個の尊厳と自由の精神に対立する自らの 「国家」という意識(その1)
- 2012年 4月 27日
- 評論・紹介・意見
- 個国家大木 保自由
「悪者」退治の若き黄門さまは、「正義の人」なのか?・・
常盤マンサクが妖しく咲きほこる
春の陽気にさそわれてか、
ひとは 自分自身を律することをわすれたように、
精神がいずこにかに 逸脱することがしばしばみられます。
すくなくとも、このことを避けるためには、ひとつには
日頃からよく読書をして、他者からなにごとかをまなぶ姿勢を身に着けなければなりません。
たとえば、ヘレン・ケラーの『自伝』や
彼女を教育したアン・サリバン先生の『ヘレン・ケラーはどう教育されたか?』は、
どんな子どもも、教育によってはじめて人間的に成長することをしらされます。
そういう意味において、
みなさん方にとっても 必須といえる本だといえます。
あるいは、瀬江千史氏の『育児の生理学』は、
認識論に裏打ちされた「人間とは何か」、「医学とは何か」の立場から
子どもの身体と心の生理についてていねいに説きあかされていますので、
子育てに悩むお母さんはもちろんですが、
どなたが読まれてもあらたな理解がえられるすぐれた本といえます。
それから、読書のあとはそのつど、
読んだところまでの本の内容を簡潔に記述していくと
格段に頭に認識されてさらによいでしょう。
そしてその本の内容をだれかに話すことや、ディベートする機会をもてれば
いっそう認識が深まり、身につくでしょう。
このような頭(脳)のはたらかせ方が、社会生活において、
自分をつねに律していくためのおおきな力になるし、
もしもクスリやサプリメントなどに習慣づいていれば、手離せるきっかけともなるでしょう。・・
– さてすこし前になりますが、
大阪市長が、「君が代の起立斉唱の義務と罰」を条例化をおこないましたが、
以来このかた、
さしたる「混乱」もなく過ぎたことにおどろかされると同時に、
また、時代の変わり目というものに立ち会っているような、そんな想いもいだかされました。
ひとつには、
この時代の社会の精神が衰弱し、思考する力が弱まり、
だれもが恣意的なあるいは鬱破りのあやうい依存を常同化し、また 強迫性被害意識にとらわれていることで、
相当に体力も気力も失くしていることを、 よくあらわしているようにおもえます。
だが、それこそが時代の変化をもたらす兆しなのかともかんがえられますが。・・
近しい歴史の中の一つの言葉にさえ、
どれほどの魂の嘆きがつまっているのかを理解しない、この市長さんのツッパリぶりは、
おそらく、ご執心の、学力テスト暗記主義のたまものにちがいないだろう。
取り巻きからリストアップされた思いつきの「出し物」から、
自分のお気に入りのものを、まるでバイキング料理をテイクするような手法は
総体としてのビジョンの本質を欠いて独善をよしとしているために、いずれ脈絡なき破綻をあらわすことになる。
見かけは、「単純・明快」で「悪者退治」にはげむ若き黄門様のようなこの市長が、
「ただの裸の王様」であることをまだしもねがうばかりだ。
うっかり御用ちょうちんマスメディアにかつがれて、もっと大きな権力にたどりついたら
それこそ平成の正義の人・ヒットラー・ジュニアを演じる羽目になる。
それはかれにとっても、国民にとってもけっして「明るい未来」をもたらさないだろう。
「民営化」などというここち良さそうなプロパガンダの影で、「明るい未来」は国民にではなく、
世界中を簒奪してあきることなき金融グローバル勢力の手中にわたり、
かれらが実利としてのあらたな独占を強固にしていく「悲惨な未来」を
国民こぞってみせられるのは自明のことである。
いやはやこのような猿芝居をいやでも見せつけられてなお、
とどめようもなく、資本主義はいきつくところまでいくことになるのだろうか?
— さて、ずいぶん間があいてしまいましたが、今回は、
グローバル・マネー市場原理主義や官僚支配思想だけが主たる解体の対象ではなくて、
じつは、わたしたち自身が隠しもっている厄介な腹中の虫のような観念の手強さについてお話してまいりましょう。
じつはグローバル思想に異を唱えるひとたちにも、この手のナショナリズムとくっついた頭の人が目につきます。
ですからこのことを正しく理解することがこの時代においても必須のことだとかんがえます。
わたしたちがそれぞれに孤独と生き難さにおしつぶされそうな、この社会を、
「互いのかけがえのない存在をみとめあう、ゆたかな精神の自由・自立の社会」にするためにかかげる < 個の尊厳と自由 > とは?
それはいったい、どのような概念やイメージをいうのかといえば、
「世界に意味は無いのか!(第三回)」に書いたように、
– “まちがっても 、< 国家 > に収斂していくような『共同意識』(ナショナリズム)に、
まさに < 個 > の自由度を抑圧するような 『ナショナリズム』 にひきこまれない、
のほほんとして拒絶できる大衆として、成熟しなければならない”-
という意味での< 自由 > の概念でありイメージであるわけです。
すこし過去の日本にさかのぼって、
吉本隆明氏がするどく指摘した、この共同意識のすさまじいはたらきについてあらためてみていきましょう。
ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0876 :120427〕
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