政治的排除を狙っただけの控訴に反撃を!
- 2012年 5月 15日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
小沢一郎の「政治資金規正法」事件の一審での無罪判決に対する控訴が行われた。正直いってどこまでやれば気が済むのか、という思いがするが、冷静に考えてみればこれが権力の側の所業といえる。何故なら、この裁判の意図が小沢一郎の政治力の排除にあったのだからである。一連の国策裁判と言われたものの総集約的位置にあった小沢裁判は、権力側の訴追内容のお粗末さと共に権力側の政治的意図も露呈させてといえる。それがまたこの控訴で露骨に出た。
体制や権力にとつては裁判の問題は手段なのであって目的は政治的排除であり、政治的影響力の逓減である。このことは明瞭である。だが、ここで僕らが注意すべきはこの問題にどう対応するかである。手続きの問題としてあらわれた領域の事柄を単なる手段の問題としてではなく、現在の日本の権力問題として認識し、現在的な政治の課題に広げて対応していくことだ。これが一つである。民主主義は手続きの問題であると言われるがこれは日本の民主主義の問題である。日米同盟の根幹である価値観の部分、法治国家と称されるものの実態をこの裁判は露骨なまで示す。戦後にアメリカが日本の統治の理念として提示した民主政治(法治政治)の実際で官僚制的民主主義の姿である。かつて、小室直樹が田中角栄の「ロッキード裁判」を評して「日本は未だ近代国家に非ず」と述べたことが想起される。だから、この裁判を検察審や検察、裁判所、またメディア、政党や政治家にまで広げて検証し、日本の権力の変革として闘うべきだ。控訴の如何に関係なく裁判は終わっていないし、闘いも継続している。この裁判は日本における政治権力をめぐる一線級の課題なのだ。もう一つは小沢一郎の政治的排除とどう対応するかだ。政治的排除という政治目的に対する政治的対応である。民主党の主脳が控訴に関係なく小沢一郎への「党員資格の停止の解除」を決めたことは正しい。当たり前のことだが、主脳陣にしては珍しくよい判断であった。小沢一郎は民主党の政治的信頼の回復にかけて闘うであろうが、僕らは小沢を政治的に排除してきた動きとは逆の動きをやるべきである。一連の国策裁判が日米同盟の新たな展開に踏み込んだ小泉―安倍政権時代から始まり現在にまで至ってきた過程を見るならば、そこから排除されようとしてきた政治的力の復権がめざさなければならない。日本の自立を考える政治的部分だ。小沢一郎はその中心にいる。日米関係の見直しを根底にした日本の社会のビジョンと構想を持つ政治的力を僕らは必要としている。国民の生活と存在が必要とする政治力の構築に政治的対応の根本はある。(5月10日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0890:120515〕
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