フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(6)
- 2012年 4月 24日
- スタディルーム
- フランス革命ヘルダー二本柳隆
第3章 ヘルダーの「ナショナリズム」論――18世紀後期のドイツ社会思想の一形態
フランス革命後のドイツ社会思想界に現れた動向は、革命によって触発され、革命の賛否をめぐる論争に揺り動かされた、といってが過言ではない。いずれもみな、フランス革命を抜きにしては考えられない(1)。
そのうち、革命に否定的な社会思想として、イギリスのエドモンド・バークに影響を受けたレーベルクの『フランスで出版されたフランス革命に関するもっとも注目に値する諸著作についての批判的報告』(2部本、ハノーヴァーおよびオスナブリュック、1792年)ゲンツ著作のドイツ語訳出版(1793年)をあげることができる。
また、フランス革命に対して賛意を表明した社会思想として、まずはヘルダーの『人間性を促進するための手紙』(1793年、以下『手紙』と略記)があげられる。これが刊行されて数ヵ月後にでたフィヒテ『フランス革命にかんする公衆の判断を是正するための寄与』、カント「理論では正しいかかも知れないが実践には役立たないという通説について」が発表された。
これらの著作のなかでフィヒテや間とのものは、人権宣言など革命の政治的内情を受けて発表されたものであった。それに対してヘルダーの場合は、少々事情を異にする。言うなれば、フランス革命への対応の仕方、革命のなかに認めた内容が異なっていたと言える。つまり、フィヒテやカントは啓蒙思想の延長上デフランス革命を捉え、人権宣言の自然法的コスモポリタニズムを確信したのに対し、ヘルダーはフランス革命のなかに、とりわけ高揚した「国民意識」に、革命以前から考察の対象としてきた自己のナショナリズム論を確信したのであった。
本章でヘルダーのナショナリズム論を考察する場合、革命後に書かれた上記著作はもとより、革命前の1774年に出版された『人間性形成のための歴史哲学異説』(以下『異説』と略記)、1784年に出版された『人間性の歴史哲学への構想』(以下『構想』と略記)をも検討し、ヘルダーのナショナリズム論がどういう経緯から生まれてきたのかを、まず明らかにしなければならない(2)。
註
1.次章第1節参照。
2.以下に、本章で検討するヘルダー著作を列記する。
Herder, Briefe zu Befoerderung der Humanitaet, 1793, Saemtliche Werke XVII, Herausgegeben von Bernhard Suphan Georg Olms Verlagbuchhandlung, Hildesheim, 1967.
Herder, Auch eine Philosophie der Geschichte zur Bildung der Meschheit, 1774, Saemtliche Werke V, Herausgegeben von Bernhard Suphan Georg Olms Verlagbuchhandlung, Hildesheim, 1967. 十字慶紀・小栗浩訳『人間性形成のための歴史哲学異説』、『世界の名著 続7 ヘルダー・ゲーテ』中央公論社、1975年。
Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit, 1784, Saemtliche Werke XIII, Herausgegeben von Bernhard Suphan Georg Olms Verlagbuchhandlung, Hildesheim, 1967. 田中萃一郎・河合貞一訳『歴史哲学』上巻、丁子屋書店、1948年。
1.ヘルダーの社会思想への基本的視座
18世紀後半ドイツの知識人(著述家・芸術家・学者など)は、一部の意例外を除いて、生活の向上を求めて郷里を離れ、流転を経験しなければならなかった。ヘルダーもその一人である。かれの生地は東プロイセンのモールンゲンであり、そこからケーニヒスベルク、バーデン、ブリッケブルク、ワイマルへ転々とし、そこで亡くなった。
ところで、フランス革命前のドイツの政治的情況については第1章で検討したが、ヘルダーのナショナリズム論の形成過程は、実に、このような18世紀後半ドイツの政治的・文化的情況と深くかかわっていた。とくに、プロイセン国王フリードリヒ2世(大王、位1740~86)の政策が重要であった。
フリードリヒ大王が在位期間に行なった文化的政策がいかに強固な根を張ったか、それは大王死後の1790年代をみても理解できる。例えば、モーリッツ・アルントが1840年に出版した回想録には、1790年代にかれの住む北ドイツでは農家の娘までもが好んでフランス語を用いていたと報告されている(1)。大王による文化政策の根幹は、ようするにフランス文化の徹底した模倣であった。「フランス文学、フランス精神は、彼にとり私生活の楽しみにもまた文化政策にも欠くことのできない最高のものであった。」(2) したがって、大王はドイツ語よりフランス語を重視した。この結果、「18世紀ドイツにおいてフランス語は、優れて、文学や上流社会の言葉と考えられた」(3)のであった。
こうしたフリードリヒ大王の文化政策の背景として、隣国フランスにおける啓蒙主義者たちの活躍をあげることができる。大王即位後フランスではテュルゴが『人間精神の進歩の書原因』を、モンテスキューが『法の精神』を著し、続いてディドロ・ダランベール編による『百科全書』が刊行され、ヴォルテールは『哲学書簡』『イギリス便り』を出版した。啓蒙主義者が活躍していたフランスに比較するならば、ドイツはいま一歩、立ち後れていた。そこで大王自らがまず啓蒙君主であることを宣言した。その際、ディルタイが言っているように、「フランス語やフランス文学によく通じることが、われわれ(ドイツ人――二本柳)の独自の発展を準備するための必要な手段」(4)と考えられるに至ったのだと言えよう。
しかし、大王のこうした文化政策は、確実に、ドイツ文化の育成を妨げることにつながっていった。換言するならば、フランスの啓蒙主義者はフリードリヒ大王の恩恵に浴したが、ドイツで自国の文化を担う知識人は孤立していたということである。「フリードリヒ大王はドイツの文学や著作家に対して軽蔑を隠さなかった。」(5) このようにドイツ語=母国語を軽視しドイツの文学や著作家を軽蔑するならば、それはドイツ文化のみならずドイツの歴史そのものを軽視・蔑視することになるのは、言うまでもない。この点が、われわれにとって重要なのである。つまり、その結果いやが上にも、ドイツの知識人の意識は不幸で惨めなものとなったが、こうした意識情況こそが、ドイツの国民文化と歴史そのものを根底的に捉え直す契機のもなったのであった。
レッシングはこの事情をすでに見抜いていた。1767年の『ハンブルク演劇論』でかれは言った。「われわれドイツ人は、まだ国民ではなかった――わたしは政治的状態のことをいっているのではなく、たんに倫理的性格のことをいっているのである。あるいはこのようにいう者もあることであろう。この性格は特有のものを持とうとはしないのだ、と。われわれは相も変わらずすべての外国風の忠実な模倣者であり、ことに相も変わらずいかに賞讃してもまだ足りないフランス人の恭順な賞讃者である。」(6) ここでレッシングは、ドイツ人であるという倫理性の欠如を強調している。このことは、18世紀後期にプロイセン王フリードリヒ大王が行なったフランス文化の模倣に対する警告とみていい。すでにレッシング自身が、ことを洞察していた。かれからすると、政治的状態よりも先に文化的状態で、ドイツ人が自らの文化を獲得し、「国民」になることが先決だ、と了解していたとみることができよう。
レッシングの『ハンブルク演劇論』が発表されて10年後の1777年、ヘルダーは注目すべき発言を行なった。この発言をレッシングの発言と比べると、前者は後者以上にドイツの国民文化を考えていたことがわかる。「われわれは国民という幹の上に枝がしげるように、われわれの近代文学がその上に生長していったようなどんな生きた文学も、古い時代からうけつがなかった。(中略)われわれ哀れなドイツ人は、一度もわれわれのものではないという運命にあった。(中略)もしわれわれが民衆をもたないならば、永久にわれわれは聴衆も国民ももたず、われわれのものでありわれわれのなかに生きて作用する国語も文学ももたないのだ。われわれはただ永久に書斎の学習のために書き、誰も理解せず、誰も欲せず、誰も感じないようなや英雄詩や教会や台所の歌をこしらえるのだ。」(7) ヘルダーのこの発言は、警告というよりは、自らドイツ人であることへの認識の自覚と反省のもとに立脚していた発言と受けとめることができる。ヘルダーは、自分たちドイツ人の境遇を「哀れなドイツ人」としながらも、かれの眼目は、「民衆」を軽視するところでは「国民」なる言葉も存在しないし、「国語や文学」も育つことはない、と洞察しているところにある。この際、「国民」と「民衆」が同一レベルで語られていたことを看過してはいけない。つまり、ヘルダーにすると国民文化の担い手は国民=民衆であり、国民文化は、そこに住む民衆がつくりあげ、歴史もまた民衆によってつくり上げられる、ということだ(8)。
ヘルダーの国民文化へのこのような洞察は、じつは1769年の『旅行記(Journal meiner Reise im Jahre 1769.)』からの成果であったことがわかる。十河佑貞氏によれば、そのなかには、次のような内容が記されている。「モンテスキュー、ダランベール、ヴォルテール、ルソーの時代とてもすでに過ぎ去っている。フランスの国民は独創力を失っており、フランスから学びとるべき何ものもないと断定している。また、フランスはやがて後退するであろうし、ヴォルテールやモンテスキューのような人が死んだあとには、これに代わるべき人もいないし、百科全書をつくって得意になっているが、ディドゥローやダランベールなどは、これまったく自分を低下させているにすぎず、かれらの頽廃の徴候はすでに歴然として現れていると難じている。」(9)
『旅行紀』の成果を踏まえて、ヘルダー自身、フランス文化の模倣から解放され、国民文化への深い洞察へとつながっていく。この試みが1774年の『異議』であった。そのなかでヘルダーは次のように書いている。「幸いにしてわがヨーロッパでは、国民性の違いはすべて消えてしまった。われわれはすべて愛しあっている。あるいはむしろ、誰も他を愛することを要しない。われわれは心が通じあっている。お互いに全く同じである。――教養があり、礼儀正しく、幸福である。祖国をもたず、一身を捧げる身分もないが、その代わりわれわれは博愛主義者で世界市民だ。ヨーロッパのすべての支配者は、今でももうフランス語を話しているが、間もなくわれわれはフランス語を話すようになるだろう。」(10)
ここでヘルダーは、啓蒙主義のコスモポリタニズム的傾向を述べているが、同時に、在位中のフリードリヒ大王がすすめるフランス文化模倣的政策への批判とも受けとめることができよう。この際とくに重要なのは、この後に続く文章だ。「われわれはフランス語を話すようになる」として、「国民性などはどこにいってしまうのだろう。」(11) ヘルダーは、フリードリヒ大王のフランス文化模倣的政策と、フランス語重視とドイツ語=国語軽視が「国民性」の喪失に繋がる者だということを、改めて危惧していたのだ(12)。
註
1.Elie Kedourie, Nationalism, London, 1974, p.60.
2.Wilhelm Dilthey, Friedrich der Grosse und die deutsche Aufklaerung, in Studien zur Geschichte des deutschen Geistes, Wilhelm Diltheys Gesammelte Schriften, 3, Leipzig und Berlin, 1927. 村岡晢訳『フリードリヒ大王とドイツ啓蒙主義』創文社、1975年、8ページ。
3.Kedourie, ibid., p.60.
4.Dilthey, ibid., 村岡訳、42ページ。
5.Kedourie, ibid., p.60. 田中克彦氏は著作『ことばと国家』で、1750年、ベルリンのフリードリヒ大王のもとに滞在していたヴォルテールが、パリの友人に宛てて書いた書簡を紹介している。「私はここでは、まるでフランスにいるような気がする。ベルリンではもっぱらフランス語だけが話されており、ドイツ語を使うのは兵士や馬に話しかけるときぐらいのものだ。大王の弟はあるプロイセンの貴族に、ドイツの馬になりたくなければフランス語を勉強した方がいいよとすすめられたそうだ。」(同書、96ページ) さらに田中氏は、フリードリヒ大王の晩年をこう書いている。「大王自身も、1780年には、『ドイツの文学について』というフランス語の文章のなかで、ドイツ語はだと書いた。この表題には『ドイツ語を非難し得る欠陥について、その理由は何か、いかにしてそれをただすことができるか』という副題がついていた。大王は、フランス語のひびきが洗練されてやわらかいのにくらべて、ドイツ語が硬いことを嘆き、ついには動詞の形をかえることさえ提案した。sagen, geben ザーゲン、ゲーベン(言う、与える)は、最後に母音を加えてsagena, gebena ザーゲナ、ゲーベナとやわらかくひびかせようと。もちろんその文章の組みたても、フランス語に似せて、より簡潔に、論理的に、分析的に、客観的に改めれば、この野蛮方言もやがてはヨーロッパ・コンサートになかで第一バイオリンを弾けるようになれることもあろうと述べた。」田中克彦、前掲書、96-7ページ。
なお、田中氏はこの叙述のすぐ後、「大王がこう書いた頃、ドイツにはすでにゲーテ、クロプシュトック、レッシング、ヘルダーなどの活動」(97ページ)と記しているが、このことはまことに的を射たものである。
このほか、本文とは直接関係はないが、ラテン語との比較を論じておくこともドイツ史における国語=ドイツ語の占める位置づけを知る上で参考となろう。上山安敏著『法社会史』(みすず書房、1973年、279-80ページ)に次の文章がある。「われわれはドイツの1564年から1846年の新刊書目録の集計から次のような興味ある命題をとらえることができる。第一はドイツではラテン語の文献が相対的に多く、ドイツ語文献の進出がフランス、イギリスに比し比較的に遅れていること。このことは文化の後進性を帯びたドイツとしては当然な現象であり、このことがドイツ文化の前提」となった。「第二にドイツでは17世紀の終盤を境として大きな変化がみられる。すなわち17世紀初めと18世紀の中頃とを比較するとき注目すべき発展に気がつこう。ラテン語の文献はドイツ語のそれよりも2倍も高かった。(中略)ゲーテが最初の作品を出した1760年代の終りには、ドイツ語はラテン語の4倍に達した。思想のコミュニケーションにおけるドイツ語の使用量の増加は、当然のことながら言語の一般的統一と純化、及びドイツ人が自ら誇る文学的言語の出現と一致した。第三にこの現象を種々の分野すなわち神学、法学、医学、その補助学を含めた歴史、哲学、詩、音楽の7部門に分けると、その中でドイツ語が先ず浸透し始めるのは、歴史部門である。すでに17世紀の終り頃にドイツ語が優勢を占める。暫く後になり、哲学が続く。そのうちに数学、自然科学がでる。殆んど同じくして医学がドイツ語になる。すでに1680年にドイツ本は過半数を越えたが医学では長い抵抗を示している。もっとも遅かったのはであった。もっとも多く排他的な学識的学問としての法学の面目が躍如としている。フリードリヒ大王時代に初めてドイツ語が優越している。」(280~1ページ) 法学の面から分析しているのは、さすがにドイツ法学研究者の一人としての著者の面目を発揮している。その際、著者が表(279ページ)を作成するにあたって用いている、F. Paulsen, Geschichte der gelehrten Unterrichts, II, S.690-f.においても、大王全盛期においてフランス語の占める位置は、ラテン語と大差なかった。
6.Lessing, hamburgische Dramaturgie, 1764. 奥住綱男訳『ハンブルク演劇論』下巻、現代思潮社、1973年、787ページ。
本文でも指摘しておいたように、ここでレッシングはドイツ人の倫理性の欠如、簡単に言うならドイツ人であることの自覚の欠如を批判し、また、大王のフランス文化模倣政策に対し徹底的に批判したのだった。レッシングには、こうした情況下でドイツの愛国者になることは当然できなかった。かれはグラアムにこう述べている。「恐らく私の心のなかに愛国心が全然なくなったわけではないでしょうが、熱烈な愛国者としてほめられることは、私の望むところではありません。お恥ずかしい話ですが、私には祖国愛というものがいかなるものであるかが全くわかりません。それは、私には英雄的な錯誤のように思われ、そのようなものから解放されたいと思います。」Gooch, Germany and the French Revolution. Frank Cass, 1965, p.34. ドイツの文学や著作家を冷遇していた情況のもとでは、レッシングが述べていたように、〈祖国愛〉など生じる余地がなかった、といってよかろう。
7.Georg Lukács, Fortschritt und Reaction in der deutschen Literatur, Berlin, 1947. Deutsche Literatur im Zeitalter des Imperialismus: eine Uebersicht ihrer Hauptstroemungen, Berlin, 1945. 道家忠道・小場瀬卓三訳『ドイツ文学小史』岩波現代叢書、1969年、2ページ。
8.ヘルダーのこの視座は、1893年の『人間性を促進するための手紙』で再度確認され、強調される。
9.十河佑貞「ヘルダーとフランス啓蒙主義者」、『フランス革命思想の研究――バーク・ゲンツ・ゲルレスをめぐって』東海大学出版会、1976年、所収。
11.Herder, ibid., S.551. 十字慶喜・小栗浩訳、前掲書、142ページ。ヘルダーのこの発言の背景、換言するならば、『異説』を発表した背景には、「外国文化の模倣に対する不満と、祖国の歴史に対する郷愁とが、しだいにヘルダーの胸奥にうごめいていた」といえよう。十河佑貞、前掲書、237ページ。
12.ヘルダーの「言語」観については、後節で検討する。
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