生産者と消費者が解りあうことをめざした会誌――『土に生きる』創刊号を手にして(2)
- 2012年 4月 16日
- スタディルーム
- 有機農業自然農業野沢敏治
手仕事のガリ版刷り
創刊号は1975年11月20日の発行。ガリバン刷りで簡素な仕上げ。今では見ることはできないがある世代にとってはなつかしいスタイルである。全28頁。表紙はタイトル・ページで目次がつく。裏表紙に手書きで千葉県の南にある三芳村を中心に50キロ圏、100キロ圏の地図がちょっとたどたどしく書かれていて、親しみがわく。三芳が生産者のいる所で、消費者はその50~100キロ圏に千葉市・東京都・横浜市と散開する。かなりの距離である。三芳村は現在は南房総市に組み込まれ、その由緒ある地名は地図から消えている。館山市が南隣りという位置。JRの館山駅からバスで行くことができる。ただし限られた本数しか出ていないので、訪ねる人は要注意。
会発足のころ――そんなことをしてももたないだろう
会の由来について。第8号にのった生産者の和田博之の報告をも参照するが、まずはざっと見るだけにする。立ちどまって耳を傾けることは次回からにする。
「安全な食べものを作って食べる」会は1973年にできた。同年10月3日に27名の三多摩のサラリーマン家庭の「主婦」たち――専業主婦だけでなく、仕事を持ったり、地域やPTAに積極的に関わっている人が混じる――が家族に安心して食べさせるものを求めて、三芳村を訪れたのが会設立の契機となる。三芳が選ばれたのは、京浜工業地帯から離れていて房総の先端にあり、公害の心配はなかったからである。彼女らの求めに最終的に応えてできたのが、18戸の農家による「三芳村安全食糧生産グループ」。当時はどこでもそうであったが、農業の専業では経営が苦しいので兼業の家が続出していた。政府は1960年の農業基本法を制定していらい、専業農家の経営自立をめざして適地適作を勧めていたのだが、なかなか効果が上がらなかった。農家は家計を補助するために工業地帯に出稼ぎに出る。あるいは自治体が誘致した企業に雇われて現金収入を得る。やがて農家の収入は農業よりも工場勤めで得るほうが大きくなっていく。統計用語でいう第2種兼業である。三芳村もこんな状況になっていた。だから生産者側が言うように、主婦の求めに応じて自然農業専業に賭けてだめになってももともとと考えていた。
はじめは技術員や周囲のものは奇異なことをするという反応であった。それはどの有機農業者に対しても同じであった。その例――畑に化学肥料を入れなくてもまだそれが残っているから、1,2年はできるかもしれないが、その後はだめだ。東京の人たちは野菜を受け取ってもちゃんとお金を払ってくれるのかね。栄養素の欠乏や石灰なしによる酸性化で3年くらいでだめになるのでないか、など。それが、どっこい、今日までちゃんと続いてきている。同会は既に40年近くの歴史をもつ。
飯島伸子さん作成の年表
1973年というと、その18年前の55年末に始まり57年まで続いた最初の高度成長(神武景気)の後、何回かの反動の不況を伴ってであるが経済成長を続け、日本中が乱舞していた時である。その年の名目経済成長率21.8パーセント、実質で7.9パーセントという高さ。今では考えられない数字である。でも10月に石油ショックが起こり、おかしなモノ不足現象と狂乱物価の騒ぎを起こす。そして不況と高物価の併存というそれまで経験したことのないスタグフレーションに遭う。それまでのケインズ主義的に利子率を操作して上下させたり、財政を出動させて有効需要を創出するのでは対処できなくなる。
他方、公害は60年代から続いたままであった。東京湾の魚介類はPCBで汚染される、宮崎県の土呂久鉱山のヒ素による中毒が公害病と認定される、熊本地裁は水俣病でチッ素の過失責任を認める、森永ミルク中毒の被害者が会社と国に賠償を求める、東京杉並区のごみはその行き場を失って山積みとなる、石油コンビナートの爆発事故が多発する…。いくら書いても書ききれないほどの公害現象。飯島伸子の労作『公害・労災・職業病年表』(すいれん社)がそれらを実に丁寧に記録している。それも江戸時代からという長期にわたる時間の中で。こういう地味な、でも絶対に必要な仕事をしている人がいるんだ。新版が出ている。
そんな時にあちこちで有機農業運動が始まる。同会はその1つであった。
既存の組織では対応できない
同会は会の発足2年後の11月20日、この第1号の会報を出す。会報は情報の公共の広場であり、消費者と生産者が交流するさいの基礎的な媒体となる。その発足1ヶ月前の10月には奈良県五条市で第1回の全国有機農業大会が開かれている。奈良県といえば、慈光会が有機農業の先達として知る人ぞ知る存在であった。有吉佐和子が2年後の1975年に『複合汚染』をだすが、そこで同会が紹介される。有吉は、自分の本で報告することで有名になって物見的に訪ねる人が増え、先方に迷惑をかけることのないようにしてほしいと、気づかっている。ついでながら『複合汚染』には続篇があることを記しておく。
本号では最初に消費者側を代表して戸谷委代さんの文章があり、次に生産者側を代表して和田博之さんの文章がある。その後に生産者会員と消費者会員の文章が続き、当時の会代表であった岡田米雄の小論で終わっている。食品公害からの脱出はこういう人たちによって切り開かれていく。彼らはそれまでの社会運動の担い手であった政党や労働組合、知識人・学生、そして既存の生協の人々ではない。それまでは意味のあったこれらの組織の活動は、例外を除けば、この新たな課題にたいして対応できず、弾力的でなかった。このことは有機農業運動だけでなく、当時のほぼすべての住民運動について言えることであった。それらの代わりにこのような住民運動が出てきたのである。
三芳村の会員農家は1975年時時点では当初より増えて39戸、自然農業の面積は8ha(平均一戸あたり20a)である。規模は小さい。会誌の第2号で慣行栽培を含めた全耕作面積と鶏の飼育数が出るが、それを見ても小規模である。当時の有機農業の生産者は異端視され、孤立しがちであったから、これだけの数のまとまった生産者集団ができたことが人の注目をひいた。消費者会員の方は最初は100名くらいであったが、その後増加の一途をたどっていく。80年代に入ると、1300名にまで増える。これほど多数の消費者が参加するのも珍しかったから、やはり注目される。
ごく普通の「主婦」の運動
戸谷さんや他の消費者会員が本会の趣旨や目的について語っている。ここではそれをざっと見ることにする。突っ込んだ検討は次回からにする。
会を作るきっかけは消費者側にあった。消費者は家族の中に何らかの健康問題を抱えていたり、子供の将来を考えて、食品の安全に対して神経をとがらせていた。それとは別にもっと広く日本や地球の環境問題やエネルギー問題に関心をもつ者もいた。これらの消費者がもう手遅れかもしれないという危機感のなかで動く。そういうわけだから、それは何も特殊な運動体がやることでなく、普通の人間が「当り前の正しい生き方・在り方として、実践していきたい」という運動であった。これは当時のあちこちで起きた住民運動に共通することである。自覚した平凡人による活動。彼女らは切迫した気持で三芳に押しかける。中には農家が化学肥料や農薬を使わざるを得ない事情にあったことを十分に理解しないこともあったから、安全あさりの消費者のわがままだ、とてもできない相談だと受けとられることもあった。でもそのエネルギーと行動力が事態を動かす。有機農業は運動体によって多少違いはあるが、きっかけはこのように消費者が作るものが多かった。
消費者のリーダーたちは自然農業とは何であり、それを求めることの意味をよくつかんでいたと思う。
なぜ草むらでも野菜は育つのか
有機農業はよく化学肥料や農薬を使わない農業のことと言われる。それでは狭い見方になる。自然農業は「自然の理法」に基づく農法である。それがもっと具体的に何かは後の回で出していくが、それを象徴する言葉が「荒れ地は荒れ地の力で復興する」こととされる。自然農業とは自然の力を生かすこととなのである。耕された畑でない草むらなのに、そこにショウガができる。田んぼの土手では手を加えられていないのに、トマトができる。それはなぜか。そこに疑問をもち、自然の知恵を探り出すこと、それが自然農業だと言う。ここまで言うと、経済学史の研究者であるならば、18世紀の西欧の経済学者であるF.ケネーやA・スミスを思い出してよい。ピンとこない者はよほどの怠け者であろう。会誌第2号でも生産者の稲葉が野菜を雑草と共生させることに言及している。
生産者が鶏も飼う。その場合、一般のケージ飼いのように濃厚飼料を用いて黄身の盛り上がった卵を沢山産ませるのでなく、米ぬかやくず米の粗飼料を与える程度で放し飼いと平飼いをする。その卵の黄身の色は薄く盛り上がってもいないが、味の良さは口にしたものでないと分からない。私は千葉大の1年生相手の基礎ゼミで学生にそのことを実験させた。その学生が感心したことは言うまでもない。
食生活改善運動への疑問と生活様式の変革
消費者もただ安全な食べ物を求めるのでなく、生活様式を変えることに取り組む。消費者はそれまでの生活スタイルを変える。店に行ってただ「商品」を買うのでない。消費者主権とか「消費者は王様」という宣伝で洗脳されることはない。当時の雰囲気は、今買うことができるのにローンを利用しないのは馬鹿だというものであった。消費者ローンはアメリカの消費スタイルの導入であった。
消費者は栄養バランスを考えて食生活をするものと教えられてきた。日本人は米の主食に比べて副食物が少ないとか、植物性たんぱくは摂れているが動物性たんぱくは少ないと批判されてきた。だから肉や卵、牛乳や加工品を摂らねばならないと教育されてきた。これは戦後の食生活改善運動や学校での家庭科の授業で学ばされたことであった。それはそれで良いが、自覚した消費者はそこに問題をみつける。動物性たんぱくを多くとると、どうしても野菜をつける必要が出る。そこでいつでも食べられる肉に対応して冬でもトマトやキャベツをつけることになってしまう。そのためにビニールハウスや植物工場が立つ。消費者はそのような食生活と生産に対して批判的な知識を得、家庭で自己変革していく。
会の3原則 価格づけと引き取り、配送
消費者は生産者と契約を結んで次の2つの原則を受け入れる。もう1つ、配送は生産者が引き受けることについては、後の号で常に問題にされるので、そこにまわす。以下のことは他の集団についても同じである。
生産者は自分で作った農産物に自分で価格をつける。それは従来、農民が経験したことのないことであった。それまでは農協に出して経済連をへ――まとまった量で販売力をつけることはできても――、市場に買いたたかれていた。価格を自分の裁量でかなり自由につけることのできたのは工業分野の寡占企業であったから、農民はそのことをうらやましく思っていた。それが自分でできるようになったのである。その中身の検討についてはこれも後の号で出るのでその時に廻す。
消費者はその時々にできた作物を全量引き取る。これも消費者が経験したことのないことであった。これは文字通りのものでなく、生産者の方で自主的に調整していたことが後でわかるが。いずれにしても消費者は生産者から来たものを受け取って、その日の献立を考える。普通は今日の献立を考えてから店に食材を買いに出る。それとは逆なのである。
お互いに解り合うとは? 消費者よ、笑ってくれるな
どの運動でもそうであるが、やがて活動が軌道に乗ってその仕組みに慣れる時がやってくる。すると最初の頃の新鮮さや緊張感は薄れ、消費者は安全なものをただ受け取るだけになっていく。マンネリ化する。四季折々のものをただ受け取るだけの消費者になっていく。そして人並にいろいろ不満をだす。あれが少ない、これが多すぎると。
そんなときに生産者の村を訪ねる、あるいは縁農で農作業の手伝いをする。そのさいに現場で生産者が多品目を少量づつ作っているのをみると、十分な量を入手できないわけが分かり、もっと長い目で見守らねばならないことに気づく。マルクスが消費を生産の完成と位置づけたことはこういうことをも含むと、読み深めることができる。こうしてくると、「市場」の中にいた時の消費者は眼の前の利益を考えるのみであったことを知る。生産者は自然農業に生活をかけている。そのことに比べれば、同会の消費者は当時ではかなり高かった1万円の基金の支払いをしたのであるが、それでも自分の生活をかけたとはとても言えないことに気づく。着いた野菜が苦情を言いたくなるほどのキズものであっても、その原因――季節が不順であったこと、運送の際に不手際があったこと――が分かれば、我慢することを覚える。季節は一定でないから、同じような形の野菜ばかりでできることはない。また生産者の1人ひとりの技術の違いがある。こうして消費者はそういうことを受け止めて行こうという気になる。
消費者が変わるのであれば、生産者・農民の方も変わる。
生産者は消費者と直接に意をつうじるようになる。――農産物は天候不順に負けると限られたものしかできず、消費者会員から「同じような野菜ばかりではちょっと困る」と苦情が出る。生産者はそれに対して、天候のために「生産者はいくら努力してもなかなか思うようにゆきません」と伝える。また生産者は、大根のしんくい虫を取りきれず、人参の生育も悪かったが、消費者にはそれでもここまでこの野菜は育ったという生命力を理解してほしいと言いたい気持になる。生産者は慣行栽培の場合でも農産物を子供のように育てると思うことがあるが、その程度は自然農業の方がずっと大きい。葉物などは遠い距離を運ぶと痛むことがあるが、生産者はそれを聞くとがっかりしてしまう。でも消費者からの苦情が改善や合理化を考えるうえで大事な要素となる。生産者側でも苦情に対して生産物評価委員をおいて対応していく。だからできた物の完全引き取りといっても、生産者の都合を一方的に通すのではない。消費者が届いた小松菜に色の違いがあったと指摘する。生産者はそれは早生とおく手の違いによるものだと知らせてやる。こういうことを知らずにいると、余計な不満を消費者にもたせてしまうからである。生産者は時に消費者に食べ方を教える。秋ナスは皮が汚くなり、身も固いが、固有の味があってそれなりに美味しいものであることを教える。
もう1度、和田や他の生産者に聞こう。自然農業は生産者と消費者が理解し合うことについて。
1973年は異常気象で梅雨時に梅雨らしいこともなく、7月以来旱魃気味で、やっと9月24日に雨が降った。待ちに待った雨だ。そのため秋野菜の播きつけは1ヶ月遅れ、収穫も2ケ月遅れるだろうと予測する。こういう季節の時には虫が発生しやすい。特に大根にシンクイ虫がつきやすい。対策としては、もう1度畝間に大根をまくか、針がねで(!)1つずつつぶす。この虫はよく見ないと見逃してしまい、全部はなかなか取りきれない。野菜を自家用にしていれば、できない時にはできないで仕方ないと済ませられるが、消費者が相手ではそうはいかず、そのことが理解してもらえるか、心配になる。野菜は雨を待ち続けた「生命が作り上げたもの」だから、形が悪くて小さくても消費者よ、笑ってくれるなという気持になる。
消費者はこれを聞くとなかなか届かない野菜であっても辛抱できるだろう。普通の市場を通した消費者であれば、すっかり「商品」の論理に乗せられてしまい、ぶーぶー文句を言うか、他の店に変えるだけのこと。
こうして両者はお互いの立場にたって相手を理解することができる。市場では相互理解はできない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study476:120416〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。