ネオヒューマニズム入門 (下)
- 2012年 4月 11日
- スタディルーム
- ネオヒューマニズムフォイエルバッハホッブズマルクスやすい・ゆたか
6 現代ヒューマニズムの超克
ネオヒューマニズムというのは現代ヒューマニズムを超克するという面があるからで、現代ヒューマニズムとの区別をはっきりさせなければならない。それは何故脱ヒューマニズムではないのかもよく問われるところだ。またサルカール派のネオヒューマニズムとの異同も問題である。
若きマルクスの非有機的身体としての自然観は、ネオヒューマニズムの先駆だが、『資本論』のマルクスは現代ヒューマニズムの元祖である。現代ヒューマニズムは自己疎外論と同一視され、若きマルクスこそ現代ヒューマニズムの先駆と思われがちだ。
疎外論だけとってみればそうなのだが、現代ヒューマニズムは物質文明や巨大な国家・社会・経済機構によって主体性を喪失し、物化されて物から支配されるのに対して、人間の主体性を取り戻そうとする思想である。
もちろんそういう面はあるので、現代ヒューマニズムが無効だというわけではない。ただ現代ヒューマニズムは、人間は物ではないことを強調し、身体とそこに宿る人格にだけ人間を限定したうえで、人間ではない物の支配からの解放を叫ぶという限界がある。
しかし人間が生み出した機構や社会的諸事物を含めて人間社会は出来上がっており、それらを全て自己自身として引き受けた上で、それらを変革するのでなければならない。核兵器や原発も20世紀後半以降の人間の姿であり、それらを含めていったん自己自身と認めなければならない。
7 核兵器もヘドロもゴミの山も人間か?
ネオヒューマニズムが、社会的諸事物を人間に含めようと提言しているのに対して、核兵器も原発もヘドロも人間だということになれば、それらにも人権を認めなければならないので、無くせなくなるではないかという反論がある。
また社会的諸事物の中には当然栽培し、飼育し、狩猟や漁猟している動植物も含まれるが、それらも人間だとしたら、人間でないものが人間となり、人間が何だか分からなくなるし、それらにも人権を認めれば何も食べられないではないかという反論もある。
人格的な諸個人だけに人間を限定しないで、社会的諸事物や環境的自然にまで人間を拡大して捉えようというのがネオヒューマニズムである。何も社会的諸事物や環境的自然が人格を持っていて、その人格的な権利を尊重しようという話ではない。
人格的諸個人だけでは人間の何たるかは分からない、衣服や家屋、その他の人間生活を構成している全体として人間を把握しなければ、人間は理解できないということである。
豚は人間の食生活を構成しているという意味では人間に含まれるが、豚も人間に含まれるのなら豚は食べられないというわけではない。もし人間に含まれたら食べられないということになれば、食生活を人間から切り離すことになってしまう。
魚や豚や牛や穀物や野菜を食べているのが人間である。動植物は人間の食生活に含まれるという意味で人間に含まれているのである。フォイエルバッハは、「人間は人間が食べるところのものである」という表現で自然を人間に包摂しようとしたのである。
20世紀後半は核兵器が発達し、原子力発電が普及した時代である。核兵器は小型化、低廉化することで、弱小国まで保有できるようになり、核独占による超大国の覇権は幻想になりつつある。
核兵器を廃絶し、軍事力を国連などで統合することで、国民国家単位の武装を解除していかなければならない。そうでないと、民族紛争や文明間対立が煽られ、核脅迫で援助を引き出そうとする強盗国家が現れたり、国際テロ組織や宗教カルトなどが、全人類の存亡の危地に追いやることさえ可能になる。
そういう意味で核兵器は20世紀後半以降の人間存在の特色を表すものになっており、核兵器抜きに現代の人間存在を語ることはできない。その意味で核兵器は人間に含まれるが、だからといって核兵器も人間なので、核兵器の人権も尊重してなくしてはいけないという理屈は成り立たない。
それは人間を人格的諸個人に限定しないで、社会的諸事物まで拡大したのに、再び人間だから人格的存在で人権があるだろうと元の人間概念に狭めているから起こる誤解である。
核兵器は確かに現代の人間を語るのに重要な構成部分だが、それは思い切って切除しなければ人間全体を滅ぼしかねない病根である。既にそれは軍事政治経済で大きな部分を占めていて、それを含めて全体が回っているので、核兵器をなくしたり、原発をなくすと、軍事政治経済が今まで通りいかなくなり、混乱や支障をきたすことにもなる。
既に人間の内部あるからこそ困難な問題なのだが、人間自身の問題として主体的に捉え返して、将来の安全や人類の存続のために核兵器廃絶や原発の停止に全力でとりくまなければならないのである。それは大きな痛みを伴うことであるとしてもである。
8 組織体人間論
社会的諸事物や環境的自然も含めて人間を捉え返すというのが、ネオヒューマニズムだが、それプラス、個人だけでなく、組織体も人間として捉え返すという特色がある。
すでに1651年にホッブズは『リヴァイアサン』を著し、国家を巨大な人工機械人間であると主張した。これを比喩だと受け流す人が多いがそれはとんでもない誤解だ。
彼は個人の身体を欲望を充足することで動く自動機械と捉えたが、これは少しも比喩ではない。この欲望機械が集まり、部品となって構成した巨大な人工機械人間もだから比喩ではありえない。
組織体としての国家も意志や欲望を持ち、自己保存や自己発展のために運動する人間なのだ。たんなる利害調整の道具とみなしたらひどい目に遭わされるのである。
同様に企業体や組合、教会、学校などの組織体も、生きた人間として機能している。個人だけ人間と捉え、組織は個人の道具でしかないという論理はなかなか現実には通用しないのである。
組織体も生きた人間であり、個人は様々な組織体に属し、それにアイデンティティを感じつつ、個人特有の権利の維持、拡張を、組織体と調整しながら図っていくべきである。
組織体も生きた人間として捉えるならば、組織体自身が主体として、自己実現を図るべきだし、逆に自己疎外に陥れば、そこからの脱却をはからなければならない。自己疎外論も新たな展開が組織体人間論で必要になる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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