世界に届いたヒロシマの声 -歴史的な日となるか、2010年の「8・6」-
- 2010年 8月 9日
- 評論・紹介・意見
- ヒロシマ原爆岩垂 弘核兵器廃絶
「原爆被爆から65年。核兵器廃絶を訴え続けてきた広島の声は、ようやく世界に届いた」。8月6日の広島原爆の日を中心に広島市で繰り広げられた多くの催しを見て回った印象を一言でいうならば、そういうことになろうか。そして、世界の核兵器廃絶を求める流れはもう押しとどめることはできないだろうとの印象を得た。もちろん、核兵器の完全廃棄までにはまだまだ厚い壁が立ちふさがっていることもまた感じさせたが、とりわけ日本政府の核軍縮への熱意を疑わせた菅直人首相の発言には、広島に結集した人々を失望させた。
注目を集めた潘国連事務総長のあいさつ
今夏の広島には、内外から多くの人々が訪れたが、なかでも最も注目を浴びたのは、潘基文・国連事務総長だった。潘事務総長は広島市主催の平和記念式典に参列したが、国連事務総長の平和記念式典参列は初めて。もっとも国連最高幹部の式典参加は今回が初めてではなく、1977年にはアメラシンゲ国連総会議長が式典に参列している。が、国連を代表するのはやはり事務総長であり、それだけに潘事務総長の式典参加は、国連が8・6の平和記念式典を重視していることの表れ、と参列者に印象づけ、式典に重みを与えた。
事務総長は、式典でのあいさつの中で、「私は少年時代を朝鮮戦争のさなかに過ごしました。炎上する故郷の村を後にして、泥道を山中へと逃れたことが、私にとって最初の記憶の一つとして残っています。多くの命が失われ、家族が引き裂かれ、後には大きな悲しみが残されました。それ以来、私は一生を平和のために捧げてきました。私が今日、ここにいるのもそのためです」と述べ、「ここ平和公園には、一つのともしびが灯っています。それは平和のともしび、すなわち、核兵器が一つ残らずなくなるまで消えることのない炎です。私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではありませんか。そしてともに、広島の炎を消しましょう」と呼びかけた。
私たちは、潘事務総長が08年10月に核問題で5項目の提案を行ったことを知っている。その内容は(1)すべての核不拡散条約(NPT)締約国、とりわけ核兵器国が、核兵器禁止条約の交渉検討を含めて、NPTに基づく軍縮義務を履行すること(2)核兵器国は、非核兵器国に対し核兵器による攻撃も威嚇もしないことを明確に保証すべきこと(3)包括的核実験禁止条約(CTBT)、核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)、非核兵器地帯などによって「法の支配」を強化すること、などといったものだった。さらに、今年5月に開かれたNPT再検討会議で採択された最終文書をまとめるうえで潘事務総長が重要な役割を果たしたことも知っている。
だから、広島に結集した人たちは、事務総長のあいさつが、よくあるしらじらしい形式的なあいさつでなく、そこに事務総長の、核兵器廃絶に向けた熱情と本気を感じとったのだった。
今や「核兵器廃絶」が世界の趨勢
核兵器保有国から米国、英国、フランスの代表が初めて平和記念式典に参加したことも注目を集めた。とりわけ、米国を代表してルース駐日大使が参列したことが関心を呼んだ。しかし、ルース大使は式典中終始無言で、慰霊碑への献花もなかったし、式典後の記者会見もなかった。米国からは、米国高官が「大使の式典出席は被爆者に謝罪するためではない」と語ったとの報道が伝わってきた。式典参列者や核兵器廃絶運動関係者からは「被爆者に謝罪しないというなら、大使は何のために広島へやってきたのか」との声が聞かれた。
米国の狙いは何だったか私には分からないが、私はこう思った。「米国政府としては、実は代表を式典には参加させたくなかったのではないか。なのに参列させたのは、やはり世界の趨勢に抗しきれなかったからではないか」。
世界の趨勢とは、核兵器廃絶に向けたかつてない国際機運の高まりだ。つまり、09年4月のプラハにおけるオバマ米大統領の「核なき世界をめざす」との演説をきっかけに、国連安保理による核兵器廃絶決議(09年9月)、米政府による核戦略見直し(10年4月)、米ロによる新戦略兵器削減条約合意(同)、NPT再検討会議における最終文書採択(10年5月)……と続いてきた国際政治の舞台での流れである。すなわち「核兵器の廃絶が世界の大局である」(原水協系世界大会における高草木博・原水協事務局長の発言)ことがはっきりしてきたのだ。
今年の広島における平和記念式典は、いわばこうした国際政治の流れの一つの集約点であったとみていいだろう。これまでの流れを集約し、流れをより確かなものとし、核兵器廃絶に向けての道筋を明らかにする場であったとみていいだろう。だから、国連のトップをはじめ74カ国の政府代表、内外のNGO(非政府組織)関係者が広島に結集したのだった。
最初の被爆地・広島はついに「世界の広島」となったのだ。
私は、これまで42年間にわたって広島の平和記念式典をみてきた。そこから得た印象を一言でいえば、広島にとっての被爆65年は絶望と失意の日々であった。1952年に第1回の平和記念式典が開かれて以来、広島市と広島市民は核兵器廃絶を世界に訴え続けてきた。1955年からは、国民的な原水爆禁止運動がこれに加わった。が、世界では核軍拡競争が拡大するするばかり。「ヒロシマからの訴え」は世界世論の形成に大きな影響を与えたものの、核兵器保有国のリーダーを動かすことはできなかった。
そればかりでない。日本政府も「ヒロシマからの訴え」に耳を貸さず、日本の首相がこの式典に参列するようになったのは1971年からである。なんと被爆から26年後のことだ。
が、今や、核兵器廃絶に向けたかつてない国際機運の高まりを迎えた。広島で長い間、平和運動に携わってきた岡本三夫・広島修道大名誉教授(平和学)が語る。「核兵器は廃絶せねばという思いがようやく世界の共通認識になった。広島の声が、ようやく世界に届いたということですね」
核抑止論を打破しよう
もちろん、今年の「8・6」に結集した人々は、核兵器廃絶に向けた国際的機運の高まりに手放しで喜んでいたわけではない。核兵器廃絶が現実的課題になってきたとはいえ、核兵器廃絶に向けたロードマップはまだ決まっていないからだ。その最大の原因は、いまなお「核抑止論」が核兵器保有国のリーダーを支配しているからだ。「核抑止論」とは、核兵器があるからこそ平和が保たれるとの考え方である。
このため、今年も広島で開かれた大会や集会では、核兵器保有国のリーダーに対し、「核抑止論」の放棄を要求する発言が相次いだ。そして、核兵器廃絶に至る行動指針の提起があった。原水協系世界大会の国際会議で採択された宣言は「我々は、核兵器の全面禁止を達成するため、核兵器廃絶条約の交渉と締結を要求する」とうたい、原水禁系世界大会広島大会で採択されたヒロシマアピールは「『核兵器を作らず、持たず、持ち込まず』の非核3原則を明記した非核法を一日も早く制定し、東北アジアの非核地帯化を実現しましょう」と述べている。
秋葉忠利・広島市長の平和宣言は、広島市、長崎市を含む平和市長会議(世界144カ国・地域の4037都市が加盟)が「2020年までに核兵器を廃絶する」ことを目指して行動していることを紹介し、「志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し……更に大きなうねりを創ります」としている。秋葉市長はまた、宣言の中で、日本政府に対し非核3原則の法制化と「核の傘」からの離脱を求めた。
空気が読めない首相
ところで、例年になく盛り上がった今年の「8・6」で、その盛り上がりに水を差すような出来事があった。菅首相の発言だ。
平和記念式典に参列した首相は、あいさつの中で「私は……核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を順守し、非核3原則堅持することを誓います」と述べた。しかし、式典後の記者会見で「核抑止力は、我が国にとって引き続き必要だ」と語り、非核3原則の法制化にも否定的な見解を示した。さっそく、広島市民から「核兵器廃絶に向けて世界が動き出したのに……。被爆地をかかえる国の首相の発言とは思えない」「世界中の人たちが被爆地で核兵器廃絶を誓った日に冷や水を浴びせかけるような発言だ」といった声が上がった。よくよく空気が読めない首相である。
8月7日付中国新聞朝刊の一面に、同社の江種則貴・ヒロシマ平和メディアセンター編集部長の「確かな希望 なお焦燥感」と題する一文が載っていた。その書き出しは「核兵器のない世界が現実となった時、『2010年8月6日』は歴史の区切り点として思い起こされるに違いない」というものだった。私もまた同じ思いを胸に抱きながら、広島の街を離れた。
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