかしそれでは実験観察することができない魂は、置き入れられていることを確かめることはできない、ホッブズは経験論の立場からデカルトの議論を却下した。
ホッブズは人間の魂も人間の身体機械の機能として説明すべきだという立場である。意識をイマジネーションつまり薄れゆくメモリィという無数の微粒子の運動として説明する。言語は音声のイマジネーションを他のイマジネーションの記号としたことによって生じたと説明した。
身体機械の構造は他の哺乳類とほとんど変わらないのにどうして人間だけがそんな技を習得できたのか、この理由は分からないから、アダムが神から教わったと表現した。つまりそれは分からないという意味である。
ホッブズの立場に立てば、言語も身体機械の機能だから、身体機械を言語活動ができるように作れば人間にも人間は製作可能だということになる。つまり自己意識あるロボットはデカルトの立場では絶対に作れないが、ホッブズの立場ではいずれ作れるようになる可能性がある。
というより自己意識ある人工機械人間は既 に作られている、それがリヴァイアサンつまり地上最強の怪獣である国家なのだ。人工機械人間は現代用語でいえばロボットであるから、自己意識あるロボットは国家としては現存しているのである。そもそも身体的な諸個人も神が作った自動機械であるから人間自体がロボットなのである。
4 パースの事物の知的性質
人間を意識経験の流れや、総体として捉えれば、事物も感覚の束とか、経験の対象面(ノエマ)として捉えられるので、身体やそこに宿る人格に限定されなくなる。それが若きマルクスの非有機的身体としての自然であったり、パースの事物の知的性質である。
5 西田「物となって見る」
西田幾多郎は、絶対無の自覚において、「物となって見、物となって考える」とか「物となって見、物となって行う」という行為的直観の立場を打ち出した。物も単なるノエマだけではなく、事物に統合する作用面ノエシスも含めれば、人間の現存となる。
すでにヘーゲルは、労働外化論で、生産物を外化された人間として捉えている。これに初期マルクスの非有機的身体としての自然、パースの事物の知的性質、西田の物となって考えるを含めれば、ネオヒューマニズムの論理が鮮やかに浮かび上がるのではないか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study469:120405〕
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