音と音楽――その面白くて不思議なもの(9)
- 2012年 4月 17日
- スタディルーム
- 再生装置石塚正英野沢敏治音音楽
第9回 再生装置について
>往< 石塚正英さんへ 野沢敏治から
近ごろ、パソコンから取り入れた音楽をイヤホンで聴いている若者をよく見かけます。ちゃちな器具に見えるけれど、楽しめるんですね。考えてみれば、高級な再生装置だって結局はおもちゃの箱のようなものです。音楽を楽しむ本道はみなで歌ったり、音楽会に出かけることでしょう。それが哀しいかな、音楽を楽しむ手段の方に没入しがちです。ぼくがそうでした。
手巻きのポータブル蓄音器に見いる
まだ幼稚園の頃、1950年ごろだったと思う。日本は戦後の復興の真最中で、まだ傷痍軍人が白衣を着て街頭に立ち、募金を求めている時でした。ぼくは母・子2人が間借りしている部屋を時々訪ねては、手巻きのポータブル蓄音器で初めてレコードなるものを聴いていました。ハンドルを手にとってゼンマイを巻き、SPレコードをおいて回転させ、あのS字にまがった円筒の先に針のついたものを置くのです。音はその下の箱の中からか細く出てきました。ぼくはそれに見いってしまいました。ゼンマイが切れてくると、音がう~ぅ~う~と、遅く弱くなる。あわててゼンマイを巻く。ビクター・レコードのトレードマークがラッパ型スピーカーのついたポータブル蓄音器の前で犬が耳をかしげて聴いている、そんな感じでした。宮沢賢治などはそのラッパの中に頭をつっこむようにしてレコードを聴いていたそうです。
ずいぶん後になって知ったのですが、アメリカでは1920年代に図体の大きい電蓄が開発されていました。グレデンザーです。これは今でも町田にあるオーディオ・テクニカ社の蓄音機博物館で試聴することができます。
自分専用の装置をもつ
さて、少年は自分でもレコード・プレーヤーをもちたいと思いました。日本が高度成長に入った1950年代後半、中学1年生の時です。親が日立の製品を買ってくれました。粗末なものでしたが、少年は得意でした。ターンテーブルの回転が33、45、88回転とあって、それぞれで30センチ・25センチのLP(長時間演奏)が、12センチのEP(LPより短いが長時間演奏)が、重量のあるSP(短時間演奏)が再生できるものでした。回転数の設定を間違えると、とんでもないことになります。LPを45回転で聴くと、救急車のようなもの。EPを33回転で聴くとふらふら声になってしまいます。そんなものでも自分専用にできたことがうれしかった。
ソノシートなんていうセロハンレコードもあったなぁ。針を降ろしたら刺さってしまうようなペラペラでした。レコードはふつう円周の外側から針を入れますが、1番内側から針を置くものもありました。アームが遠心力でレコードの溝から外に飛ばされるような感じがしました。音はちゃんと出るんです。
ちょっと変な凝りよう
少年は次第にもっといい音で聴きたいと思うようになります。1950年代の後半から既にステレオLPが開発されていて、評論家の間でモノラルと比較した議論がありました。雑誌を買ったりカタログを入手したりして、どんな装置があるか、眺めていました。そしてついに買ってもらったのです。親が無尽でお金を用意してくれました。高1の時です。山水のアンプ、C-2のモノラル専用カートリッジとステレオ・カートリッジ、オイルダンパーのアーム、30センチウーファーと小型のホーン・ツィーターの2ウエイ・スピーカー。これが東京の電気店から届いて部屋に並んでいた時の壮麗さ。うれしかったですね。当時の田舎都市では贅沢なものでした。さー、聴いた、聴いた。ぼくは長野県の進学校に通っていたんですが、すっかりこれに取りつかれてしまいました。
ぼくが本当に度肝をぬかれたのはイギリスのデッカ発売のレコード、G・ショルティ指揮、ウィーン・フィルの演奏、ジョン・カルショー録音監督のワグナーのオペラに針を降ろした時です。装置の前で唖然としてしまいました。ウィンナホルン特有の宏壮な音、柔らかい木管、絹のような艶の弦、パシッときくティンパニー、そしてオーケストラ全体がそこに手に取るようにしてあるんです。カルショーの録音の仕方には評価が分かれていました。ワンポイント・マイクでなく、それぞれの楽器群の中にマイクを沢山設置して音を拾うんです。それで約15分きざみに録音をためていく。同一の楽節を複数とってそこから1番いいものを選ぶ。ホルン群の合奏の時などは別の部屋で録音して後でミックスする。人工の限りを尽くしています。ですから、実演では聴こえない音が耳に入る。歌手の声はオペラハウスでは普通、オーケストラの音響に埋もれがちです。それがくっきりとシャープに出てくる。でもレコードはこれに限らず、結局はみな編集されていること知っていきます。そのことを解ったうえで聴くしかないのですね。
ぼくは変に凝ってしまいました。サテンのレースのカーテンを装置の前に引いて装置を見ずに音にだけ集中する。高音スピーカーの出口の前にレンガを置いて音を散らして柔らかくする。スピーカーの下にブロックを置いて音がすっきり出るようにする、など。
数字信仰に対抗していい装置を探す
次第にいい音ってなんだろうと考えるようになりました。聴いていて疲れない、高い音を派手に出さない、低音をごうごうと強調しない、中音がしっかり出る、そういうものを求めるようになる。行きついたのが三菱電機がNHKのモニター用に開発した2S305でした。今でも御茶ノ水の電気店をのぞけば中古品で出ています。
他方、1960年代から70年代にかけては日本の音響機器開発の全盛期でした。カートリッジの針圧1グラムでもレコードの溝をしっかり拾うとか、周波数の幅を下は20サイクル前後から上は2万サイクル以上をカバーする、アンプの出力を100ワット前後まで高める、等々。数値で装置の良さを競っていました。それに振りまわされない思想をもっていたのはイギリスのタンノイ・スピーカーやデンマークのオルトフォン・カートリッジなどでした。日本にも2S305のように少しずつ思想のあるものが出始めていたのです。
CDは?
CDが出た時にはあまり感心しませんでした。音がLPより良いとは言えなかったからです
ある時、U先生「CDはピアノはいいが、弦はもう一つだな」。
ぼく、まじめに「それはそれ、弦は弓でこするでしょう。LPは針で溝をこするでしょう。それで合うんです」。
U先生、にやりとして「変な理屈だなぁ」。
CDの録音はその後改善されたようですが、ジャケットの楽しみはゼロになりました。LP時代には芸術的なものがありました。それに解説にいいものがありました。バッハの平均率やモーツアルトの交響曲全集の時など。ケンプが弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集には付録で全曲の大型楽譜がついていた! 今は寂しいですね。
今のぼくは前ほど装置にこだわらなくなっています。小型ラジオで楽しめるようになりました。今の若者に近くなっています。それでもかつて極限を求めて耳にしていた音の影をひいて聴いているように思います。
これでぼくの再生装置めぐりはおしまい。石塚さんはどうですか。
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>復< 野沢敏治さんへ 石塚正英から
パーフェクトなステレオ!
私がステレオを手に入れたのは、1965年頃、高校生のときです。当時、ステレオにはアンサンブル型とセパレート型がありました。それにモジュラーステレオもありました。これはいわば、今のコンポ型の先駆です。現在はもっといろいろあるとは思いますが、うちに来たのは日本ビクターが「モデルチェンジをしない永遠のステレオ」と宣伝していたもので、たしか「パーフェクト6」といったような気がします。FMなどラジオ放送も受信できて、すごくうれしく思った記憶があります。なにしろ永遠のステレオ、パーフェクトですからね。
最初のうちは録音状態がバッチリとの先入観で聴いていたドイツグラモフォン社のをまわしました。クラシック音楽といえばドイツでしょ、ドイツとくればグラモフォン社でしょっ、という単純な発想でした。なので、もっぱらカラヤン指揮ベルリンフィルのブラームス、ベートーヴェンでした。まぁ、当時の私はメジャー好みでしたし、再生装置がパーフェクトなものでしたから、パーフェクトな演奏をもとめてベルリンフィルのレコードを買いそろえていったのです。
でも、そのうち、モノラルを擬似ステレオ化したフルトヴェングラーを好むようになりました。これこそメジャー中のメジャーということでしょうが、擬似ステレオの音質はやはり劣るのでした。音質でカラヤンか、演奏でフルベンか、といった比較を我が家のステレオで愉しみました。さらには、「運命」なら「運命」をいろんな指揮者やフィルハーモニーで聞き分ける遊びも始めました。マーラーならクレンペラーが最高とか、いや高弟ワルターが一番とか。ヨッフムとくればブルックナーでしょ、とか。みな自分ひとりで自室にこもり、あれこれ試したというわけです。
ところがあるとき、パーフェクトはパーフェクトに響かなくなり出しました。飽きがきたのでしょうかね。それで、ステレオの両サイドに座敷のテーブルを扇形に立ててみました。残響・反響を工夫したのです。いやぁ、うまくいきました。大晦日にきいた第9などは素晴らしい残響音となって私の身体を振るわせたのです。ついたてステレオというか、サイドテーブル・ステレオというか、これで自前の残響効果を発揮させたのです。というか、実におもしろかったです。
三波春夫と擬似ライブ録音
あるとき、レコードのなかに三波春夫と美空ひばりのがあることに気づきました。ははぁ、お袋だナ、と思いました。図星でした。父が母に買ってやったのか、それはそれは豪華なレコードジャケットでした。緞帳(どんちょう)に「お客様は神様です」のせりふの熨斗紙(のしがみ)が張り付いたようなパッケージでした。クラシックしかかけたことのないステレオから、今はこぶしの効いた演歌が流れる。ああ、それもおつなもの。「元禄名槍譜 俵星玄蕃」なんぞは10分もあるのですが、けっこうしびれました。ステレオならではの迫力でした。ここではyou-tubeで聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=SyXg8qwoG7w
私は、それまでポピュラー音楽は別として、歌謡曲にはまったく興味がなかったのです。しかし、母親の影響で、いやパーフェクト6のおかげで、うなり節が大好きになりました。
そのせいか、私は大学に進学して都会で暮らすようになると、歌謡曲に妙な安らぎを感じるようになりました。もうステレオは部屋にありません。あるのはラジオのほか、「デンスケ」と称するソニーのカセット録音機だけでした。ところが、この録音機にはラジオがついていないのです。ラジカセが出回る前だったのです。なので、手持ちのラジオから拾う音を録音するか、どこかから録音されたテープを借りなければならないのでした。パーフェクトから離れるとこうも音から遠ざかるのかと、しみじみ感じ入るのでした。それで、家に帰省すると、例のサイドテーブル・ステレオで好きな音楽を流し、いつも聞き入る中心に録音機をおき、自前でいろんな曲をテープに入れることにしたのです。おかしなものです。スピーカーから出て来る空気振動を録音したのですからね。でも、これがいいんです。ウーファだのツィーターだの、すべて録音機に届く。まぁ、ライブ録音のようです。名付けて「擬似ライブ録音」。しかし、デンスケは、実は音楽には向かないのでした。これは取材用に開発されたものでした。ソニーだからいいだろうと思い、よく仕様・機能を確かめないで購入してしまったのでした。中学生の頃オープンリールのテープレコーダーを使っていたので、音楽に就いてはそれに録音し、東京のアパートにもって行って聴いていたというわけです。でも、時代はあっという間にオープンリールからカセットへとどんどん先に進みました。
子どもの歌声を録音
たしか、ジョン・レノンが殺された頃でした。30歳代になっていた私は、浦和市内に構えていた我が家にダブルカセットのラジカセを購入しました。それにはスピーカーが左右についていたので、ステレオ音楽を楽しむことができるようになりました。でも、すでに父親になっていましたので、生まれた子どもがやがて幼児語で歌うようになった、その振動音を録音することが増えました。そして、誕生日になると、3歳の頃、5歳の頃、おまえはこんな声で歌っていたんだよ、と言って聴かせました。長男には、胎児の頃、シェラザードを聴かせていました。静寂でゆったりと始まり、次第に情熱的に抑揚がついてゆくテーマ音楽、それは胎教にいいと思ったのか、さて、今となっては忘れましたが、効果のほどは、さぁ、よく分かりません。ただ、幼児のころの歌い方や音程はさほどまずくはなかったようです。そのダブルカセットレコーダーは、その後15年は使いましたが、やがて、我が家はミニ・コンポを購入する時代へと移り行くのでした。
やがて私は、仕事に出かけるとき、ウォークマンをジャケットのポケットに入れる癖がつきました。90年代のことです。でも、歩きながら聴くのはクラシックでなく60年代から70年代に流行したフォークソングやポピュラーな曲目ばかりでした。この再生装置でクラシックを聴こうなどと、思ったことがありません。3分くらいで次々と曲目がかわる、私には、歩いているときはそのほうがマッチしていたようです。でも、カセットテープ時代が終わるころ、新しい機種に買い替えてまではウォークマンを愛用することはありませんでした。50歳代になると、ひたすら歩きに徹していくのです。音楽は音楽として聴く習慣にもどっていったようです。
その間、田舎においてあった例のパーフェクト・ステレオは、父がだれかに譲ったのでした。もう家にもどらない子どものために、あの馬鹿デカイのを置いておくのは意味がないと思ったのでしょう。母も、カラオケで佐渡おけさを練習するのが何よりでして、レコードはもう聴かなくなっていました。それで、あの思い出多きパーフェクト6は別の所有者のもとにもらわれていったのでした。
今にして思えば、アンサンブル型は場所をとります。重いので移動するのも疲れます。それに、今はCDの時代です。いいえ、you-tubeで手軽に、無料で音楽を楽しむ時代です。再生装置はもはや無用の長物といえるかもしれません。ですが、今だからこそ、どうしてもナガオカの針をレコード盤に置かなければ音楽を聴いた気がしない、という人が復活しています。私自身はそこまで強く意識していませんが、一応、レコードプレーヤーを1台持っています。ですので、高校時代に購入したクラシック名盤を、聴こうと思えばそれは可能なのです。でも、かつてハイティーンの頃パーフェクト6で馴染んだシンフォニーに、アラカン過ぎの私は、はたして再会できるでしょうか。それより、いまはミニ・コンポにCDをおいて、1950年クレンペラーがシドニーで演奏したマーラーの2番「復活」などを楽しんでいます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study477:120417〕
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