連載・やさしい仏教経済学―(10)米国人にみる「簡素と知足」の精神/(9)仏教理解者・ナッシュの『自然の権利』
- 2010年 8月 5日
- スタディルーム
- 安原和雄
米国人にみる「簡素と知足」の精神―連載・やさしい仏教経済学(10)
キリスト教徒でありながら、仏教思想に大きな関心を示し、それを日常生活の中で実践している米国人が増えつつある。その典型の一人は、米国兵器メーカーの核ミサイル技師を辞職して、平和活動家に転身し、広島での原水禁世界大会に出席した実績もある人物である。
彼らが心掛けていることは、仏教が説く「簡素と知足」の精神の実践であり、質素な暮らしである。「もっともっと」という限りない欲望、つまり貪欲を捨てることである。貪欲は戦争を招くが、簡素と知足、そして質素は「静かな平和」につながっていく。そういう暮らしと世界をつくっていくことに大きな生きがいを見出している人たちが米国でも存在感を広げつつある。(2010年8月5日掲載)
▽ 核ミサイル技師の転身(1) ― 貪欲からシンプルライフへ
米国におけるシンプルライフ(質素あるいは簡素な生活)実践のはしりともいえる人物は、『核先制攻撃症候群 ― ミサイル設計技師の告発』(岩波新書、1978年)の著者、R・C・オルドリッジ(1926年生まれ)である。1973年米国最大の兵器メーカー、ロッキード社の弾道ミサイル設計技師から転じて、平和活動家となった。辞職の理由は、当時のペンタゴン(国防総省)の核政策が先制攻撃戦略(核攻撃を受ける前に相手の核ミサイル基地を叩く戦法)に転換したことにあった。その後広島で開かれた原水爆禁止世界大会などへの出席のため来日したこともある。
彼は当時を追想して書いている。
快適に暮らせる毎週のサラリーがなくなって、まず手がけたことは、今までより贅沢を切りつめた生活をすることだった。お金もかからず、それに環境保護にもかなう料理法による、さまざまな食事をやってみるようになった。それが次第に日常のパターンとして定着した。つまり質素に暮らすということ ― と。
▽ 核ミサイル技師の転身(2) ― シンプルライフの今日的意味
さて今の時点で考えてみるべきことは、彼のシンプルライフがどういう意味をもっているのかである。彼自身、次の諸点を挙げている。
(イ)資源や食糧の配分の不公正を改善するのに貢献すること
われわれ一人ひとりが質素な生活をすることは、食糧や資源の配分を公正にするのに役立つ。多額のサラリーを消費していたころに私がしていたことは、世界の富の半分でどうやら生きのびている全人類の94%に向かって、暴力を加えていたことを意味する。統計によれば、地球上の八人に一人が飢餓に直面している。今日の世界で死んでいく人びとのうち三人に一人は、飢えによるものである。(中略)世界の現実を見るならば、食糧が不足しているわけではない。問題は配分の不公正なのである。
(ロ)平和をかき乱す貪欲を一掃することができること
必要としている物だけを消費していれば、われわれ自身の貪欲を一掃することができる。欲は富を得るにつれて高まるものだ。私はキリスト教徒だが、この場合、次のような仏陀の教えが実に説得力を持っている。
欲求は利益の追求をうながす。
利益の追求は欲情をうながす。
欲情は執着をうながす。
執着は貪欲とより大きな所有欲をうながす。
貪欲とより多くの所有欲とは、所有物を見張り、監視する必要をうながす。
所有物の見張りと監視から、多くの悪い、よこしまなことが起こる。殴り合い、けが、けんか、口論。中傷、うそ。
これが、めぐる因果の鎖である。欲求がなければ、利益の追求や、欲情や執着や貪欲や、より大きな所有欲があり得ようか。
己の所有欲というものがなかったとしたら、静かな平和がやってくるのではないか。
以上の仏陀の教えを紹介した後、次のように述べている。
これこそ、われわれの家庭や社会や、さらには国際関係のありさまをよく描いているではないか。因果の鎖を自覚し、質素に生活することにすれば、われわれはいつかは、われわれの本性から貪欲を拭うことができるはずである ― と。
(ハ)自分の生活様式を私利中心でないものに改めるよう努めていること
以下のような諸点を挙げている。
・日常の必要経費を切りつめたので、自分たちの時間のすべてを従来のように金稼ぎだけに費やす必要がなくなった。
・既成の社会的な枠を変えるための非暴力的手段を模索し、かつ兵器こそ安全保障と雇用をもたらすという神話を追放するために活動している。
・アメリカ政治のあり方には同意できないが、この国を愛している。この祖国愛があるからこそ、利潤や権力への飽くことのない渇望にかられた軍産複合体(注1)が、アメリカ国民に向けて繰り返し吐き続けている嘘(うそ)やごまかしを暴露しなければならない。
(注1)軍産複合体とは、巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体を指しており、アメリカの政治、外交、軍事を牛耳るほどの影響力を発揮している。軍人出身のアイゼンハワー米大統領が1961年、大統領の座を去るに当たって全国民に向けたテレビでの告別演説で警告を発してから、一躍その存在が浮かび上がった。
同大統領は次のように述べた。「この結合体は不当な影響力を発揮し、自由と民主主義を破綻させる可能性がある。これに対抗し、安全と自由を守ることができるのは、敏感で分別ある市民のみである」と。この警告はいまこそ傾聴すべきである。
<安原の感想> 貪欲から転じて利他主義の実践へ
上記の(イ)、(ロ)、(ハ)のような行動こそ、貪欲の対極に位置する知足、簡素であり、非暴力の実践であろう。彼のシンプルライフは反戦、反核、反権力への志向と重なり合っている。特に注目すべき点はキリスト教徒であるにもかかわらず、なんと仏陀の教えが、その思考と行動の支えとなっていることである。
彼の「自分の生活様式を私利中心でないものに改める」という決意は、いいかえれば利他主義実践への意欲であろう。シンプルライフの一つの柱として、この利他主義が位置づけられている。
NHKテレビの朝のドラマ「純情きらり」(2006年9月末で放映終了)の次のセリフが記憶に残っている。これは仏教思想の「自利利他の調和」であり、利他主義実践の一例であろう。
「自分が幸せになりたいと思っても幸せになれるわけではない。他人を幸せにしてあげることによって自分も幸せになれる」(2006年6月15日放映)。
▽ 『地球白書』が説く知足のすすめ
注目したいのは米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2004~05』(家の光協会、2004年)が「消費者の選択」の再定義に関連して、東洋思想、「知足の心」の重要性を説いていることである。次のように述べている。
消費者の選択とは、個々の生産物やサービスの間の選択ではなく、生活の質を高めるための選択を意味するものと定義されるべきである。
個人にとって真の選択は、消費しないことの選択も含まれる。すべての人は重要な問いの答えを見つけることを学ばなくてはならない。それは「どれだけあれば足りるのか」という問いである。
考慮に値する一つの指針は中国の哲学者、老子(注2)の「足るを知る者は富めり」という教えである。この昔の金言を受け容れる消費者は、今日の大量消費を動機づけている「人並みにという欲望」と「戦略的なマーケティング」の支配から脱却するために、大きく前進することになる ― と。
(注2)老子(生没年は不詳だが、前4世紀といわれる)は、中国戦国時代の哲人で、彼が書き遺した『老子』は世界的な古典の一つである。孔子(前551~前479、中国春秋時代の思想家。『論語』が有名)の儒教に反対し、無為自然の道を説いた。老子の「足るを知る者は富めり」とは「己の欲望に打ち克ち、ほどほどで足ることを自覚する者こそ真に豊かな人だ」という意である。
同『地球白書』は老子の「知足」には触れているが、釈尊への言及はない。しかし実は釈尊(注3)こそが老子に先がけて「知足の説法」を唱えた。仏教思想の根幹の一つが知足である。釈尊は知足について次のように述べている。
(注3)釈尊(前563~前483)は、古代インドのシャカ族の出身で、仏教の開祖。仏陀とも称される。
もろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわちこれ富楽安穏のところなり。(中略)不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。知足の人は貧しといえどもしかも富めり。不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者の憐憫(れんみん)するところとなる。
<意味>さまざまな生活の苦しみから逃れようと思うならば、足ることを知らなければならない。どんなにモノがなくても、結構ですと感謝することが人生の大事なことである。足ることを知り、感謝して喜んで暮らすことができる人が一番富める人である。(中略)足ることを知らない人は、どんなにお金があっても満足できないので貧しい人である。足ることを知る人は、お金が十分なくても富める人である。足ることを知らない人は、五欲(食欲、財欲、性欲、名誉欲、睡眠欲)という欲望の奴隷で、その欲望にひきずられて、「まだ足りない」と不満をこぼすので、足ることを知っている者から気の毒な人、憐れな人だと思われる。
<安原の感想> 豊かな人々こそ知足の精神を
ここで指摘しておく必要があるのは、21世紀の今日的な知足とは何を意味するのかである。果たして富裕国も貧しい発展途上国も一様に知足の心が求められるのかというテーマである。解答として『地球白書2004~05』の次の指摘が妥当だと考える。
発展途上国のすべての人々が平均的なアメリカ人、ヨーロッパ人、日本人と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えれば不可能である、としばしばいわれる。しかし世界の公正(global justice)と公平(equality)を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、貧しい人々の生活水準の向上を阻む「消費のアパルトヘイト(差別)」による解決はありえない。豊かな人々こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境保護と社会的公正という二つの命題を満たすためには、豊かな国々の物質消費を大幅に削減する必要もある ― と。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年8月5日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study317:100805〕
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仏教理解者・ナッシュの『自然の権利』―連載・やさしい仏教経済学(9)
仏教に深い理解を示す海外の思想家はシューマッハーに限らない。米国の環境思想史家として知られるロデリック・F・ナッシュもその一人として挙げることができる。ナッシュの著作『自然の権利―環境倫理の文明史』を手がかりに人間中心主義から生命中心主義への転換の今日的意義を考える。
「人間の自然権」の重視、すなわち人間が自然を支配するのが当然、とみる人間中心主義を克服して、「自然の自然権」の重視、すなわち人間と<自然=地球>との共生を目指す生命中心主義への新しい流れを追ってみる。この生命中心主義こそは仏教経済思想の根幹の一つとなっているが、いまでは欧米文明の中で無視できない新潮流となってきた。(2010年7月30日掲載)
ロデリック・F・ナッシュ(注1)著/松野 弘 訳『自然の権利―環境倫理の文明史』(ちくま学芸文庫、1999年刊)は「人間の自然権」を軸に据える人間中心主義から「自然の自然権」を重視する生命中心主義への転換を詳細な文献、データを駆使して描いた労作である。その要点を以下に紹介し、<安原の感想>を付記する。
(注1)ナッシュは1939年生まれ。米国の最も優れた環境思想史研究者といわれ、環境運動、環境教育の実践的指導者。カリフォルニア大学歴史学部教授を経て同大学名誉教授。著作の文庫版への序文で「禅は日本において長く豊かな伝統をもっている。これは自然界をも包摂するような、拡大された倫理に向けた豊潤な知的土壌となっている。仏教徒は十分に発達した倫理が自然のありとあらゆるものを含んでいることを理解している」と環境倫理との関連で日本仏教への深い親近感を示している。
▽ 解放されたイルカは、ついに自由を得た
「イルカ解放事件」をご存じだろうか。1977年ハワイのオアフ島で、ハワイ大学の心理学教授が8年間訓練していたイルカのカップルを2人の大学生が逃がした。他人の私有物に対する重窃盗罪で懲役6か月、執行猶予5年の刑を受けた。しかし2人は堂々と「解放されたイルカはたしかに旅立ち、ついに自由を得た」と語り、ハワイで一躍名士となった。
この解放事件には次のような背景がある。
一つはイルカは「海の人間」という認識である。
神経生理学者のジョン・C・リリー(イルカ研究所長)は、イルカの脳はいくつかの点で人間の脳より勝っていること、また研究のために飼っていたイルカの何匹かが「自殺」(彼の言葉)したことを発見して、イルカを「海の人間」と表現し、「地球上の海水で完全な自由」を持つべきだと主張し、動物の解放者となった。
もう一つは、グリーンピース(注2)の直接行動である。
海の哺乳動物、とりわけクジラとアザラシの権利は、1970年代中ごろから、グリンピースの主要な関心事となり、捕鯨、アザラシ狩りの抗議運動に参加するようになった。
1974年に活動の対象を「人間の生命に対する尊厳から、すべての生命に対する尊厳」に拡大した。「グリーンピース哲学」は次のように宣言した。「人類は地球上の生命体の中心ではない。われわれは地球を自分自身と同様に尊重することを学ばなければならない」と。
(注2)グリーンピース(greenpeace)は1971年結成。本部はオランダのアムステルダム、2008年現在、支援者は290万人、有給専従職員は約1000人。支部は日本(1989年設立)を含め、世界で41か国。環境保全、自然保護、原子力、エネルギーなどの分野で世界的に知られる団体。時折、過激な行動がニュースになる。(ウィキペディア参照)
<安原の感想> 「人間の自然権」から「自然の自然権」へ
地球のあちこちで「自然の解放」のための直接行動が繰り広げられることになった。ここへたどり着くに至った、人間と自然との関係に関する思想はどのように変化・発展してきたのか。これをを図式化(弁証法的発展)すると、次のようになる。
<正>人間の自然権(人間中心主義、人間の自然支配)
<反>自然の権利 (生命中心主義、生命体としての自然の尊重、生命の権利の容認)
<合>自然の自然権(人間と<自然=地球>との共生)
「自然の自然権」とは、人間と同様に自然にも天賦人権と同じ自然権がある、という意。
▽ 生命中心主義と人間中心主義はどう違うのか
「自然は固有の価値をもつ。その結果、自然は存在する権利を保有している」という立場は「生命中心主義」(biocentralism)、「生態学的平等主義」(ecological egalitarianism)あるいは「ディープ・エコロジー」(deep ecology=生命中心主義的で深遠な生態学)などと呼ばれている。これと正反対の立場が「人間こそがすべての価値の尺度である」という考え方にもとづく「人間中心主義」(anthropocentrism)であり、「シャロー・エコロジー」(shallow ecology=人間中心的で皮相な生態学)とも言われる。
*鹿とアインシュタインは平等である
人間以外の存在と自然の両方に対する「生命の権利」という考え方は1970年代になると急速に関心を増した。これは具体的に何を意味しているのか。「鹿とアインシュタイン(注3)は果たして違うのか?」という興味深い問題がある。以下がその答えである。
平等の原理によって人間の利益と動物の利益は平等に評価されなければならない。人間と同じようにネコや鹿も生命と知覚作用を大切にしている。鹿が人間と同じように考えないことが、権利の分配に何ら関連性がないということは、アインシュタインが平均的人間と比べて進んだ思考をするからといって、権利を多く与えられないのと同じである。倫理的配慮の際の重要な要素は、意識(必ずしも自意識とは限らない)と感覚である。知能によって人間同士の権利に差が生じないのと同様、知能を根拠として人間と他の存在の権利を差別することはできない ― と。要するに「平等」が正解ということになる。
(注3)アインシュタイン(1879~1955年)はアメリカの理論物理学者。ドイツ生まれのユダヤ人。相対性理論や光量子説などで知られる。1921年ノーベル物理学賞受賞。
*「山の身になって考える」 ― 人間中心主義を超えて
環境倫理学の父、アルド・レオポルド(1887~1947年)は生命中心主義の重要な創始者で、「山の身になって考える」(thinkinng like a mountain)という論文(1944年)で人間中心主義を超えた。
彼のもっとも急進的な思想は、人間以外の生命体、および「生命共同体」(life-community)、すなわち生態系の固有の権利にかかわるものである。動植物だけでなく、水、土壌などのような「自然の状態で存続するものの権利」を主張している。すなわち地球を人間と共有している生命体は「われわれ人間に経済上の利益をもたらすか否かにかかわらず、生命の権利(biotic right)」として生きることを許されるべきである ― と。
▽ <ガイア=地球生命体>仮説と「地球の権利」
*「ガイア仮説」が登場
イギリスの化学者、ジェームズ・ラヴロックが1970年代半ばに「ガイア仮説」(注4)を提案した。
彼によれば、「地球という惑星は自動制御できる環境をつくりつつ、現在でもその環境を維持している。その環境は部分的要素である生命体を支えるのみならず、自らも生きている」。
適正な環境倫理は、全体である地球に価値を与えるよう求める。人類は地球という共同体のなかで、唯一道徳的な意識をもつ成員、つまり<ガイア>の脳細胞であるから、自分の属する地球の幸福を維持するために、自制という独自の能力を持っている。(中略)要するに地球は権利をもつ最高の存在とみなされ、その権利は下位の存在の権利よりも優先される。
(注4)ガイアとはギリシア神話に登場する地母神(ちぼしん)で、諸々の存在の母であり、慈しみ深い地の女神である。語源的にはギリシア語のGaiaは英語のEarthにあたり、地球、大地という意味。ガイア仮説は「地球全体が一つの有機体であり、地球は巨大な一つの生き物である」という考え方である。
*地球外へ放出される有害な人類
「動物の権利」専門家、スティーブン・R・L・クラーク教授は1983年、「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、一つの種(人間を含む)を死守することではない」と言った。単純な有機体が有毒な液体や固形の廃棄物を取り除き、癌や伝染病を破壊しようとするように、有機体である地球には破壊的な因子を排除する能力がある。
ガイア仮説の要点は、この惑星で現在もっとも恐るべき有害な存在である人類も、その技術文明を一掃しない限り、放出されるかもしれないことを示唆している。
<安原の感想> 地球外へ放出される巨悪はだれか?
「重要なのは<ガイア>の維持と生態系の存続であり、人間を死守することではない」との指摘は深い示唆を投げかけている。これは人類が地球にとって有害であり続ければ、やがて巨大な廃棄物として地球外へ放出されることを意味している。その放出の候補に挙げられるのはだれか。
人類の中でも巨悪な存在の一つ、米日軍産複合体(注5)の一派が、日米安保体制という「暴力装置」を足場に地球規模で軍事力を行使し、地球(=いのち・自然の生命共同体)を破壊し続ければ、地球という有機体内の毒物として、やがて地球外へ放り出される運命を辿ることになるといえるかもしれない。
それを受け容れることができないのであれば、自然の権利、生命の権利の尊重はもちろんのこと、さらに「地球に対しても尊敬の念」を抱く以外には自らを救う方策は考えられない。
(注5)昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウスのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。
米国版軍産複合体と一体化しているのが日本版軍産複合体で、構成メンバーは、首相官邸のほか、米国と同類の面々で、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。最近では特に大手新聞論調の安保体制への追随ぶりは目に余る。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年7月30日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study316:100730〕
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