「教育の危機」とは何か
- 2012年 4月 9日
- 評論・紹介・意見
- 単位制学年制宇井 宙
やすい・ゆたか氏の単位制導入論に対して疑問を呈したところ、やすい氏から反論を頂戴しました。まずはそのことに御礼申し上げます。
やすい氏はまず、氏の単位制導入論が「既存の学校制度を前提に」しているという私の勘違いを指摘して下さった。やすい氏が、「大阪市の橋下市長が小中学校にも留年制をということだが、私は学年制そのものを再検討すべきだと思う」と書かれていたので、私はてっきり小中学校の「学年制そのものを再検討」し、単位制を導入すべしという主張だと勘違いしたのである。やむを得ない勘違いであったと思うが、やすい氏の単位制導入論は、学年制の廃止論とセットになっているだけでなく、「小中高大などというのはおよそナンセンスである」という、よりラディカルな教育改革思想が前提となっていることがわかった。しかし、そうなると、例えば、やすい氏はそもそも義務教育をどう考えておられるのか、といった疑問も生じる。やすい氏が具体的にどのような教育改革構想をお持ちであるのか(例えば、義務教育制度自体を廃止すべきであるといった主張なのか)、今なお私にはよくわからないので、それに関してコメントすることはできないが、私が単位制導入論に疑問を表明したのは、あくまで義務教育段階である小中学校に導入することに対してであった。大学は現に単位制であるが、それに対して私は反対ではない。高校については、現時点ではまだ考えが固まっていないが、あるいはやすい氏が主張されるような単位制の高校が(一部に)あってもいいのかもしれない。
いずれにせよ、やすい氏が学年制の廃止や小中高大といった学制の根本的変更といったラディカルな教育改革を提唱しておられるのは、「いまや教育は危機的状況にあり」、抜本的な教育改革を行わなければ「日本沈没は避けられない」との認識が前提になっていることはおそらく間違いないだろう。では、やすい氏がお考えになっている「教育の危機」とは一体何なのであろうか? この点も詳しくはわからないが、その一つに、「学力の低下」があることは間違いないだろう。やすい氏は3月3日のエッセイ「哲学ファンタジーが反響を呼ぶ-大学講義のあいまに(1)」の中でも「学力低下が深刻になり、倫理学や哲学の講義も旧態依然の概論的な講義では、内容を理解させ、集中させるのは極めて困難になってきている」と述べておられたし、前回(4月9日)の論考では「大学生が方程式の初歩を勉強している実態を御存知ないのだろうか」と書いておられた。1カ月余り前には、大学生の4人に1人が「平均」の意味を理解していないというニュースが流れたばかりだし、私もつい先日、大学教員をしている知人から、その人の教えている大学では4年生の英語の授業で現在完了形を教えている、といった話を聞いたばかりである。だから、大学生の学力が低下しているという実態自体は、私には意外でもなんでもないし、それ自体は確かに問題ではあるにしても「日本沈没は避けられない」というほどの大問題とは思っていない。
そうなった原因ははっきりしていると思う。ひとつは、80年代以降始まった「ゆとり教育」の推進、とりわけ92年から始まった「学校スリム化」改革=「週五日制」の導入に伴う授業時間と授業内容の削減である。教育社会学者の苅谷剛彦氏が『教育改革の幻想』(ちくま新書、2002年)の第3章で、様々な統計資料を用いて、1970年代から2000年にかけて中学生、高校生、大学生の勉強時間がいかに減少してきているかを実証しているので、それらを見ても、これで学力が低下しないはずはないことがわかる。もうひとつは、少子化の進展による大学全入時代の到来により、大学入試科目の削減、推薦入試やAO入試の導入・拡大による大学入学の容易化により受験生がますます勉強しなくなっているからである。
実は大学生の学力低下論は90年代の末からマスコミを賑わせていた。『分数ができない大学生』という本が話題になったのは1999年である。そのため、完全学校週五日制が始まる直前の2002年1月には遠山敦子文科相が「確かな学力の向上のための2002アピール『学びのすすめ』」を発表し、学力重視方針への転換が打ち出され、翌03年には実施されたばかりの学習指導要領が一部改訂され、2005年からは02年の新学習指導要領で削減された教科書の内容の多くが復活した。ところが、「ゆとり教育」=「新学力観」の建前は依然として維持したまま、「個性と能力に応じた教育」を掲げる新自由主義的改革路線の下、習熟度別学習、学校選択制、エリート的な中高一貫校の普及といった「強者の論理」に基づく教育「改革」が同時並行で推進されているのが現状である。現在の「教育の危機」を招いている元凶は、専門家や現場の教師の知見や実践を無視した政治主導の30年に及ぶ強引で歪んだ「教育改革」の押し付けであった(この間の歪んだ「教育改革」の混乱ぶりを概観するには藤田英典『義務教育を問いなおす』を参照されたい)。それによって、国際的には相対的に優れた水準にあった日本の教育制度が破壊されてきたのである。やすい氏は、「ただ反対というだけでは説得力がない」と言われるが、明らかな改悪に対しては、改悪をやめよ(=「ただ反対」)というのは正当な対案であると思う。
理想の教育論を述べることは意義のあることだが、教育の実態をみる「である論」を踏まえた「べき論」でなければ、理想が理想のまま空転してしまう恐れがあるのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0851 :120409〕
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