「国債バブル」が大文字になるとき ―「国債バブル」は本当だろうか(10)―
- 2010年 8月 7日
- 時代をみる
- 半澤健市国債国債バブル
私が最初に「国債バブルは本当だろうか」を書いたのは09年11月19日であった。
目先の利く論者―たとえば榊原英資氏など―はすでに「国債バブル」「財政バブル」と言っていた。少し遅れて私もその問題意識を共有したつもりであった。それから9カ月、早くもというべきか、やっとというべきか、「国債バブル」の見出しが一般紙に躍った。
《「国債バブル」が一般紙に》
10年8月4日に、10年もの日本国債の流通利回りが0.995%と1%を割り込んだからである。記事は金利低下の理由として、デフレ懸念で弱気見通しの欧米経済、国内外金利差の縮小、国内のカネ余りによる金融機関の運用難、を挙げている。
そもそもバブルとは何か。
特定の経済財にカネが流入して「適正価格」を異常に超えることをいう。
経済財とは何か。それは時と所により異なる。チューリップの球根であり、満潮時に水面下となる別荘地であり、天にも昇る株式であり、極東の島国の地面であり、ノーベル賞経済学者が創った投資会社であり、証券に化けた低信用の住宅融資、であった。今度は「国家の借金証文」である。
適正価格とは何か。市場原理が神の手だと信ずれば市場価格は常に適正価格である。
破裂してから「不適正」な「バブル」だったと判定する。それまではバブルとわからない。金融の神様グリーンスパンもわからなかった。この定義に照らせば「国債バブル」は、債務不履行リスクをもつ投資対象に、機関投資家の利発な運用者が入れ込んでいるという構図になる。
なぜ国債を発行するのか。90年のバブル崩壊から20年間、国は経済を再び成長軌道に乗せるために多額の国債を発行してきた。08年の「リーマン恐慌」では、世界の金融メカニズムの崩壊を防ぐために、大規模な財政出動と超金融緩和がグローバルに実施された。世界第二の経済大国もその一翼を担った。しかしその成果への最終判定はまだ出ていない。
《一面的にみてはならない》
「国債バブル」とは、批判的で否定的な物言いである。しかし20年にわたる国債投資の運用成果は、最良ではないにしても、劣悪とはいえないものである。日本の金融機関は国債投資で壊滅的な打撃を被っていない。打撃は国債以外への投融資投資でよってもたらされたのである。
もちろん問題はこれからだ。それでも、国債バブル批判は一面的であってはならない。
世界資本主義は、その崩壊の危機を、財政と金融で救済しようとした。その一方で、その処方箋の副作用―財政破綻による国家の頓死―を、緊縮財政という処方で防ごうとしている。つまり「刺激も薬、緊縮も薬」である。アクセルとブレーキを同時に踏むという処方である。未曾有の経済政策の時代に我々は住んでいるのである。
「出口戦略」という言葉をあまり聞かなくなった。「出口戦略」とは平たく言えば「正常化」ということである。「財政刺激・金融緩和政策」の出口は、「緊縮財政と金融引締め」である。しかし、後者をストレートに実行できないのが、政治の現実である。先進国の多くはこの矛盾する政策の間で進退窮まっている。「宙づり」である。「一面的であってはならない」はいうは易く行うは難いのである。
最近、私が注目した米英経済専門紙の記事の見出しだけを次に掲げる。
一つは Stimulate no more – it is now time for all to tighten(FinancialTimes,July22,2010)。
もう一つは、Course of U.S. economy hinges on fight over fiscal stimilus , Economists and politicians debate whether the government’s medicine is curing the illness or making it worse(The Wall Street Journal,July29,2010)。仮に訳せば「景気刺激策は完了、今や緊縮へ転換のとき」、「米経済は景気刺激策の是非にかかる―経済専門家と政治家による景気刺激策の功罪論議」とでもなろう。いずれも「一面的でない」視点からの報道である。
《日本メディアの無内容な反応》
日本のメディアはどう反応しているか。二紙の社説を挙げる。
▼気まぐれに移ろうマネーに支えられている危うさを認識すれば、値上がりした国債相場に急落のリスクが蓄積されていることも見えてくる。何かの拍子で売りが売りを呼ぶ可能性も排除できない。日本にとって大事なのは成長と財政健全化の両立を図ることであり、そのためにも市場で無用の波乱を招かないことだ。行き過ぎた金利低下を喜ぶことはできない。(『朝日新聞』、10年8月5日社説「世界デフレの不安を映す」の結語部分)
▼利回りが1%を切るほど国債価格が上昇したということは、それだけ下落のリスクが高まったと見るべきだ。国債を大量に買っている銀行や保険、年金の資金は元をたどれば私たち国民のお金なのである。この金利低下は決して安心の材料ではない。国債の利払いに年10兆円も費やしている国の指導者なら、常に金利が上昇に転じたときのことを頭に置いておくべきだ。(『毎日新聞』、10年8月5日社説「国債のバブルが心配だ」の結語部分)
これらの社説は何をいいたいのか。何を寝ぼけているのかと思う。真の批判的な精神や建設的な提言がない。論説委員にいわれずともこんなことは常識である。「気まぐれに移ろうマネー」とは、金融マンもバカにされたものである。かりそめにも「金融マン」が読んで、「なるほどそういう視点もあるのか」ということを書いて欲しいものである。
《「大機小機」と共通認識への提案》
『日本経済新聞』(10年8月5日)の伝統あるコラム「大機小機」に、数十年の執筆歴をもつ「越渓」氏が書いている。その末尾はこうである。
▼国債利回りは10年物で1%前後という低利である。しかも国民はさらに利率が低い定期預金よりも国債を希望している。国債比率が上昇しても、国家は国の生産力を超えて需要増加が長く続くような場合を除いて、国家の赤字増によって国が破産するようなことは考えにくい。国民の金融資産が国家に移転するだけである。税率を引き上げるより、国債増発によって国の財政需要を賄うべきである。
これは古典的なケインズ主義の言語である。
「一面的であってはならない」の意味はこのような観点も含む討論が必要だということである。
そういう討論のために、たとえば日本国の「債務残高」と「資産残高」の実態を与野党で共同調査して共通認識を確立する。そんなことはできないだろうか。財政金融論議のための大前提である。国の債務は対GDPで180%という。しかしバランスシートの両建てを計算すればその数字は大幅に低下するという説もある。正確な数字から出発しなくては「刺激策か緊縮策か」の議論は空転してしまう。「アクセルとブレーキ」の操作に失敗すれば、世界は再び「リーマン恐慌」にまさる危機に襲われるのである。国会論戦の主役たちはこの事態をどこまで認識しているのだろうか。
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