温故知新1
- 2012年 5月 5日
- 交流の広場
- TPP大野 和美米
TPPはかなりややこしい問題だが、考えなければならない。反対派は農業、特に米へのこだわりが強いが、それはいったい何だろう?いかなる伝統か?僕は1936年生まれで、1945年5月末までは東京の芝区浜松町いた。病弱ということで学童疎開は免除されていたのだ。まもなく学童疎開へ出掛ける健常な弟の荷物が廊下の隅に積まれていた。5月25日の空襲で借り家だった住まいは焼け失せ、焼け野原に放り出される。しかし、そんな戦災の経験は別の機会にする。こんな昔話から始めるのは米の話をしたいからだ。上記の1945年5月時点では、少なくとも子供3人と大人2人のわが家族は米とは全く無縁な食生活であった。焼け出される少し前、有楽町の数寄屋橋端で雑炊の炊き出しがあるとかでお椀を持って出かけた。確かに橋端で細長い寸胴の鍋が一つ炊かれていた。まだ8歳の子が覗けたのだから、さして大きな鍋ではなかったのであろう。鍋底にご飯が10数粒沈んでいたように見えたが、僕の椀にはお湯だけ、弟には一粒あったか?神明国民小学校(芝神明様のすぐ近くだった)に入学した頃は給食があり、玄米のお握りがでた。2年になると警戒警報が増え、お握りを持って下校した。やがて、玄米にぎりは姿を消し、肝油が配られ、警報が出るとそれを握って下校したわけだ。耳に残っている記憶は、数字はもはや覚えていないが、ラジオが米の配給がさらに切り詰められるという話を伝えていたことだ。僕の記憶では、戦局が一段と悪化したな(子供だからこんな表現では不十分だが)ということであった。
しかし、東京の家庭には実際には米はほとんど配給されてはいなかった。なんでこんな昔話をするかというと、この頃から僕らの世代はほとんど米とは縁のない食生活を過ごしたと言うことだ。そんな人間が米を恋しがったり、大事な食い物と思ったりはしない。従って、米を作っている人間への感謝・関心もないわけだ。敗戦後は、この傾向はもっと顕著になる。続きは次の機会としたい。まあ、編集者のご意向次第だが…。
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