ソ連抑留者・詩人石原吉郎についてのやり取り II
- 2010年 8月 4日
- 交流の広場
- 若生のり子
◆アカショウビン
>昨年観た映画 「愛を読む人」
★この原作の「朗読者」は映画になる数年前に読みました。佳作だと思います。内容からして原作を読めば映画を観る必要は感じなくDVDになっても見ておりません。
>「石原さんは国家とか社会とか、共同のものに対する防備が何もない」といい、それは「怠惰ではないか」
★これは石原の反論が知りたいところです。私も資料を漁ってみようと思います。
>「純粋」とか「人間」とかいう虚妄の名辞にいかれている石原がここにある。
★これは一見痛烈な批判ですが、石原が「いかれている」かどうかは検証しなければなりません。内村の言う「虚妄の名辞」を用いなければならない状況が存在すると思うからです。それを切って捨てるにはそれなりの根拠が必要です。それが内村にあるとすればそれもまた知りたいところです。
>個人的なものに対して共同的なものっていいましょうか」
「そこはかんがえていいはずじゃないかと」
★私は詩人でなくとも石原のような苛烈な経験と体験をされた人が「共同的なもの」を考えないとはいささかも思えません。内村が「ためにする論」をする人とは思えないだけに、そこは追求してみたいと思います。
◆夕日夕陽
初めてコメントさせていただきます。
その後、スターリン批判へと繋がり、ある流れを作ってしまうほどの「悲惨」をもった収容所での生活。
それを持ち続け、というかそこから逃げることができないまま「詩」を作り続ける苦悩。
石原吉郎という詩人のことを考えると、色んな方向にベクトルが動き、色んな場所で「私」とぶつかっていきますね。
コメント欄もなんか凄い!
勉強になります。
プロレタリア文学と自然主義文学というカテゴリーがあったとして、2項対立が生む悲しいすれ違い・・・?
人間存在そのものを捉えようとしたとき、2項は、2項でなくなる気がします。私は劇団「阿彌」さんの舞台に、そんなものを感じていました。
◆ワコウ
夕日夕陽さん
コメントありがとうございます。
劇団「阿彌」の舞台は、殆ど、晩年の石原と関係した、女性たちのモノローグで演出していましたね。
涙をそそりました。
岡村さんは、シベリア抑留体験を舞台にするのは非常に難しかったとおっしゃっていました。
舞台装置の簡素な青い棺おけのような函、とても効いていました。
◆アカショウビン
>そんなに苦しいのならロシアの強制収容所の実体をはっきり書いてうっぷんをはらせばいいではないかと批判して
★これは吉本隆明の吉本隆明らしさと思われるコメントです。言葉尻を掴めば吉本さんが「うっぷん」と言うところが石原には吉本さんが述べるように正しく「残薄」と思われたのではないでしょうか。
吉本さんが言う「実体」を明かして石原の「体験・経験」のうっぷんが晴れるとは私には思えません。「スターリニズム」という術語で政治的に「告発」することで事の全貌が現れるものとも思われません。石原という詩人のシベリアでの体験と経験の重さは他人には計り知れない深淵を持つとしか私には言いようがありません。
◆ワコウ
アカショウビンさん
<石原という詩人のシベリアでの体験と経験の重さは他人には計り知れない深淵を持つとしか私には言いようがありません。>
そのとおりですね。
以下のように言わしめてしまう石原の苦渋に、戦後を作っている人間としての私たちの在り方に、涙が滲んでくるのです。
ラーゲリの8年間より、復員しての3年間に受けた、理不尽な扱われ方にその後の生き方を決定的にした。(確かこのように書いていましたが、本のこの箇所を探しましたが、見つかりませんでした)
「私たちは自分の故国、自分たちの理解者の中へ帰って来たのだという事実だけに単純に満足して」
「『私たちは日本の戦争の責任を身をもって背負って来た。誰かが背負わなければならない責任と義務を、まがりなりにも自分のなまの身で果たしてき来た』という自負をもってそれぞれの家に帰って行ったわけです。」
だが、
「私たちが果たしたと思っている<責任>とか<義務>とかを認めるような人は誰もいないということでした」
それどころか、
「『私は責任と義務をすでに余るほど果たして来た。あなた方のいう責任や義務とは比較にならない程重い責任を果たしてきた。しかもそのことのために、今あべこべに生きる道を拒まれている。』と私が大声でいってはいけないという理由はないと思います。」
戦後、いや今も続いてる日本の情況(こういってよければ、人間として情のないあり方)に対して、
[人を押しのけなければ生きていけない世界から、全く同じ世界へ帰ってきたことに気付いたとき、私の価値観が一挙にささえをうしなった」
~~~~~~~~~
また
「私の体験なかには、思想化されること、一般化され、体系化されることを激しく拒む部分があり、それが私の発想の最も生き生きした部分を形成しているのだ。」
「人と共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえ切れぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられて行く思想。おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるのか。」
とも日記につづっています。
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