「おまかせ民主主義」にサヨナラ -日本の民主主義をどう建て直すか-
- 2012年 4月 25日
- 時代をみる
- 参加安原和雄民主主義
国民一人ひとりが民主主義の権利を行使しないで一部の人に任せてしまう「おまかせ民主主義」にサヨナラという気運が広がり始めた。しかもわが国の民主主義を建て直すにはどうしたらよいかに関心が集まりつつある。
2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)の「みどりの未来ガイドブック」(政策案内書)が「おまかせ民主主義」の改革について解説している。行き詰まった現在の民主党政治の打破をめざす新風であり、その行方に注目したい。(2012年4月25日掲載)
▽ 「おまかせ」をどう克服するか
湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)が朝日新聞(4月13日付)オピニオン欄でインタビューに答えて、〈「おまかせ」はダメ、主権者の力を示し、一つずつ変えたい〉と以下のように語っている。
「議会制民主主義には改善すべき点が多々ありますが、複雑なものを無理にシンプルにしよう、ガラガラポンしてしまおうという欲求の高まりには危機感を覚えます」
― 橋下徹(大阪市長)現象、ですね
「橋下さんが支持を集めているのは『決めてくれる人』だからで、その方向性は問われません。『おまかせ民主主義』の延長に橋下さんへの期待がある。
― 政治家にならないのですか。
日本の民主主義の現状は危機的です。『おまかせ』の回路を何としても変えたい。主権者としての力を示したい。
このインタビュー記事の中に「おまかせ民主主義」という指摘が登場していることに着目したい。この「おまかせ民主主義」という表現は、最近目に付くようになってきた。その顕著な一例は、2012年7月に環境政党「緑の党」を旗揚げし、2013年参議院選挙に初名乗りすることをめざす「みどりの未来」(現在、地方議員を主体とする政治組織)で、その「みどりの未来ガイドブック」が「おまかせ民主主義にサヨナラ」と題してくわしく解説している。
「おまかせ民主主義」とはどういう含意なのか。それを克服するためには何が必要なのか。その骨子は以下の通りである。
(1)民主主義の3原則
民衆(市民)が主権者であるためには、以下の3原則が必要不可欠
①情報公開なくして民主主義なし=情報が不正確で部分的であれば、妥当な決定もできない。
②熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる。
③民意が届く決定システムを=決定の影響を最も受ける当事者の民意が優先的に配慮されるべきである。
(2)福島原発事故で露呈した日本民主主義の貧困
①情報秘匿(市民には知らせない)=電力需給の逼迫を煽るための電力会社の恣意的な数値と情報操作。原発コストを低くするための情報操作など
②説明責任の放棄(決定・判断の理由を適切に適切に説明しない)=事故直後から多用される「ただちに影響はない」は説明責任放棄の象徴
③形骸化する公開議論やメディア=審議会、学会での原発反対の専門家やNGOを排除する姿勢など
④意見表明のための公共空間の規制=デモ(パレード)への過剰規制など
⑤国民投票・住民投票への無関心=決定権限は政府、政党、専門家、業界にあるとして、脱原発の民意無視など
⑥民意を反映・活性化させない選挙制度=民意をねじ曲げる小選挙区制を堅持し、比例代表制を無視など
(3)参加民主主義へ
①正確かつ全面的な情報公開のために=市民が参加する自立したメディアの発展と育成など
②開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保など
③民意が届く決定システムのために=現行の小選挙区制から比例代表制への転換、国民投票や住民投票など直接投票促進のための制度改革など
④自由・分権・平等を保障する政党内民主主義=政党の決定と異なる意見を表明する権利など
(4)責任を引き受ける民主主義へ
*なぜ「おまかせ民主主義」だったのか
・外交、平和、軍事などの「アメリカへのおまかせ」
・「官僚主導の経済成長へのおまかせ」の体質は依然として払拭できていない
・閉鎖集団化(原子力村!)と自己中心主義・孤独化
・集団も個人も、私的利益の視点からの政府への不満・批判に終始し、公共的議論が衰退*「参加」とは「責任を引き受ける」こと
・「おまかせ」して物事がうまく行く時代は終わった。社会全体の共通利益のためには、決定権を一部に「おまかせ」してきた市民が、参加する権利を獲得すること
・参加民主主義とは、他者との対話・論争・熟議によって「共通の利益のための決定」というプロセスの責任を引き受けること
▽「おまかせ民主主義にサヨナラ」のキーワード
以上の「おまかせ民主主義にサヨナラ」の中から「サヨナラ」を実現するためのキーワードを抽出すると、以下のようである。
情報公開、熟議、民意、説明責任、国民投票、住民投票、比例代表制、自立したメディア、公共的議論、参加と責任を引き受けること、などが挙げられる。これらのキーワードの中で注目すべきは、熟議、自立したメディア、公共的義論、参加と責任である。
*熟議とは
まず熟議とはどういう含意か。上述の「(1)民主主義の3原則」に②「民主主義の熟議なくして妥当な決定なし=市民やNGOの多様な意見が表明され議論されることで、妥当な決定が可能となる」とある。たしかに民主主義のためには熟議、すなわち市民やNGOなどの多様な意見表明と議論が不可欠である。これまで日本社会には多様な要求はあったが、ややもすれば言いっぱなしで、その是非をめぐる熱心な議論は少なかった。
*自立したメディア
新聞、テレビなどメディアは、政府などの権力の意向に追随するのではなく、批判的視点を堅持しなければならない。それが「自立したメディア」本来の姿勢であるが、現状はそうではない。テレビはいうまでもなく、昨今は大手メディアまでも権力にすり寄る姿勢が目立つ。これでは「おまかせ民主主義にサヨナラ」はとても無理で、むしろ「サヨナラ」の足を引っ張ることになりかねないだろう。
*公共的議論
公共的議論という表現自体、日本では馴染みにくい。何を含意しているのか。「(3)参加民主主義へ」の②に「開かれた公共的議論のために=利害当事者から独立した公共的議論の場の確保」とある。例えば脱原発をめぐる議論では、利害当事者の「電力会社を含む原発推進複合体」は参加資格なし、である。それは当然として、ではいわゆる良心的、中立的な立場の有識者であれば、公共的議論が可能なのか。未知の分野への試みとして評価したい。
*参加と責任
「(4)責任を引き受ける民主主義」という発想も目新しい。今では「参加」は常套句にさえなっている。しかし「参加」しながら、それに伴う「責任」を参加者ひとり一人が引き受けるという観念は従来薄かった。今後はどうか。例えば脱原発はむろん正しい。重要なことは脱原発路線に参加、つまり賛成しながら、どう責任を引き受けるのか。それは仮に電力が不足すれば(電力会社に都合のいい電力不足説は論外として)、節電に協力し、それを受け入れるということだろう。こういう責任感覚は原発大惨事以降、広がりつつある。
<安原の感想> 脱「おまかせ民主主義」と脱原発を求めて
次のような新聞記事の一節を紹介する。
「日本は、えらい人にやってもらう『水戸黄門』文化がいまだに色濃い。自分たちで金を出し合って雇う『七人の侍』的要素が、必ずしも広がらない」
一進一退、あきらめずにやるしかないと菅は思う。(4月24日付朝日新聞の「ニッポン 人・脈・記」から)
文中の菅とは、市民運動から政界入りした菅直人前首相を指している。「水戸黄門」と「七人の侍」の対比が適切かどうかはさておき、興味深い指摘である。「水戸黄門」文化とは、いいかえれば「おまかせ民主主義」の雰囲気がある。
「3.11」後の脱原発を軸とする日本の変革をどう進めるか。その有力な手法、行動、知恵となるのが脱「おまかせ民主主義」であることは間違いない。
例えば電力不足と節電をどう理解し行動するかである。現在定期検査で停止中の原発を運転再開しないと、電力不足が生じるので、脱原発は現実的ではないというのが民主党政権、大企業、電力会社などの言い分である。これに対し、朝日新聞(4月24日付)世論調査(近畿=京都、大阪の2府、滋賀、兵庫、奈良、和歌山の4県が対象)によると、「節電や一時的な計画停電が必要になってもよいか」の問いに「なってもよい」の答えが77%に上る。節電志向は圧倒的多数派である。
つまり脱原発を前提に節電の心構えは広がりつつあるのだ。このことは「おまかせ民主主義」にサヨナラの気運が高まりつつあるともいえるのではないか。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(12年4月25日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1923:120425〕
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