一足早い御復活のお祝いデス
- 2012年 4月 7日
- 交流の広場
- 復活祭諸留能興
私(諸留)は、ローマ・カトリックの信徒の、
はしくれです。
明日4月8日の日曜は、御復活祭ですね。
一足早く、主イエス様の御復活のお祝いを込めて・・・
でも、最近の私は、ユダヤ教やキリスト教思想、
イスラームなどの唯一神的世界観からは、
一定の距離を置いて見るようにしています。
エリー・ヴィーゼルというアウシュビッツ生き残りの
ノーベル平和賞受賞のユダヤ人作家の言った
「アウシュビッツの煙突の煙とともに
世界の良心は燃え尽きてしまった・・・・」
というような、アウシュビッツを「絶対化」させる考えや主張は、
やっぱり、間違っているのでは・・と
最近、僕はつくづく思うようになりました。
プリーモ・レーヴィという、イタリアのユダヤ人を、ご存知ですよね?
アウシュビッツで1年近く強制労働を経験し、かろうじて生き延びて、
生還後は文学者になった人です。
『アウシュビッツは終わらない』が彼の代表作です。
1987年に彼が自殺する前年に書いた、
彼自身の人生の経験を総括するようなエッセイ集です。
イスラエルのパレスチナ占領政策に反対を表明し、
物議を醸したことでも、
また、ナチスによる絶滅収容所政策を
「ホロコースト」と呼称することに反対したユダヤ人ですから・・・。
同胞のユダヤ人からは嫌われていますけど・・。
彼の死が、自殺か事故死かの議論はさて置いて
『イスラエルのパレスチナ占領政策に反対を表明』するユダヤ人は、
多数派ではないにせよ、大勢いますけど・・・。
でも、『ナチスによる絶滅収容所政策を「ホロコースト」と呼ぶことに反対した』
ユダヤ人としては、大変に珍しい人と思います。
ホロコーストは、ヒロシマやドレスデンや、あるいは
レニングラードでの飢餓状態や、
パレスチナ民衆の殺戮や、
南アの黒人や、アメリカ先住民族インディアンの殺戮などなど・・
他の戦争や殺戮や犯罪被害者よりも、絶対的に悪いもの、
最悪のもの‥‥それがホロコーストだ、と
そうは決して言えないのでは・・と、私は思ってます。
ホロコーストは、1939年から1945年の間に作られた
恐ろしい出来事、あってはならない悲劇の一つにすぎないのであって
ホロコーストに、宗教的・歴史的な、絶対的な意味付けすることは、
私は拒否したいと思っています。
私にとって、ホロコーストの悲劇も、
世界史で生起した無数のいわれなき、理不尽な虐殺の
一つであって、それ以上でも
それ以下でもないもの・・・
他の悲劇と平等な視点で、他の数多くの平和論と
同じ高さに位置する、
一つの思想にすぎないのでは・・
って、最近、つくづく思い直し始めています。
獣は、自ら生きるために、たの動物を殺して食べますけど
人間は食べもしないのに、同胞を殺し
おまけにそれを、懺悔するどころか
堂々と、正当化さえする・・まさに
「畜生以下の動物」ですよねぇ・・
レーヴィも、エリー・ヴィーゼルと同様に
自らアウシュビッツで九死に一生を得る体験をした人です。
ナチスによる迫害と虐殺という歴史的事実を、
もちろん、否定する積もりも、許す積もりも
彼には無かった筈です。
しかし「ホロコースト」という言葉は
ユダヤ人にとって、ヘブライ語の原語では
「神に捧げる犠牲の動物を焼く儀式」
の意味の言葉ですから、
それは「神に選ばれた民」の
神話的なあり方を想起させる言葉でもあるわけですよね。
レーヴィは、そのように、自分たちだけ、ユダヤ人たちだけを
特殊化させ、絶対化させるようなイメージで、
自ら民族が被った悲劇的な経験(アウシュビッツの悲劇)が、
世界の人々によって語られることを、
キッパリと拒否したかったのではないでしょうか。
私たちは、今や、ホロコーストを相対化させねばならない
時代に生きている・・と、僕も思っています。
それはユダヤ人であることの、
歴史的、宗教的特殊性の否定に繋がるだけでなく、
ユダヤ教的世界観、契約観に、同様に立脚している
キリスト教やイスラームの世界観、契約観の否定にも
つながる道かもしれませんけれど・・
「神様の啓示だから・・・」
「貴方(諸留)のような考えは、神様への冒涜だ!」って、
言われてしまえば、それまででしょうけど・・・・
でも、どう考えても、他の動植物(被創物)よりも、
人間のほうが優越してるだとか、
その人間の中でも、ユダヤ民族やキリスト教徒や、ムスリームの方が
それ以外の民よりも、優先的に救済にあずかる・・・っていうような
そういうような宗教って、
本当に優れた宗教なのかなぁ・・・って
最近、つくづく思わされてます。
人間だけでなく、山も川も草も木も・・・
この世界の全ての存在、いのちあるものは
蟻もゴキブリも、象さんも、ワンちゃんも、
猫ちゃんも、そして、もちろん人間も・・
この地上にいのちをいただいている、すべてのいきものは、
ひとつの「大いなるいのち」の一部であって
そのいづれのいのちも、無差別平等・・・っていう、仏教的な世界のほうが
京都弁でいう、「ほっこりする」っていうか・・・
はるかに安心できます・・・
仏教の華厳教学の縁起の思想として有名な
「重重無尽の縁起」にもありますように、
この世界の現象・事象・存在のありようは、
様々な個々の物は、互いに関係し合い、無限に重なりあっているという、
「相即相入」「融通無礙」として展開していて、
一切は関係し合っているのであって、
関係し合っていないものは
何にひとつこの世の中には
何ひとつとして無い‥‥と、説明されていますけど!
この世にある、すべてのいのちあるものは、
本当に、みなそういう関係だなぁ・・と
最近、つくづく思わされています・・
そんなのは「汎神論」であって
「唯一神」からは異端である・・って
「一神教」の人からは、非難されちゃうでしょうけど・・
でも、この地球上に生命が誕生してから
4億5000万年もの歳月をかけて
地球表面に降り注ぐ強烈な、
紫外線や放射線に照射される・・という
過酷な環境だった4億5000万年も前から
けんめいに、そんな過酷な自然環境にでも
必死になって適応して、壊されても、壊されても
けなげに、DNAや分子結合を、うまゆたゆまず
修復し続けることで、現在の生命体のように
人間の体の60兆個もある細胞が、
その細胞1個あたり、毎日100万件ものDNAの
修復活動を行って生命活動を途切れることなく、
どうにか継続していけるまでの・・・
それほどまでの高度な、免疫機能を
獲得してきたのですよね・・
世間では、それを「進化」って言葉で表現してるけど
でも、これは「変化」であって
「進化」ではないと、私は思ってます。
「進化」と「変化」は、似てるようだけど、
全く違うものだと私は思います。
「進化」っていう場合は、時間軸(歴史的流れ)を前提としていて
しかも過去よりも現在、現在よりも未来のほうが
より高次元の価値や機能を備えたものに
変わっていく・・・っていうような
「価値判断」がつきまといますよね。
それに対し、「変化」っていう場合は、
、時間軸の流れに沿って生起する現象は
過去であっても、現在であっても、未来在であっても
変化はするけど、すべて皆「同価値」なんですよね。
直線的に未来に起きる現象のほうがより高次な現象である・・
といったような「価値判断」は伴わないですよね。
科学や技術の場合でも「進歩する」って、良く言われますけど
でも、これも、人間から見た勝手な快適さとか欲望という
モノサシを満たす「価値判断」からの
「科学の進歩」であって、
人間以外の他のいきものが、
いのちを脅かされるのであれば
その科学は「進歩してる」とは言えないのでは?
少なくともそれは「科学の変化」であっても、
決して「科学の進化」とはいえないのでは?
原子力発電も、今は科学的に様々な問題点はあるけれど
将来技術的に進歩し改良されれば
より安全になるから‥‥
だから原発は続けるべきだ・・・
という主張を良く聞かされますけど・・
でも、それって、19世紀的な「進化論的発想」と
同じ発想ではないでしょうか?
上で紹介しましたように、
涙ぐましいほど「けなげな」、
DNAや分子の修復機能・免疫機能という
「変化現象」を真っ正面から、正確に直撃し
破壊するような「放射能」って・・・・
本当に、いのちそのものの否定だなか・・・と、
つくづく思わされています。
それも、たかだが70年~80年くらい前から
原子核を人為的に破壊させることでしか
この地球上では発生しないような危険な・・・
安定した均衡したエネルギー状態にある原子核を
人為的に破壊して、
天然には絶対に存在し得ない、不安定な状態、
エネルギーの励起状態(Excitede State)に、わざわざさせておいて
その励起状態(興奮状態)から、また自然に近い、
より安定したエネルギー状態に戻ろうとする。
その際に、余計なエネルギーを放出させる・・・
そんな、文字取り「不自然な」エネルギー放出現象、
これが人為的な放射能(という現象)なのですけれど・・。
まぁ、分かりやすい例えで言えば、
「オマエ馬鹿だなぁ!」って言われて
「ポカッ」と頭を1発殴られたら
カーッとなって、興奮しますよね・・・
でもその興奮が、すぐに数分で収まる人もいれば、
数時間、数日も経過しないと
興奮(=怒り)が収まらない人もいますよね・・
でも、いずれは、その興奮(エネルギー)も
収まって自然な安定した気持ちへ戻っていきますよね。
これが放射性物質の半減期みたいなものです。
「オマエは馬鹿だ!」って言われて
「ポカッ!‥‥って1発殴られた」その人は、
溜まりに溜まった興奮(エネルギー)を
周囲に発散(放出)させることで
当人の興奮(怒り)は、遅かれ早かれ、
やがては収まるんでしょうけど・・
でも、その興奮(怒り)のトバッチリを被る、
周囲の人は迷惑しますよねぇ・・・
この一旦興奮して溜まったエネルギー(イライラ)が
冷静に戻ろうとして、その溜まった興奮(イライラのエネルギー)を
周囲に放出させる時の、イライラのエネルギー・・
これが放射能なんですよね。
だったら、初めから「オマエは馬鹿だなぁ!」なんて言たり
「ポカッって殴ったり」しないほうが、
いいに決まってますよね!
「オマエは馬鹿だなぁ・・」って、
人の悪口を言って「ポカリと1発殴る」こと。
これに相当するのが
原子核を破壊することなんですよね・・
はじめから原子核を破壊しなければ
放射能は(少なくとも人口放射能は)、
絶対に発生しないわけですから!!
そんな不自然なエネルギー放出(放射線)を
大量に地上に製造して、
それも、私たちの世代だけの、
快適さを満たすという欲望の故に・・
原子核を壊している・・
それが私たち人間なんですよね
そして、その「ツケ」として、
孫子の代まで、子々孫々、何十億年も後の世代にまで
彼らのDNAや分子結合や細胞を破壊し
貴重な免疫機能を破壊し、傷つけちゃう・・・
そんなものを、「科学的真理追究」の美名で
正当化させるほど、人間って、
何と罪深い存在なんだろうなぁ・・・・って
この40年間、つくづく思わされてきてます。
禁断の園の、「知恵の実」に手をかけてしまった人間は
こんどは、もうひとつの2本目の「いのちの実」にまで
その傲慢な手を、今まさに、伸ばし始めようとしていますよねぇ・・・
昨夜も御復活祭の聖金曜日のミサに参加しましたが、
そのミサ典礼の中で
大祭司カヤファが言ったという言葉に
「一人の人が民のために死ぬのは良いことだ」
の、有名な箇所の朗読がありましたけど・・・。
毎年7万人×過去40年間=280万人もの
被曝労働者(原発ジプシー)のいのちと引き替えに
日本国民1億2000万人が、電気を享受するために
原子力発電所を受け入れている・・・
これって、大祭司カヤファ風に言えば
「280万人の人が1億2000万人のために
死ぬのは良いことだ」
ってことですから・・・
1億2000万人のために犠牲になって、
原発労働者としていのちを磨り減らし、
遺伝子を損ない、死んでいってる280万人の被曝労働者にとっては
原子力発電所が安全運転だろうと、危険な杜撰な運転だろうと、
そんなことは、どっちでも同じことですから・・。
280万人どころか、海のお魚も、大地のお米も、
野菜も、牛や豚さんも、微生物も、土壌も、水も、空気も‥‥
山川草木悉有仏性のはずの
仏様から頂戴している、無数のいのちを
傷つけ、破壊し、汚染していく‥‥
これが放射能なのですよね!
「原発は安全ならあってもいいのでは‥‥」と
信じ込まされ、
原発を受け入れている、多くの日本国民も・・
大祭司カヤファ同様、
もの凄いエゴイストですよねぇ・・・
東本願寺大谷派さんでは、
原発反対の教団声明を発表しましたけれど、
キリスト教会諸派や他の宗教団体は
ごく一部以外は、放射能や原発に関しては、
固く沈黙したままですよね・・・・
希望を失わず、この地上を「最後の審判」のその日まで
イエス様の御言葉に従って
この地上を旅するのって、
大変なことだなぁ・・・・って
最近、つくづく思わされちゃってマ~ス (^^
一足早く、主イエス様の御復活の
お祝いを込めて・・・
皆様の御健康と、さらなるご活躍を、
お祈り申し上げます・・・
アシジのフランチェスコ 諸留(モロトメ)能興(ヨシオキ) 合掌
2012年御復活祭前の聖土曜日4月7日 送信
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