日本的霊性とは何か(上)
- 2012年 5月 22日
- スタディルーム
- やすい・ゆたか物質霊性
ヤマトタケルが伊吹山で深傷を負い、遂に三重の能煩野で身罷りますが、「ここに八尋白智鳥になりて、天翔りて」(『古事記』角川文庫一二〇頁)となっています。ヤマトタケルの霊が人間の身長の八倍もあるような白い千鳥つまり大白鳥になって飛び立ったということです。この表現に驚かれましたか。人間の八倍もあるような大白鳥という大きさにではありません。死んで白鳥になったのは何でしょう。おそらくそれはヤマトタケルの遺体全体ではなくて、彼の神霊ですね。ところで霊が白鳥になったのか、白鳥にヤマトタケルの霊が乗り移ったのかどちらでしょう。白鳥が飛んできて、ヤマトタケルの霊がそれに憑依したのでしょうか。そういう表現は一切ないのです。素直に読む限り、霊が白鳥になったということですね。
霊が白鳥に憑依したり、宿ったりするのではなく、霊自体が白鳥に変態したわけです。つまり白鳥が霊だということです。ということは肉体が霊だということになりますね。肉体と霊は別でなく、霊は肉体の一部だとしたら、霊は臓器の一種のような信仰だということになります。
ではヤマトタケル自身の肉体は霊だったのでしょうか。ヤマトタケルの肉体にヤマトタケルの霊が宿っていたのではないでのしょうか。その霊が大白鳥になったのではないでしょうか。肉体に霊が宿るという意味を固定観念で解釈しますとヤマトタケルの霊が白鳥になったということが理解できなくなります。
固定観念では肉体と霊とが対義語になっているのです。つまり肉体は物質的な存在で霊は精神的な存在であって、だから霊が肉体に宿るという捉え方になっています。日本の太古の八百万神はアニミズム信仰だと思われがちですが、アニミズムだと神や霊が物に宿っているという捉え方になります。富士山には山の神が三輪山には大物主神が宿っているという捉え方ですね。草や木や土にも神が宿っているという捉え方です。「神奈備」という表現では神がおられるということで、物に神という別の実体が宿っているような印象を受けます。
でもそのようなアニミズムは歴史時代に入ってからの発想のようです。元々は富士山、三輪山自体が神でした。大物主神と三輪山は別物ではなくて、大物主は三輪山であると同時に白蛇でもあります。
霊は玉とも読みます。ですから玉となればこれは石ですね。瑪瑙や水晶などの石です。勾玉は縄文時代から作られていましたが、玉が霊なのです。つまり物質的な物に対置して霊が捉えられていたのではなくて、美しいあるいは聖なる物質が霊だったわけです。ただ霊は物質ですから、生物の中では肉体の一部で、命の根源みたいな物として捉えられていたのでしょう。肉体は滅んでもその霊の部分だけは不死であり、死ぬと肉体から霊が抜け出して、異界に旅をするという信仰があったようです。
それで霊は異界に行くためには、異界が空の向こう側にあるので鳥や蝶になって飛んでいく、海と空は水平線でつながっているので、海から異界に行くには魚になって行ってもいいわけです。でもヤマトタケルはこの世に思いを残しているから異界にいけないわけですね。
ところで霊は鳥や蝶や魚だけではなく、雲や風や霧にも変態します。ということは人間の霊は自然に帰って大いなる生命に融合するということですね。『千の風になって』が大ヒットしましたが、それは日本人の霊の捉え方にぴったりきたからなのです。作詞したのはアメリカのネイティブの人だそうですが、縄文時代の人とアメリカのネイティブは起源は古モンゴロイドで共通なのです。一万数千年前に分岐したと言われています。
霊が命の根源みたいなものであるとしますと、物質的なものに対して精神的なものを対置するというのが日本的霊性の立場ではないということになりますね。物質的なものと精神的なものの対置は商品経済の支配のもとで、価値が貨幣量に還元されて、具体的な豊かさではなく、ただ単純に抽象的に富を積み上げてその量で力を示したり、優越感を得ようとする傾向に対して、物として目に見えない、心の中の思いをピュアにして大切にしたいという心情からきています。もちろんそれは大切なことですが、それぞれの内面に閉じこもってしまってはだめです。目に見える物の姿に表さなければ人には伝わらないわけです。
近代は西洋のキリスト教の影響もあって心の中で神と対話する、お祈りをするということが宗教の信仰表現として重んじられてきました。確かに現世利益や物欲の満足のための宗教というのは、本当の意味で救いにはなりません。その意味で内面の祈りを重視し、ピュアな信仰に回帰すると言うのも大切です。しかしそれにとどまってはならないのであって、その思いを口に出し言葉にして伝えることも大切です。念仏や題目を唱えるのもその一つですし、経や呪文を唱えたりもしますね。
しかしそれも形式化してしまって、心が伴わなければ伝わりません。心がこめられていても独りよがりでは駄目です。念仏を唱えたから、題目を唱えたから何かを期待するというのでは霊性という点ではどうでしょう。私は弱いと思いますね。霊性を命の現れという意味で捉えるのなら、命の叫びが伝わるような姿をとらなくてはと思います。
人間でなく、つまり自己意識をもっていない生物なら、命の表現として精一杯命のままに生きて、食べられたりして、土に還ります。人間は自己意識を持ってしまったので、いろいろフラストレーションや不安を抱えて、命から逃避したり、観念の中で代償を求めたりして、充実して燃え生きることができません。イエスも福音書で言っていますね、「野の花を見なさい」と、素晴らしい命を輝かせて精一杯美しく咲いていて、何の不足もないわけです。人間も与えられた命をそれぞれに輝かして生きればいいわけで、それが霊性なのです。
せっかく料理で素晴らしい腕前を発揮して美味しい食事を与えることができるのに、中国製の冷凍食品ですましてしまうとどうでしょう。中国で冷凍食品を作っている人は、美味しい餃子を作って日本の消費者を喜ばせ、命を与えようとして作っているでしょうか。
冷凍食品だけでなくあらゆる工場でどれだけ、自らの命を輝かせ、消費者に命の喜びをあたようとして働いているのでしょうか。ただ賃金をもらって少しでも豊かな消費生活を送りたいと思っているだけではないでしょうか。生きるということは食べて、他の生物の命を燃やして生きることです。料理や食品を提供するということは命を与えることですね。自分の肉体の命を与えるわけにいかないので他の動植物の命を与えているのです。
食物だけでなくすべての製品は、命を守り養い輝かせるためのものですから、広い意味では物を創って与えるというのも命を与えるということであり、そこでの能力の発揮が生命の自己実現なのです。ところがそれもやむを得ず強制されて最低限度の生活を維持するために行っているとしたら、生命の充実を感じることはできません。
物質生活の豊かさを求めるあまり、大切な精神を喪失してしまった現代人に、祈りの価値を再認識させようという宗教者の願いは正当ですし、尊いのですが、それが内面に閉じこもって人に通じない形に終わってしまっては困るのだということを、私は訴えたかったのです。
母親が子供たちにドラ焼きやケーキを手製で作って食べさせていました。あまりに美味しいので、食べた人はこれはお店で売れるよといいます。逆なのです。お店で買えば高くつくので自分で作って、タップリ食べさせていたのです。そうすれば母の愛も感じられ子供たちも精神的にも満たされるのです。つまり自分の命を輝かせて、その命を子供たちに与えていたのです。母の愛、願い、祈りとドラ焼きは別物ではないのです。それが日本的霊性です。そこに宗教の原点があるのです。
働くということはそういうことですね。自分の命を削って働いて、それで稼いだお金で家族の命を養っています。それでいろいろ問題を抱えながらも家庭が成り立ち、人々は暮らしていけるわけです。だから家族と言うのは大変宗教的なつながりなのです。生きる意味や生きがいを与えてくれるわけですね。
社会も命のつながりであり、人々に必要な物やサービスや情報を提供して支えあって生きています。その繋がりによって自分の役割を実感できれば、充実した生活ができるのです。ですから社会も本来は、十分霊性があり、宗教的なのです。ところが商品経済が貫徹し、貨幣に支配されて、命の繋がりが感じられなくなってしまっているわけです。
ですから宗教が社会にとって必要なのは、そういう命の繋がりを感じられるようにするためなのです。それでドラ焼きなのです。母親が子供たちにこめた愛情が、このドラ焼きにも残っています。そのようにして心が物にこめられ、物でつながるわけです。物が母親の心でもあるわけです。
物質的な豊かさばかり追い求め、大切な心を失っている、だから今こそ祈りの価値に目覚めるべきだというのは正しいとしても、では座禅をしよう、瞑想しよう、手を合わせて神に祈ろうと呼びかけで、それでついてくるでしょうか。教団内ではある程度それでも通じるかもしれないけれど、物質的な価値にしか反応できなくなっている人には通じないでしょう。
それに物質を抜きにした魂、精神というものは感覚的な性質を持たないので、他人に伝わらないのです。声にしても空気振動を伴っていますし、文字にしてもなんらかの平面に線を墨か何かで入れなければ成りません。言語自体が物質性を伴っていて、その言語によって思想が構成されている以上、物質と対置された精神というのも元々物質性を帯びているという限界を弁えていなくてはいけません。
そして「何々は何々である。」という思想はただ思想として言われても、心に届きません。知識を詰め込む教育は、入試には役立っても、本当に生きた知識にはならないのです。やはりそれが物として現れ、その物を鑑賞するなり、使うなり、消費するなりして学ぶ側の生命活動にならない限り、身につきません。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study500:120522〕
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