単元単位制への疑問(その3)
- 2012年 4月 16日
- 評論・紹介・意見
- 単元単位制学力宇井 宙義務教育
やすい・ゆたかさんの単元単位制導入論(4月7日「学年制を廃止し単位制にせよ―大学講義のあいまに(6)」)に対してこれまで2度にわたり疑問を提起した(4月8日「小中学校への単位制導入論への疑問」、4月9日「「教育の危機」とは何か」)ところ、やすいさんからはいずれに対しても迅速かつ丁寧な応答を頂いた(4月9日「単位制導入論への宇井さんの批判に応える」、4月10日「義務教育論と単元単位制導入について―宇井さんの再反論に応える―」)。そこで、私もやすいさんの応答とご批判に対してお応えしなければ、と思いながら、仕事や他の用事にかまけているうちに1週間が過ぎてしまった。その間、やすいさんからはこのテーマに関して2度の投稿(4月11日「単元単位制への石塚さんの懸念に応える」、4月15日「「単元単位制」導入論はユニークではない―大学講義のあいまに(7)」)があった。これらにより、やすいさんの単元単位制構想が徐々に明らかになってきたが、私には今なおよくわからない点がある。それは、現在の義務教育制度や必修科目制度と、単元単位制の導入との関係を、やすいさんがどのように考えておられるのか、ということである。つまり、現在の義務教育制度と必修科目制度を維持したまま単元単位制を導入すべしというのか、それとも義務教育や必修制は廃止してしまって単元単位制を導入すべしということなのだろうか。(あるいは、おそらく最も可能性が高い予想としては、前者から後者への段階的移行を考えておられるのだろうか?)私の考えでは、どちらのケースであっても非常に問題が大きいと思うのだが、それについて論じる前に、まずはやすいさんのご批判に応えるべきであろう。
1.批判への応答
やすいさんから寄せられた批判は次の2点であると思う(実はもう一点、「国家の自己疎外の深刻さに気付いていない」とのご批判もあるようだが、これについてはご批判の意味がわからないので、お応えできない)。
① 既存の学校制度には修得進度の速い児童生徒の学力の伸長ができず、遅い児童生徒のフォローができないという問題があるが、それをどうするかという対案を示すべきである。
② 学力低下問題を日本沈没につながるほどの問題でないと受け止めている根拠は何か。
■第1点目について
理解が早い子どもと遅い子どもがいることから、学力にある程度の格差がつくこと自体は避けられないし、この問題は単位制を導入したからといって解消できるものではないと思う(理由は後述)。ただ、もちろん理解の遅い子どもに対して、教師ができるだけ丁寧なフォローができるような教員の支援体制の拡充が必要である。(逆に理解の早い子どもに対する手当は別段必要ではないと思う。)ところが、この間、学校現場では、「改革」に次ぐ「改革」によって教員たちが多忙感と徒労感とに苛まれているというのが実態である。文科省が2006年に実施した勤務実態調査によれば、小中学校の教師の残業時間は40年前の5倍に増加しており、1日の勤務時間で子どもと関わる時間は6割にすぎないのに、休憩時間はわずか8分という激務で、連日3時間近い無報酬残業を続けても仕事が終わらず、自宅で1日平均30分の持ち帰り仕事をこなしているという。このような慢性的な過重労働によって心身に不調をきたす教師も増加している。そうなった原因は近年の新自由主義的な相次ぐ「改革」により学校経営に数値目標による管理と査定が浸透したことに伴う雑多な会議と書類処理の増大、授業を担当しない中間管理職が増えたこと、教員免許更新制の導入に伴い各学校の10分の1の教師が講習会へ駆り出されること、「心の教育」にはじまり、国際理解教育、情報教育、健康教育、キャリア教育・職場体験学習、食育、安全指導、小学校での英語教育、武道の男女必修化と留まるところを知らない学校の課題・役割の増大などである。学校と教師は、これほど理不尽な無理難題を押し付けられる一方で、政治家やマスメディアからはバッシングを受けるばかりである。その結果、東京都では高校教師の研修として予備校への研修が義務づけられ、多くの県では教師の社会常識向上のため、企業研修が盛んになるなど、教職の尊厳は毀損される一方である(藤田英典編『誰のための「教育再生」か』参照)。このような状態では、教師が一人一人の、とりわけ学習の遅れがちな子どもの学力向上に取り組むゆとりがあるはずもない。
また、学力格差の存在それ自体よりも重大な問題は、学力格差が近年広がってきていることにある。これは第2点目とも関連することだが、近年の学力低下問題とは実は学力格差の問題でもある。というのは、「学力の低下」はあらゆる層で均等に起きているのではなく、上位層ではさほどの変化はないにも拘わらず、下位層にいくほど学力の低下が大きくなっているからだ。言うまでもなく、これは「既存の学校制度」の問題などではなく、近年の相次ぐ「教育改革」の結果である。とりわけ2002年から完全学校五日制がスタートし、改訂された学習指導要領の下で教育内容が3割も削減される一方で、エリート的な中高一貫校や習熟度別学習と学校選択制が広まったことによって、学力の格差が広まったと考えられる。家庭環境の格差が学力格差を拡大再生産する構造が作られたことが大きな問題だと私は考える。それゆえ、私の対案は、これまで述べてきたような、90年代から始まり、2000年代になって急速に進展した、新自由主義・効率主義・成果主義・管理主義に基づく政治主導の教育「改革」をやめよ、というものである。
■第2点目について
この点は、私自身、投稿した後で、誤解を招くかもしれないと若干危惧していたことである。私が前回、「それ(大学生の学力低下=引用者)自体は確かに問題ではあるにしても「日本沈没は避けられない」というほどの大問題とは思っていない」と書いたのは、大学生の学力低下というのは、「確かに問題ではある」が、それ自体が問題の根源といった性質の問題なのではなく、90年代末以降、政治主導で推進されてきた一連の「教育改革」という名の改悪政策によって引き起こされた諸々の悪しき結果のひとつにすぎないのであるから、「学力低下」といった問題の表層だけに捉われるのではなく、問題の根源に取り組むこと、すなわち、こうした一連の誤った「教育改革」を食い止めることこそが重要である、との認識からである。
また、PISAやTIMSSといった国際学力比較調査を見ても、比較的最近まで日本の子どもは相対的に優れた学力を維持していたのであり、学力が低下してきたのはここ10年程の現象にすぎない、という事実も抑えておく必要があろう。そうすれば、学力低下の原因が「既存の学校制度」にあるのではなく、近年の相次ぐ「教育改革」にあることもわかるはずである(苅谷剛彦・山口二郎『格差社会と教育改革』参照)。
2.単元単位制への疑問
先に述べたように、やすいさんの単元単位制導入論が、現在の義務教育制度と必修科目制度を維持したまま(でも)導入すべしという意見なのか、それとも義務教育や必修制は廃止すべしという意見なのか、私には今なおはっきりわかりかねるところがある。
やすいさんがイバン・イリイチ(「イヴァン・イリッチ」とも)に共感を寄せておられることや、「学校という近代教育制度はもうぼちぼち耐用年数がきた」、「小中高大などというのはおよそナンセンスである」(9日)、「そもそも小中高大という既成の学校制度を前提に教育改革を語るべき段階ではない」(10日)、「既成の学校制度、それ自体が耐用年数が過ぎていて、解体すべきだという意見である。それに代わるのに共に働き、共に学ぶような場所の形成を目指すべきだ」、「卒業というのは制度的に廃止して…」(11日)といった主張から考えれば、後者であるように思われる。その一方で、「「単元単位制」を小学校に導入しても、最初から自由な受講登録制にする必要はない」(15日)という記述もあり、「単元ごとの単位認定制を実験的にやってみることを奨めたい」(9日)、「今は実験的にいろんな制度を行ってその効果を確かめるべき段階である」(4月10日)といった提言と併せて読むと、今すぐ小中高大という学校制度を解体するのはさすがに無理なので、それまでの間は、既存の学校制度を前提に単元単位制を「実験的に」導入すべきだ、というご意見であるように見受けられる。(もっとも、そうだとすると、私がやすいさんの単位制導入論を「既存の学校制度を前提に小中学校への単位制導入を考えていると勘違いして」いるとの9日のご指摘は何だったのか、との疑問も湧く。)私は、どちらにしても単位制の導入には問題があると思うので、義務教育・必修制と併存する場合と、義務教育・必修制を廃止した場合とに分けて考えたい。
■義務教育・必修制との併存
義務教育と必修科目制度を存置したまま単元単位制(以下、単に単位制と表記する)を導入すればどうなるか。単位制とは「マスターしたら次に進む」という制度であるから、逆に言えば「マスターするまで次には進めない」ということである。いくら「教育機器を活用し、マンツーマン指導ができる自修および補習体制を整える」(7日)といったところで、人によってどうしても苦手な科目や単元というものが存在する以上、いつまで経っても次に進めない、あるいは次に進めるまでに何年も要するような単元や科目が生じることは避けがたい。やすいさんが15日の記事で紹介された「発声練習」のブログ主氏が述べておられるように、「こういうシステムだったら、たぶん、私は鉄棒の逆上がりができなくて今でも小学生だな」といった事態が広範に生じる、ということである。人によっては何年経っても小学校を卒業(「修了」と呼んでも同じことである)できない、あるいは卒業するまでに10年も20年もかかるという事態が生じることは避けがたいように思われる。やすいさんはこうした事態を「是」とされるのであろうか。
ついでに言うと、大人になってからの5歳や10歳はそれほど大きな差ではないが、子どもにとって3歳違えば体格ひとつとっても大きな相違である。大学生でも留年を繰り返していると友達がいなくなってしまうという問題があるのに、3歳も5歳も年下の子どもと同じクラスで授業を受けなければならない子どもが心に劣等感を抱かずにすむとは私には考えられないのである。
■義務教育・必修制の廃止
さて、上記のような問題を避けるために(あるいは別の理由からにせよ)、義務教育や必修制度を廃止してしまったらどうなるだろうか。私は、そのときこそ深刻な学力低下問題が生じることは間違いないように思う。多くの子どもにとって、勉強というものは楽しくて仕方ないようなものではないと思う。やすいさんは、それは十分理解しないまま進むからだと仰るかもしれないが、私は必ずしもそうではないと思う。私は小中学校の学習内容は大体理解していたと思うが、それでも勉強は嫌いだったし、できればしたくなかった。それでも、嫌々ながらも勉強したのは、やはり卒業しなければならない、という思いがあったからだろう。もしも必修科目もなく、卒業もなくなってしまえば、多くの子どもは現在よりもはるかに勉強しなくなることは必至だと思われ、深刻な学力低下は免れないと思うのだが……。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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