旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(18)
- 2012年 5月 9日
- スタディルーム
- 岩田昌征
56.たった一人の囚人
(タディチの独房生活の諸条件が列挙されている。裁判の政治的・社会的意味にかかわることではない。省略する。岩田)
57.最初の面会
丸2年間、家族の誰とも会えなかった。弁護士ヴラディミロフの支援で妻と娘二人との面会がかなった。(p.142)
私達は面会室でだきあった。末娘サシカは逮捕時3才だった。「私がわかるかね。」「わからない、お父さん。」入口のかたわらに看守2人が立っていた。「失礼、我々はここにおらねばならない。」「何故。」「あなたの家族を守るためだ。」「私の家族を私から守るとは。」「そう命令されている。」(p.143)
家族と一緒に写真をとることも許された。第111号室の壁にその写真をかけていた。
私の妻が面会にハーグに来た時にオランダテレビが妻にインタビューした。「あなたの夫は戦争中何をやっていたのか。」「交通警察官でした。オマルスカ収容所にいたことはありません。」「全部作り話だと。」「そう作りごとです。」「それなら何故ドゥシコは起訴されたのか。」「セルビア人を起訴すること。夫であれ他の誰であれどうでもよかったのです。」「全くの偶然で。」「はい。」「多くの人々があなたの夫を告発しているが、彼等は誰なのか。」「ある人々は私達の隣人達で、別のある人々は全く存じません。」「そう、法廷にあんな風にやって来て、ドゥシコ・タディチが自分達にああしたこうしたと語れないのでは。」「出来ます。誰でも出来ることです。」「オマルスカ収容所は存在したのですか。」「ありました。存在したことは恥辱です。」「娘さん達はどう感じてますか。」「父親が不在なのは子供達につらいことです。でもお父さんが無実で何も悪いことをしてないと知っています。」「2年間獄中にいますが、どんな調子ですか。」「健康です。」「何が彼を耐えさせているのか。」「真理と真実です。無実だから耐えています。」
58.三日間の虚偽証言
ハーグ法廷でドラガン・オパチチほど茶番を演じた者は無かった。ポドコザリエのセルビア人の病理を一身に体現している犯罪者こそ私である事を完璧に立証する決定的証人として検事側が鳴物入りで登場させた人物である。ボザンスカ・ボイナ出身の若きセルビア人である。ドラガン・オパチチの証言はタディチ裁判のかがやかしい瞬間となるはずであったのに、検察の最も弱い環になってしまった。(p.146)検察は彼こそ直接現場証人であると公衆に公表していた。彼がサライェヴォのムスリム人獄にいれられていた時の供述を適宜にマスメディアに伝えるように検察はつとめていた。トルノポリェ収容所の月給300マルクの看守とされるオパチチは他の犯罪者と共に私が「収容所指揮官」として行ったとされる多くの犯罪を自分の両眼で目撃した、と言う。
私達が若いムスリム人女性達を倉庫や地下室に連れ込み、ある者が手を押え付け、他の者が足を、そして第三の者が犯した、と言う。彼女等が失血し、気を失うまで、かわるがわるに暴行した。数え切れない位だ。オパチチ自身も死の脅迫下に6人の若いムスリム人女性を強姦せねばならなかった、と語る。
オパチチは異常な記憶力をもつかの如く、身長165センチ位、年令17才位の少女や170センチと18才の少女等の身体的特徴、外見、服装を詳細に述べた。(p.147)暴行が済んだ後に少女達をお互いに血が出るまで殴り合わせ、それを見ながら、私が「見ろよ。ムスリム女達が憎み合い、殴り合ってるぜ。」と叫んだ、と言う。少女達をせめさいなんでいる者達に「双子を生ませろ」とののしった、と言う。ムスリム女をはらまないままトルノポリェ収容所から出すなとの命令があった、と言う。ムスリム人老女の一団の殺害を私から命令された、と言う。オパチチは詳細に語る。「ある時タディチは10人の囚人を殺すように私に命令した。ふるえが来て出来なかった。その時、2人の囚人が抗議した。タディチに収容所から出してくれるように金を払っている、と。すると、タディチは2人に近付いて、『テテヤツ』というピストルを引き抜いて2人の頭を撃った。それから私の方に向いて、残った8人の頭を撃てと言った。」
検事グラント・ニーマンにたくみに導かれて、ドラガン・オパチチはハーグ法廷でこれらすべてを丸三日間繰り返し供述した。しかし、そこに何一つ真実は無かった。弁護団と私は彼の嘘をつかみ、ハーグ検察の最大のモンタージュを暴露した。オパチチは裁判所の名簿では証人「L」であった。彼の調書を見ると、セルビア人共和国軍に所属していて、ムスリム人の捕虜となって、戦争犯罪のかどで10年の刑を宣告されていた。そして父親も兄弟もいないことになっていた。(p.148)私達は彼に父親も弟(or兄)もいる事を発見した。私達は二人をハーグに来てもらって、身元の確認をした。それはまるで刑事映画のシーンのようだった。暗色ガラス壁の片側に父ヤンコと弟(or兄)ペトロが、他の側にオパチチがいた。オパチチは二人は誰か質問されて、人生で一回も見たことがないと決然と答えた。両者の場所が入れ替わり、二人は彼を見れるが、彼は二人を見れない。「この若者を知っているか。」「知らない訳がない。私の息子トラガンだ。」ヤンコも兄(or弟)だと断言した。
ハーグ法廷はかくそうと努めたが、大スキャンダルがとび出してしまった。ハーグ法廷はサライェヴォのムスリム人政権に手ひどくあざむいてくれたなと抗議するであろう。ムスリム人政権は私の運命を決定的にこわすことのできる鍵的証人を握っているとあらゆる方面に広言していた。しかし、その証人が語っていたことすべてが嘘であることが判明してしまった。
オパチチは後になって自分の放浪の様子を次のように述べる。
「1994年10月末にトレスカヴィツァでムスリム人の捕虜となった。負傷していた。フラスニツァ、次いでサライェヴォへ護送された。地下室にぶち込まれて、ぬれた縄や棍棒で殴打された。1995年春に10年の禁錮を宣告された。トルノポリェ収容所で23人の囚人を射殺し、ムスリム人女性2人を虐殺し、10人を強姦したという罪状だ。」
オパチチはトルノポリェ収容所に行ったことは全くなかったと言う。「やがて警察官がやって来て、トルノポリェでドゥシコと協力して人々を殺害した証拠があがってると言う。この時までドゥシコ・タディチなる人物のことを聞いたことがなかった。彼等は私を殴り、傷口に塩をすり込んだ。タディチを知っているとサインせよと要求した。長い間私は同意しなかった。しかし、かのタディチに不利な証言をするべく、ハーグに行くことになると言われて、同意した。あちらでは、ムスリム人牢獄から出られるのだと気付いたのだ。」(p.149)
それから作業が始まった。私がうつっているビデオ、トルノポリェ収容所のビデオが彼に見せられ、質疑応答が教え込まれた。
「ハーグから調査官がやって来た。ボブ・リードとグラント・ニーマンだ。彼等は私をムスリム人獄から受け取って、トルノポリェ、「犯罪」現場へ連れて行った。何を語る必要があるかを私に言って、撮影した。それからハーグへ連れて行った。私は完全に孤絶していた。被保護証人「L」として法廷へ出されるのを待っていた。経歴も父も兄弟もなく、名も姓もない。法廷へ引き出されて、そこで生涯はじめて生身のタディチ本人に会った。」
後になってすべてが暴露された。オパチチは私を告発せねばならなかったのに、ハーグ検察、ムスリム人政権、そしてマスメディアの汚いチームを告発してしまった。メディアは私の諸犯罪を書きたてる競争をしていた。とりわけ、ドイツの日刊紙『ビルド』は突出しており、私を「セルビアの虐殺人」と名付けた。また、ナターシャ・カンディチ(セルビア市民社会で最も有名かつ強力な人権活動家、ベオグラードのNGO人道法センターの長。岩田)、憎悪の言論とたたかう偉大な女性闘士は、ベオグラードの週刊誌『ヴレーメ』(市民派・リベラル派の週刊誌。岩田)において私が行なったと言う一連の殺害を記述しつつ、コザラツのムスリム人警察官エミル・カラバシチが息をひきとる前に私が彼の身体に4つのC(ローマ字ではS、4つのCはセルビア民族の象徴。岩田)刻み込んだと語っている。ハーグ裁判においてそのような所業は私の罪状でなかったし、証拠があったわけでもないのにだ。(p.150)
59.汚いチーム
ゲルマン系検察官グラント・ニーマン(オーストラリア人。岩田)とアメリカ人調査員ボブ・リードは私の弟(or兄)リュボミルとベオグラードの調査員ドラガン・ペトロヴィチによる発見が彼等に与えた損傷を小さくすべくあらゆる事を行なった。最初、偽証人「L」がサライェヴォの軍情報サーヴィスが用意したセルビア人であったと言うわずかな情報しかメディアに出なかった。裁判院はトルノポリェにおける諸犯罪に関して私の起訴を取り下げると弁護チームに通知した。(p.151)しかしながら、裁判院議長アメリカ人女性ガブリイェラ・メクドナルドは「L」以外の「諸証人もまた偽証していると考えないように希望する。」とある公判で弁護士ヴラディミロフに表明した。
被保護証人ドラガン・オパチチに関する更なる調査は実行されなかった。ハーグ法廷は形式的には調査すると表明していたし、私も弁護団が公式調査を要求するように何回となく求めたのではあるが。証人「L」はハーグからサライェヴォへ戻され、最後にゼニツァのボスニア人監獄へ。残念ながら、私の弁護団長はハーグ法廷検事局を信用していたのだ。
ドラガン・オパチチが検察当局の最重要証人となったなり方を詳細に知りたかった。彼がボスニアへ帰される前に、ハーグの国連拘置所で彼と何回か会う秘密のチャンスを持った。私達は一人の信頼出来る看守を介して監獄内で手紙のやりとりを何回か行なった。ドラガン・オパチチは今日まで知られていない若干の「諸事実」を明らかにした。それらを総合すると、前主席検事ニーマンと彼の協力者達による法廷規則の違反に関する「新証拠」をなす。ある手紙でドラガン・オパチチは次のように書く。
「おれが捕虜となって、はじめてハーグ法廷からボブ・リードと通訳がボスニアにやって来た。ほかにも彼等と一緒に法廷から来た者達がいた。私が目当てだった。ニーマン検事はスプリトの牢獄で私を待っていた。サライェヴォ、モスタル、スプリト、そしてザグレブへ私を運んだ。(p.152)
トルノポリェ収容所指揮官としてあんたを有罪にする必要があった訳だ。ムスリム人はおれを未成年者として罰した。あんたに有罪判決を下すためだけにおれを告発したんだ。おれが連れて来られた時、証言する事に同意せざるを得なかった。トルノポリェ収容所で行なわれた諸事件すべてに関してあんたに不利に証言する事を承知しなかったとすれば、そのことでおれが罰せられただろう。
グラント・ニーマン検事とボブ・リードはあんたに不利に証言すべく、他の人達もやって来ている、おれもそうしなければならぬ、しかしおれが同意しなければ、あんたは釈放されるだろう、と語った。おれがそうしないと、殺人や強姦のすべての罪がおれに負わされるだろう、と言った。おれが証言に同意すれば、あんたは有罪になるだろう、と言った。
おれはあんたに助力したい、法廷を告発したい。自分のために、そしてあんたのために。やつらはボスニア人側に協力したからだ。やつらはあんたを的にしておれに虚偽の罪を負わせた。その時にあんたの写真やボスニアのビデオを見せた。あんたが理由でおれはここに来させられた。おれはあんたに深くあやまる。おれはあんたに不利になるような事をしたくなかった。おれ達は以前全く知り合ってなかった。事はボスニア側と法廷から出ていたんだ。返事があるなら、誰にも知られないように書いてくれ。あんたにもう一度あやまる。クリスマスおめでとう。」
国連拘置所にて デンハーグ 1997年1月7日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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