黒田寛一にとっての大井正、私にとっての大井正
- 2012年 5月 7日
- スタディルーム
- スターリニスト大井正石塚正英黒田寛一
きょう、職場から帰宅したら黒田寛一初期論稿集第7巻『断絶と飛躍』が届いていた。出版社こぶし書房から新刊を戴いたものだ。その中に、黒田が書いた「退廃せるスターリニスト大井正」(1956年)を見つけた。さっそく読む。そのタイトルは、黒田が『社会観の探求−マルクス主義哲学の基礎』(理論社、1956年)を大井に謹呈して、大井が返事を書いた、その内容に絡んで付けられている。黒田は、大井の返書(ハガキ)に記された次の文章に、いわば激怒する。「マルクス主義者は<創造的>マルクス主義をめざすべきではなく、<公式主義>をつらぬくべきだと、つくづく考えています。これは、レーニンの<主義>でもありました。スターリンの転落は、創造的たらんとした点にありました。」(同書、p179)
黒田は、こう書きつけた。「ようく読みもせずに、こんなことを書きうる大井の不誠実きわまりない態度こそが非難されなければならない。思想史家としての、しかも公式主義まるだしの思想史家としてのみじめな『基礎』をもとにして、ぼくの『基礎』をみるからこそ、<解説的>なものとしか映じなくなるのだ。」(p179-180)
私は、大井追悼文「“人間のなかの神”を考える―大井学匠に何を学んできたか」(『季報・唯物論研究』38・39合併号、1991)で、大井の文書から次の個所を引用した。「教師をたとえば『聖職』だとしましょう。しかし、その『聖』の意味は、神ではなく、親であるから、育てることにあります。自分の先生の死が殉死したいくらい、悲しく、慕わしいばあいがあると思います。(大井正から野村みどりへの手紙、1981.09.16、『人権と教育』第207号、1991.03.20)」それにつづけて、私は以下の文章を書いた。「この言葉に、私は安堵感を覚える。というのも、大井正にとって聖とは神ならぬものであるかのように、私にとって神とは、神ならぬものであるからだ。」(『季報・唯物論研究』p72)
黒田は、まちがいなく大井正『現代哲学』(青木書店、1953年)を読んでいる。この本を私は1989年に世界書院から復刻した。病床にある大井の求めに応じてのことだった。その編集を担当して、私は1953年という固有の年における40歳当時の大井―バリバリ、ゴリゴリの理論家―を再三再四読んだ。だから、黒田の激怒を心情的に理解する。だが、大井は1960年代後半から70年代に至り、初期マルクスから説き起こしてヘーゲル学派に及ぶ過程で、とりわけシュトラウスの神話的聖書解釈、フォエルバッハの人間学的唯物論ほかへの探究を強める過程で、いわば後期大井を実現する。後期は前期の結果としてある。大井は、死ぬる年に思想家大井正となった。死は生の完成を意味する。恩師の生きざま、それは、私にはほんとうに魅力的な歩みなのだ。そのことを記して、再度、大井正の生誕百年を刻印したい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study491:120507〕
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