歴史における神話のアクチュアリティ(5・完)
- 2012年 5月 28日
- スタディルーム
- バッハオーフェンファシズムライヒ石塚正英神話
五 20世紀神話のアクチュアリティ(2)――ファシズムと家族神話
ユートピア(utopia)には対になる語「ディストピア(distopia)」がつくられている。逆ユートピアである。例えば、共産主義はすべての権力を否定する、と豪語してつくられる社会に最強の独裁権力が登場する、といった現象を指す。フーコーのように「権力関係は社会的結合に深く根ざしており(……)権力関係なき社会とは抽象にすぎない。」と言い切れる者は抱かない幻想であるが(注22)、神話としては重要な現実的意味を有する。その問題について、ここでは家族に絞って検討しておく。研究者ニコラウス・ゾンバルトが『男性同盟と母権制神話――カール・シュミットとドイツの宿命』で述べるところから入ろう(注23)。シュミットを論述の対象にしてはいるものの、ゾンバルトの眼目は、バッハオーフェン『母権論』に依拠した家父長制家族からの人々の解放、ないしは端的に家族の廃止にかかわっている。
「自由な性とは、単一婚、家父長制的家族、国家といった、女性を抑圧するさまざまな社会的抑圧を廃棄する女性解放とほとんど同じ意味を持つ。家父長制的機構に代わって乱婚制と女性共同体、いや女の支配が始まるだろう。言葉を換えれば、無政府状態の勝利は『永遠に女性的なもの』の勝利を意味する。『厳格に父権に基づく一夫一婦制家族は[……]首尾一貫したアナーキズムとは矛盾する』(『現代議会主義の精神史的境位』)というカール・シュミットの指摘は正鵠を得ている。」(注24 )
「間違いなく言えることは、『母権論』の著者がヴィルヘルム期において反プロイセン的反家父長制的な対立文化の代表的思想家の一人であったことである。」(注25 )
「『大地のノモス』(1950年)の序でシュミットは『母権論』の作者バッハオーフェンの名を挙げ、偉大な先人として崇敬を捧げている。『ノモス』は『法(レックス)』や『ロゴス』といった家父長的秩序に属する語よりも、女性主導的、母権的民族集団(大英帝国もこの集団として出現する)の本質を理解するに適していることからすれば、必ずやバッハオーフェンの意に適うことだろう。」(注26)
「『母権制』は本質的には神話であり、ユートピアであり、幻想である。歴史的現象として見れば母権制は19世紀の思想史・精神史に包括される神話的素材である。(中略)
『父権制』の現実と、それに疑問符を付し、戦いを挑むおしとどめがたい変革の力動の隠喩としての『母権制』神話。(中略)政治、社会、経済、文化、そのどの領域のものであれ、近代におけるさまざまな闘争が父権制と母権制の形作る緊迫した磁場の中に書き込まれていることを見ないとすれば、この時代について何一つ理解したことにはならない。」(注27)
上記の引用文のうち、最初の2つはシュミットが家父長主義者・反バッハオーフェン論者であった時代のもので、最後の引用文は第二次大戦後のバッハオーフェン礼賛に転向した段階のものである。この2例を引くことにより、ゾンバルトは20世紀の神話としての「母権」を論じたのである。
次に、同じく神話のレベルで家族を論じているライヒの言説をみる。「国家の帝国主義化は家族の帝国主義化においてイデオロギー的に再現される」(注28)と考えるライヒは、人々の心がファシズムへと向かわないようにするには大衆の性格構造を変革することが肝心で、それには、性の革命を軸とする家父長制的家族の解体が必要と考える。ライヒは性の解放ないし家族の解体を口にするが、彼においてその改革は、ファシズムの大衆心理を解体する基点となるものであった。
「経済の単位は必然的に、個人的な関係となり、そういう関係は結局、その単位を性関係の集団にもするのだ。ちょうど未開社会で家族が氏族をほろぼしたように、経済にもとづく集団が家族をほろぼすのだ。」(注29)
その際、ライヒが掲げる家族の解体に氏族の時代を関係づける手法もまた、一種の神話づくりである点を確認するべきである。ファシストの中には、家父長的家族の反対物である母権的原理を攻撃する者がいて、ライヒはその攻撃から母権的な原理や制度、思想を擁護している。なるほど、ライヒは先史時代に存在したと考えられる制度の未来における復活、再生という単純な構えを採用してはいない。彼は母権を支えたのは先史の氏族制度であり、これが未来に再生するといは考えず、今後はむしろ端的に個人が経済単位になると考えている。しかし、それでもなお、過去の遺制を未来のスローガンに含ませる手法は、やはり、神話の手助けを借りるものといって差し支えなかろう。
ただし、母権神話を云々する前に、まずもって父権神話が威力をもっていた点を確認する必要がある。人々は、万能の神々が必要なときにはこれを求め、万能の指導者が必要なときにはこれを求める。ニーチェによって神の死が宣告された後のヨーロッパ思想界に、やがてニーチェが力説した超人が登場する。こうして、神を超える、ないしは神を無用の長物とする家父長的カリスマの神話が成立したのである。
その筋書きにおいて女性は、男に対する女の位置でなく、家族を慈しむ母親の位置をもって登場する。もし、家父長的指導者が母権的原理を讃えるとすれば、それは女性としての女でなく、母性としての女の役割を強調するためである。家父長を倒す女でなく、家父長を下支えする女を演出するため、ときとしてファシストは母権的原理を援用する。あるいは神を超えるカリスマが最強の神としてのユダヤ教の父神ヤーヴェを攻撃するために、男神父神によって滅ぼされた先史の女神母神を担ぎ出すのであった。
20世紀神話形成におけるファシズム思想と母権思想の関連については、およそ次のように概述出来る(注30)。『母権論』著者バッハオーフェンが1887年に没してしばらくすると、彼の業績は再評価のテーブルにのる。この動きに先鞭をつけた人物の一人アルフレート・シェーラーは、バッハオーフェンが説く母権時代の宇宙論的シンボルとして卍象徴を説いてまわり、後に誤ってナチスのハーケンクロイツの創案者として歴史に名を残す。また、シェーラー自身からして、ユダヤ教を母権的宗教の対極に位置する父権的宗教として憎悪し、その意味で反ユダヤ主義に立ったといわれている。そこから、バッハオーフェンはヒトラーの思想的教師・先駆者であったかの謬見が醸し出される。その反対に、オットー・グロースは、バッハオーフェンによって主唱された母権思想を共産主義と結びつけ、父権社会の転覆=母権社会の復活を共産主義の実現と同一視するといった短絡ぶりを示した。だが、カジミール・フォン・ケレス‐クラウスによれば、当のバッハオーフェンは「家母長制(Matriarchate)と女人支配(Gynaikokratie)を決して最高の社会的存在形態とはみなしておらず、いわんやそれらに復帰するのを望ましいとは思っておらず、逆にそれを戒めた。」(注31)
共産主義との関連は措くとして、ここではシェーラーによってファシズム思想に援用される母権思想に注目しておきたい。バッハオーフェン存命の頃、母権思想はマルクス、エンゲルスといった社会主義者・共産主義者の注目するものであった。そこではたしかに原始共産主義社会としての母権制の未来における復活が神話の一章をなしていた。それと同一の思想が、20世紀初頭に至って反ユダヤ=反父権の有力な神話に転用されることとなったのである。
以上で、ファシズムに関連させて幾つかの神話物語およびその形成について議論してきたが、ここでもう一度、そうした神話自体はけっして悪でもなければ異常でもない、という点を確認しておきたい。また、神話どころか、それと深く関連しているファシズムやコミュニズムもまた、一方的に悪とか異常とかのレッテルをはることはできない点を力説しておきたい。ファシズムは特異な現象、という神話は民主主義は正常で健全なものという神話と同等に扱うべきだということである。それに関連して、ライヒは次のように言っている。
「こんにちにおいてさえ、誤った政治的判断の結果としてファシズムは、ドイツや日本の特殊な国民性としていまなお考えられている。この誤謬の頑固なまでの意固地さは、真実を認めるのが怖くてたまらないからだ。ファシズムは、いっさいの国家の、人間社会のいっさいの組織にたちまち普及する文句亡く国際的な現象なのである。」 (注32)
また、わが国のナチズム研究者村瀬興雄は、およそ次のような議論を堅持している。 ①ナチス統治下においてヒトラーやナチス党の大幹部だけが「狂気そのもの」の決定を行なっていた、という定説は覆されつつある。第三帝国においても、政策決定やその遂行にあたっては、各種支配グループのあいだで討議が行なわれており、それなりの理由と支持とによって政策が遂行されていたことが判明したのである。ファシスト治下の国民生活と、他の独裁国家や多くの文明国家の国民生活とのあいだには、普通考えられていたよりもはるかに多くの共通点があったことが承認されつつある。
②ファシズムを現代世界とはまったく性格の違う「異常」現象や暴政と考えないで、帝国主義一般のなかにおいて考え、帝国主義のもつマイナス面を極端な形にまでおしすすめた一つのタイプとして捉えることが必要であろう。(注33)
先史のミュトスを「ミュトス神話」とし、文明の神話を「ロゴス神話」として両者を区別するとすれば、20世紀の神話はむろん後者に属する。ロゴスある限り、何らかの意味内容を含む。したがって、神話は民主主義をもファシズムをも、そしてコミュニズムをも包み込み、これらにアクチュアリティをもたせるということは、理の当然である。「人権」概念もまた神話形成の中核に位置づけられてきたことは、もはや異論のないところであろう。フーコーは、「権力関係なき社会とは抽象にすぎない」としたが、なるほど、権力関係なき人権もまた抽象にすぎない。しかし、その抽象が神話を形成するや絶大な社会的政治的な力をもつことを、私は認めてはばからないのである。(注34)
* *
ライヒは、大衆の性格構造には非合理主義が内在しているとみる(注35)。その際、非合理主義は合理主義の反対物ではあるものの、価値として固定したものではない。例えば、おおかたの人々は正義を愛し悪を憎む。ファシズムを非合理主義に結びつける。それが間違っているわけではない。しかし、合理主義=正義、非合理主義=悪、という等式は必ずしも成り立たず、等式の組み合わせは別様にもなる。あるときには合理主義が悪とみえ、あるときには非合理主義が正義とみえることは自然な成り行きだということである。歴史上では、合理の時代と非合理の時代が交互に重なって継起した。18世紀の啓蒙的合理は19世紀前半のロマン主義的非合理の流行を産みだし、それがまた19世紀後半の科学的合理によって沈静化された。その科学主義は19世紀末から生の哲学など非合理の潮流に押し流された。19世紀末に力をつけた非合理諸派はナチズムに結実したが、20世紀中頃にはアメリカ的合理主義が全世界を席巻した。そして今、とりわけ九・一一以後、非合理に反転した世界強国アメリカに、アラブないしイスラム的非合理が徹底抗戦の姿勢を強めている。
そして、その各々の時代に各々の神話が生まれ、各々の勢力に正当性の色合いや正義の価値意識を与えるものとして物語られてきたのである。これまで、神話といえば即座に架空のもの、悪に加担するものというレッテルを貼られてきた。しかし、本稿では、人権思想もまた人々の日常生活(現実)から生まれた神話(観念)の一つであることを認めてはばからない。人権神話は、まず18世紀啓蒙時代に当時の日常的現実をもとにミュトスとして語られ始め、アメリカ独立宣言とフランス人権宣言では国是とされロゴス化した。それはヨーロッパでは王政復古で現実的威力を失った。やがて19世紀後半になると社会主義諸勢力が人権神話を語り継ぎ、ワイマール憲法やスターリン憲法では国是とされた。それはファシズム時代に打ち捨てられたものの、第二次世界大戦中に国際平和を希求する勢力によって語られ、日本国憲法では国是とされた。そして今、世界大で進行する貧富格差の拡大や環境破壊の深刻化の過程で、日本国憲法も風前の灯火となり、人権思想は神話の魅力を喪失しつつある。
では、人権擁護の神話は、今後どのように語り継がれるであろうか。現在のところ、大枠では、ライヒがファシズムの超克を家族の解体の先に見通していたのと似た状況にある。ただ、現在は家族の解体よりも国家の解体が先行している。よって、21世紀に語り継がれる人権擁護の神話は、日本国憲法(第九条)の脱国家的適用、すなわちユニヴァーサルな憲章への変更の中にミュトスとして盛り込まれることとなろう。しかし、この予測は学術研究の範囲を超え出ているので、その問題について本稿ではこれ以上言及しないこととする。
最後に、本稿で論じてみた幾つかの危険神話や安全神話について、それらの危険度や安全度をもう一度考えておこう。ある制度や技術があったとして、もしそれが危険であるとマスコミや政府が喧伝すると、それは危険度を増幅させる。安全度もまたしかりである。ロラン・バルトはその現象を「神話作用」と呼んで研究の対象にした(注36)。 かように、高度情報時代の21世紀にあって、歴史における神話のアクチュアリティはいよいよもってその意味を増しているのである。
註
1.アルフレート・ローゼンベルクの著書『二〇世紀の神話(Der Mythus des 20. Jahrhunderts, Eine Wertung der seelisch-geistigen Gestaltenkampfe, 1930)』について、羽仁五郎は、戦時中に書き上げ1946年に発表した文章「神話学の課題」で、次のように批評している。「前世紀末に流行し黄禍論などをもみちびいたホウストン・ス・チェンバレンの『十九世紀にの基礎』等の白人人種優越の感の一種たるゲルマニア人乃至北欧民族乃至アリアン人種なるものの絶対的優越感を利用してそれによって独占資本主義の政治形態たるナチスの政治的目的をおおうたもので、著者自身思想の独創性とか思索の深さとかを求めてはおらず、もとより学問的の本ではなかった。」羽仁五郎、「神話学の課題」、『羽仁五郎歴史論著作集』第三巻、青木書店、1967年、77頁。初出は、『歴史学研究』1946年10月号。
なお、ファシズムのほかにコミュニズムをも20世紀の神話に括るのが妥当ではないかとみる宗教社会学者、古野清人の見解を以下に紹介する。「今までの宗教的基盤が取去られるときには、社会は内部から人間としての指導者の形態のもとで自ら動力を提供しなければならない。この人間的な指導者に何ほどかの神の属性と性質とを与え、非合理的な神話学や歴史の唯物的または世俗的解釈を考案することを余儀なくされるのである。恵み深い〈摂理〉に代わって、実際または仮想の敵や危機が本質的なものとして要請されてくる。軍国主義や階級闘争はそれ自ら神聖なものとされ、世界を占領する超国家または階級なき秩序が究極の目標とされる。(中略)われわれはかつて現代の民主主義的運動、社会主義的運動について、社会的神秘主義の名のもとで、それらが広義の一種の宗教運動であることを指摘したことがある。それは従来の霊的有機体や神聖な秩序としての社会に取代わった社会運動である。文化闘争、階級闘争のプラカードはこのような運動を凝集させる標語であり象徴である。生々の流転をやめない社会集団は不断に新らしい理想を創造して、自己の再創造を試みる。その運動はすでに宗教に近いといえよう。」古野清人『宗教生活の基本構造』、社会思想社、1971年、364~365頁。
2.村松武雄、『神話学原論』、培風館、1941年(初版1940年)4~5頁。引用にあたって、旧字旧仮名遣いを新字新仮名遣いに改めた。
3.ピエール・グリマル、高津春繁訳、『ギリシア神話』、白水社、1992年、7頁。
4.パウラ・フィリップソン、廣川洋一・川村宣元訳、『ギリシア神話の時間論』、東海大学出版会、1979年、34頁。
5.リヴガー・シェルフ・クルーガー、氏原寛監訳、『ギルガメシュの探求』、人文書院、1993年、39頁。
6.カール・ケレーニイ、高橋英夫訳、『神話と古代宗教』、新潮社、1992年(初版1972年)、143頁、参照。
7.シュトラウスの神話理論について、私は次のように理解している。「聖書を神話と見る立場すなわちシュトラウスの立場からすれば、聖書において物語られた内容は絶対的真理なのであった。そのような考えのシュトラウスに依拠すれば、神話はポジティヴであり、神話は古代のみならずのちの時代にも新たに語られ続けるものである。」「シュトラウスにおいて文字(聖書)の背後にあるものは民衆の精神(Volk)、共同体(Gemeinde)の精神である。そうであるなら、シュトラウスにおいては、民衆の、共同体の、いや人類の精神は絶対的真理と一致することになる。」石塚正英「聖書の神話的解釈とフェティシズム」、『理想』第653号、1994年、21頁、26頁。
また、羽仁五郎は、神話の成立基盤について次のように説明している。「呪術や崇拝や神話はどこから来るかといえば、社会生活からそれがうまれてくるので、その逆ではなく、かつ社会生活としてもそれなしには人間が一日も生きられぬ食物をうることが経済とかそうした実際の社会生活を行なうについてむすばれる社会関係・家族関係や支配乃至征服関係とか政治とかが、呪術とか崇拝とか神話などの先きに、あるいはその基礎に、すくなくともそれらときりはなしがたく結びつき、それらにともなって存するのであることは、学者の机の上だとか村落や蕃地のとおりすがりの見聞や資料採取手帳だとかではわからないかもしれないが現実に自分たちがどうして日常の生活をいとなんでいるかを考えてみてもすぐわかることである。」羽仁五郎、「神話学の課題」、88頁。
神話の成立基盤を「社会生活」(物的・合理的基盤)におく羽仁のこの説明は、神話それ自体が非合理や不条理を含んでいることと矛盾しない。合理的基盤から非合理が生まれるのは当然であり、またその非合理が原因となって合理的基盤を改変していくことがあるのも、理の当然である。神話に含まれる非合理を無知蒙昧や迷信と片付けると、神話の本質=現実的有効性を見失うのである。その意味から、シュトラウスの神話的聖書解釈は重要なのである。羽仁は1920年代のドイツ留学中にシュトラウス『イエスの生涯』を知る。総じてマルクス主義的な神話解釈にちかい羽仁の議論中に、シュトラウスの影響はたしかに垣間見られるのである。羽仁のシュトラウス言及については、石塚、「聖書の神話的解釈とフェティシズム」、20~21頁、参照。
なお羽仁にはいま一つ、彼の神話学研究の出発点となった重要な論考がある。「神話学の方法および概念」、『史学雑誌』、1929年8月号。若い羽仁がこのように神話学に深入りしていった背景に、彼のドイツ留学がある。
「第一次世界大戦後の社会は、われわれ青年の眼の前に、古いものの没落と新しいものの生長とを示した。一九一七年ロシア革命、日本でも一九一八年の米騒動及びデモクラシィの思想、それらがわれわれをゆすぶった。一九二一年一高を卒業したぼくは、そのまま東大に入ってそこを卒業して社会に立つといういままでの生きかたが、われわれの生きかたであるようには考えられなかった。ぼくはドイツに行き哲学を学ぶことを決意し、ハイデルベルクに行った。しかし、大戦後のドイツの社会はさらにはげしく動いていた。革命の要求が反革命によっておしひしがれながら動いていた。そのドイツのハイデルベルクで、ぼくは糸井靖之や大内兵衛が経済学に新しいみちを発見しようとして死にものぐるいになって勉強しているのを見た。ぼくは三木清とともに哲学において新しいみちが発見されなければならないことを知った。ぼくは、哲学から歴史を学んだ。そして、一九二四年、日本に帰ってきたとき、ぼくは日本および東洋の歴史の研究をしなければならないと考えた。こうして、ヨオロッパから帰ってきたぼくが、日本の歴史を研究しようとして最初に読んだのが、津田左右吉の『神代史の研究』また『古事記および日本書紀の研究』であった。(それらを)読みながら、ぼくはダヴィッド・シュトラウスの『ヤソ伝』David Friedrich Strauss, Das Leben Jesu. 1835.をおもいだし、この本をもとり出して、ならべて読んだ。」羽仁五郎、「つださうきち博士」、『図書』1950年5月号、2頁。
8.リヴガー・シェルフ・クルーガー、氏原寛監訳、『ギルガメシュの探求』、人文書院、1993年、80頁前後、参照。
9.先史と文明との過渡期における神観念の変化、神像の形態変化については、以下の文献を参照。石塚正英、『フェティシズムの信仰圏』、世界書院、1993年。
10.古代~中世におけるキリスト教による異教神の悪霊視については、以下の文献を参照。石塚正英、『「白雪姫」とフェティシュ信仰』、理想社、1995年、とりわけ第5章「天上の神がサタンを殺戮している頃」。
11.安田喜憲編、『魔女の文明史』、八坂書房、2004年、91頁。
12.同上、464頁。
13.ダーウィンが進化と進歩とを区別していたとの主張については、次の文献を参照。石塚正英、『歴史知とフェティシズム』、理想社、2000年、第七章第三節「社会発展の段階と類型・ミハイロフスキー」。
14.アミルカル・カブラル、石塚正英ほかアミルカル・カブラル協会編訳、『抵抗と創造――ギニアビサウとカボベルデの独立闘争』、柘植書房、1993年、79頁。なお、欧米型の近代化政策・近代主義とは根本的に次元を異にするアフリカ型の近代主義に関する詳細については、次の文献を参照。石塚正英、『文化による抵抗――アミルカル・カブラルの思想』、柘植書房、1992年、とりわけ第4章「ウジャマァ社会主義とクリエンテス資本主義」、第5章「〈負の近代主義〉批判――現代ソ連をも駁撃するアフリカ」。
15.例えば、ファノンは次のように述べている。「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。」フランツ・ファノン、鈴木道彦・浦野衣子訳、『地に呪われたる者』、みすず書房、1969年、113頁。また例えばエルネスト・チェ・ゲバラは次のように述べている。「肉を何キロ食べようと、一年に何回浜辺へ散歩に出かけようと、現在の給料で外国から輸入する装身具をどれくらい買おうと、問題ではない。個人が内面的にずっと豊かになり、ずっと重い責任をもって、いっそうかんぜんなものになったと感ずることこそ、問題である。」ゲバラ、「キューバにおける社会主義と人間」、選集刊行会編訳、『ゲバラ選集』第四巻、青木書店、1969年、186頁。
16.東京新聞、1991年12月12日付夕刊、掲載記事。
17.語句「オイコス」の語源と意味については以下の文献を参照。石塚正英・柴田隆行監修『哲学・思想翻訳語事典』、論創社、2003年、24~25頁。項目「エコロジー・生態・生態学」。
18.自然の権利については、以下の文献を参照。トム・レーガン、「動物の権利」を含むピーター・シンガー、戸田清訳、『動物の権利』、技術と人間社、1986年。
19.服部辨之助、『政治思想史―古代』、早稲田大学出版部、1974年、70頁以降、参照。
20.Wilhelm Reich, Die Massenpsychologie des Faschismus, Koeln, 1986, S.80. ヴィルヘルム・ライヒ、平田武靖訳、『ファシズムの大衆心理』、せりか書房、1972年、上巻、121頁。
21.羽仁五郎、「ユウトピア」、『羽仁五郎歴史論著作集』第四巻、青木書店、1967年、52頁。初出は『講座世界思潮』岩波書店、1929年。
22.ミシェル・フーコー、渥海和久訳、「主体と権力」、蓮実重彦・渡辺守章監修『ミシェル・フーコー思考集成4』、筑摩書房、2001年、27頁。
23.Nicolaus Sombart, Die Deutschen Maenner und ihre Feinde. Carl Schmitt. Ein deutsches Schicksal zwischen Maennerbund und Matriarchatsmythos, Wien, 1991. ニコラウス・ゾンバルト、田村和彦訳、『男性同盟と母権制神話――カール・シュミットとドイツの宿命』、法政大学出版局、1994年。
24.Sombart, ibid., S.97.田村訳、117頁。
25.Sombart, ibid., S.128.田村訳、155頁。
26.Sombart, ibid., S.304.田村訳、380頁。
27.Sombart, ibid., S.339f.田村訳、424頁。
28.Reich, Massenpsychologie., ibid., S.72. 上、109頁。
29.Wilhelm Reich, Die Sexuelle Revolution, Frankfurt a.M., 1971, S.166. ヴィルヘルム・ライヒ、中尾ハジメ訳、『性と文化の革命』、勁草書房、1969年、172~173頁。
30.臼井隆一郎編訳、『バッハオーフェン論集成』、世界書院、1992年、とりわけ第10章「解説論文――記号の森の母権論」参照。
31.井上五郎訳、「J・J・バッハオーフェン論」、家族史研究会編、『女性史研究』第九集、1979年、5~6頁。
32.Wilhelm Reich, Die Massenpsychologie., S.13. ライヒ、平田訳、上巻、10~11頁。
33.石塚正英「村瀬興雄教授のナチズム研究によせて」、『立正史学』第88号、2000年、49頁。
34.神話のアクチュアリティにある種の歴史貫通性を認める文化史家に大類伸(1884~1975)がいる。その労作『西洋文化史論考』誠文堂、1961年、4~5頁、に次の記述が読まれる。
「人間の歴史の発達は、神話を全然歴史化してしまうか、或は神話を歴史から追放することによって始められた。それは神話の蒙昧と混乱とに対する明晰と秩序との勝利であり、また本能的欲求や情熱に対する理知の統制である。(中略)
人間の歴史は、たしかに混沌から秩序へ、暗黒から光明へと向っている。しかし前者は必ずしも後者によって一掃されてしまったのではなく、何等かの状態で依然として存続している。もとより或る時代の混沌はその外面的な形相としては消え去ったに相違ないが、それを生み出す根源的な力は無形の存在として時代の裡に生き続けている。そうして或る時期を経てその時代に相応した形相をとって再び歴史の表面に現われて来る。しかし、それはまたその時代の理性を代表する対立的な力によって克服されて、更にまた時代の裏面へと潜入してしまう。このような対立する両勢力の交渉関係は、たえず歴史の面に繰返されつつあるので、歴史を研究する者の逃れることの出来ない宿命とさえ考えられるのである。以上のごとき抵抗作用の力として現われて来るものは、歴史の上では屡々異端的なものとして取扱われ、それに対して克服し調整する力が正統的と見られることは云うまでもない。但し、正統と云い異端と云うも、結局は楯の両面であって、両者とも歴史の発展にとって欠くべからざる要素なのである。
要するに、歴史と神話とは相対立しながらも互いに人間歴史の発展を生み出す力である。われ等は歴史を輝かしい人間的所産として尊重すると共に、同じく人間の生んだ自然的所産としての神話の意義を忘れてはならない。但しここに云う神話は、原始時代そのままの神々の復活や原始への復帰を意味するのではなく、昔の神話を生み出した根源的な潜在勢力が、決して滅んでいないと云う意味である。かくして時代はいかに変遷しようとも神話は何等かの形で絶えず現われる次第である」。
35.Reich, Massenpsychologie., S. 209. ライフ、平田訳、下巻、38頁。
36.ロラン・バルト、篠沢秀夫訳、『神話作用』現代思潮社、1980年、170頁、参照。
[付記]先史のミュトスを「ミュトス神話」とし、文明の非神話的神話を「ロゴス神話」として両者を区別するとすれば、今回は後者について詳論したことになる。前者についてはすでに別稿「デーメーテールとディオニューソス」(『立正西洋史』第18号・第19号、2002年~2003年)で縷説した。したがって、本稿をもって私なりの神話論(歴史知的神話論)は一応の完結をみた。
出典:石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年、第7章
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