フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(5)
- 2012年 4月 10日
- スタディルーム
- フォルスターマインツ二本柳隆
4.1792年のマインツ――フォルスターとマインツ革命の烽火
キュスティースを指揮官とするフランス革命軍に対し、マインツの人々は力をもってするよりは従うことを選んだのである(1)。占領されたマインツでは、フランスのジャコバン・クラブに影響を受けたドイツ・ジャコバン派と総称される急進主義者たちが活動していた。そして、新たに政治クラブを結成したのである。これに参加した階層については興味深い。「あらゆる革命的な試みにおいて、下級階層の役割がいかに重要であったかは、マインツのジャコバン・クラブ員の454名の名前のリストによって示されている。実際、このリストは革命に反対する人々のよって出版されたのだが、幾人かの教授たちを除いて、典型的な下級階層の人々のみを含んでいたことが指摘されていた。」(2) これとはまったく反対に、「ラーマルス夫人は、あらゆる学者・教授・有識者がそれ(ジャコバン・クラブ――二本柳)に属していた」(3)と報告している。この二つの報告から明らかなことは、マインツの新しい政治クラブには下級階層・急進的知識人が加入していたことである。
この政治クラブは、フォルスターの加入を要望した。フォルスター自身、フランスのジャコバン・クラブには理解を示していたのである。「ジャコバンの憤激は何物にも恐れないでしょう。危機が絶頂に達した時、かれらは勢いを盛りかえすでしょう。(中略)どの党派も欠点を免れるわけにはゆきません。ただし、私はジャコバンの敵であるよりは味方です。かれらがいなかったらパリではすでに反革命が勝利を占めていたことでしょう。」(4) フォルスター自身、このように表明したこともあって、周囲からドイツのジャコバンと見なされていたが、マインツで新しく発足した政治クラブからの要望に応え、これに加入することになったのである。1792年のことであった(5)。
この政治クラブの指導でマインツにおいて共和主義革命にむけた運動が活発化したが、これがいわゆる「マインツ革命」である。ここで重要なことは、この運動に対して市民階層が静観していた点であろう(6)。市民たちのこ動向こそ、やがて政治クラブの運命を決定づけることになる。
註
1.reinhold Aris, History of Politicalthought in Germany from 1789 to 1815, George Allen& Unwin, 1965. p.40.
2.Aris, ibid., p.41.
3.Aris, ibid., p.41.
4.Gooch, ibid., p.307.
5.Sydney Seymour Biro, The German policy of revolutionary France, A Study in French diplomacy during the War of the First Coalition. 92-1797, Vol. I-II, Harvard University Press, 1957, p.106.
6.Aris, ibid., p.41.
5.フォルスター周辺の反応とフォルスターの挫折
フォルスターはフランス革命支持者の一部、いわゆるドイツ・ジャコバン派の支援のもとに、マインツ共和国への革命に立ち上がった。実際フォルスターがこの政治クラブに加わると、「ドイツ人の目からみてただちにマインツ革命の化身となった。」(1) かれはマインツでそれほどに著名な知識人なのであった。かれは同クラブで次の演説を行なった。「この3週間のあいだにわれわれは、抑圧され虐待され沈黙させられた僧侶の農奴から、自分の足で立つ自由な市民、自由と平等の勇敢な友人に変わりました。言語の相違で人種を区別する必要はありません。自由の勝利の歌声をドイツの方言のなかに高らかに響かせようではありませんか。いまや、あらゆるよき市民が味方になり自分の意見を表明すべき時であります。ここに私の主張があります。
(i) もっとも自由な憲法はもっともよき憲法である。
(ii) もし、われわれが憲法を確保する機会を逃すならば、われわれは神と世界に対し て顔を向けることができない。
(iii) われわれは二、三の個人のために都市や国家の自由と幸福とを犠牲にしてはなら ない。
(vi) われわれは、フランスの兄弟に与えられた自由と平等とを死に至るまで守らなけ ればならない。」(2)
フォルスターのこの演説に特徴的なのは、フランス革命の人権宣言が高らかに謳われていたことだ。この演説にはまた、ドイツ市民層を覚醒させる意図をもつと同時に、言語の捉え方、隣国の革命政府との一致協力という観点が含まれ、18世紀に共通の啓蒙主義の帰結であるコスモポリタニズムがうかがわれる。これらはフォルスター思想の基本的な性格であった。
フランス軍管轄下に成立した「マインツ革命」臨時政府のもとで、フォルスターは「新マインツ新聞」の編集を担当した。また、マインツを中心にライン地方諸都市のあいだに成立したライン公会の副議長に就任して活躍した(3)。
しかし、そうした革命的行動は、ライン地方の住民に必ずしも賛意をもって迎えられたわけではなかった。フォルスターをマインツ図書館長に推薦しフランス革命に好意的だったミュラーでさえも、次のように述べた。「ゲオルク・フォルスターは私にきたないしうちをした。マインツ市民にローテブーフ(赤本、フランス革命支援者の名簿――二本柳)に署名することを強いる演説で、私は心底から自由・平等の味方であると述べ、市民にためらうことなく自由と平等にかけて誓うように、という勧告を残していったと公言した。(中略)フォルスターは生来の狂信家で、物事の一面だけしかみていない。10年前にはかれは非常に信心深い男であったが、いまや聖書を嘲笑している。最大の頑迷は自由の使徒たちの中に見出される。全世界はジャコバン・クラブで仕立てられた上着を着なければならない。(中略)ヨーロッパは全体的な革命か、あるいは現存組織の著しい改革か、そのいずれかをみるであろう。すべての賢明な人たちの望んでいるのは後者であるが、私は前者が実現しやしなかと恐れている。」(4)
フォルスターの親近者たちも、かれに「選挙侯への忘恩」(5)を強調した。マインツ以外では、かつて親交のあったフンボルトも「高貴な品格の欠如だ」(6)と批判した。詩人シラーはケルナーに宛ててこう書いた。「フォルスターの行動はきっと皆から非難されるでしょう。」(7) また、当初フランス革命に好意を示したものの失望したヤコービーは、こう書いた。「フォルスター一派がフランスから幸福が来るであろうと、どうして期待できるのか、理解に苦しみます。」(8)
このようなことから次のことが言える。ドイツの知識人たちは当初、フランス革命の政治的原理には観念的に賛意を示した。しかし革命の展開とともに下層民への思いやりからロベスピェールの主張にみられるような過激化が進むと、こうした現実についていくことができなくなった。それ故に、当初フランス革命に好意を示していたドイツの知識人の一部は、失望を抱くようになっていったのである。
註
1.Gooch, ibid., p.309.
2.Gooch, ibid., p.310.
3.Gooch, ibid., p.312.
4.Gooch, ibid., p.51.
5.Gooch, ibid., p.310.
6.Gooch, ibid., p.310.
7.Gooch, ibid., p.310.
8.Gooch, ibid., p.56.
6.マインツ革命の挫折の原因
フランス革命に対する当初における賛意と後の失望、このことは、言い方を換えると、なぜ「1789年の運動がドイツの国境を越えて拡大しなかったのか、ドイツにおいてはまたなぜに革命を導かなかったのか」(1)という問いと同じである。ゲーテが晩年エッケルマンに語っていたことは興味深い。「ある国民のなかに大きな改革への真の欲求があるなら(中略)その改革は成功する。」(2) ゲーテが言うことはもっともなことだ。
すでに述べたように、「マインツ革命」を指導した政治クラブは下級階層や知識人から指示を得ていた。その限りでマインツにおいては改革への真の欲求があったと理解することは可能であろう。しかし、その勢力は拡大できなかった。政治クラブへの参加は、知識人を除いて参加がみられなかったのである。より正しくは、これらの人々は政治クラブに参加しなかったといった方が適切かもしれない(3)。 参加しなかった理由を考えるならば、これらの人々の社会的・政治的未熟さが取り上げられなければならない。第一に、ドイツ市民階層が王権=貴族層のもとで独立自営化を阻まれていたこと。第二に、出版への干渉が自由な世論の形成を妨げていた。それ故に市民階層は、いわんや農民階層は、革命的行動を理解できなかったばかりか、それに即応するだけの姿勢も欠けていた。
この意味で、フォルスターが「ドイツ人の怠惰と無関心は私を苛立たせる。かれらは何ごともしようとしない」(4)と嘆いたことは無理からぬことである。ヨハネス・フォン・ミュラーが「大衆はまったくどうすることもできない。不幸なことに、州の人々はお互いに知らなくて、共通に何もするいことができない」(5)と述べたことは、この事をよく伝えているといえよう。一部の知識人をも含めた市民階層・農民階層は封建的身分秩序によって社会的・政治的意識を骨抜きにされ、当時のドイツ人はまさに怠惰と無関心に満たされていたのである。また、「フランス革命の革命的性格が現実社会学的には十分にラディカルに作用しなかったのは、それに対する挙ぷめいが単にイデオロギー的なものでしかありえなかったからである。当時のドイツではまさにブルジョワ的要素がもっとも非活動的だったのだ」(6)ということは正しい。フォルスターが「われわれは7000人の著作家をもっているが、まだドイツには世論というものが存在しない」(7)と嘆いたのは、この事態を指していたのである。
「マインツ革命」は、1793年の春まで続いたが、それ意序は長続きせず、頓挫した。フォルスターはドイツを売り渡した売国奴として国外追放の憂き目にあう。帰える祖国を失ったかれは、翌年、パリで病におそわれ、40年の生涯を閉じたのである(8)。
フォルスターのナショナルなものへの視座は、後のナポレオンに対するドイツ人のナショナルなものとは違って、啓蒙主義に特有なコスモポリタン的性格をのものであった。革命行動に於けるフォルスターの悲劇の一因は、こうした点に求められるかもしれない。というのも、かれが指摘していたように、分裂状態にあって世論が十分に発達していなかったドイツで、フォルスターは《当為》を目指して行動したからである。
それとともに、フォルスターの革命的行動の悲劇は、記述したように、ドイツ人の社会的・政治的意識の未熟さ、あるいは怠惰と無関心といった国民的意識の欠如と言い換えることができよう。この意味で、フォルスターの悲劇はドイツの後進性=ドイツ的惨めさと、はからずも符号することとなったのである。
本章を閉じるにあたって、フォルスターの悲劇的な活動は、決してあだ花とはならなかった点を指摘したい。かれの死後、ライン河流域に属する地方はフランス革命の進行に深く影響され、そのなかから、ライン地方にも共和国を樹立しようとする動きが現れたからである。例えば、1797年、マインツからほど近いコブレンツ市を中心として、ライン左岸全体を一つの共和国に統一しようとする政治的運動がヨーゼフ・ゲルレスの指導で開始したのは、その好例である(9)。
因みに、ナポレオンによって世界史の舞台に登場したライン河流域(ドイツ西部)は、東部ドイツとは異なった状況に置かれることとなる(10)。その意味から1790年代ドイツの情況を考えるならば、マインツほかライン地方でのこうした動きと、プロイセンのように強固な封建的身分秩序によって絶対主義を維持していた地方とは、まさに対極の有様が示されることになる。次章以下では、こうした情況を踏まえて考察を進めたい。
註
1.Aris, ibid., p.23.
2.J.P.Eckermann, Gespraeche mit Goethe in den Letzten Jahren seines Lebens, III, 1848. 山下肇訳『ゲーテとの対話』(下)、岩波文庫、1976年、50ページ。
3.Aris, ibid., p.41. なお、アリスの次の発言は注目に値する。「ともかく、中産階級のメンバーが、キュスティーヌあての請願書のなかでみたように、静観したままであった。」ibid., p.40.
4.Gooch, ibid., p.312.
5.Aris, ibid., p.40.
6.K.Manheim, Das konservative Denken,. Soziologische Beitrage zum Werden das politisch-historischen Denkens in Deutschland. in Archiv fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik. Bd. 57, Heft1-2, Tuebingen, 1927. 石川康子訳「保守的思考」、『マンハイム全集3 社会学の謎』潮出版社、1976年、63ページ。
7.Aris, ibid., p.84.
8.Gooch, ibid., p.314.
9.十河佑貞、前掲書、38ページ。
10.十河佑貞、前掲書、38ページ。
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