三芳の鶏の身になってもみませんか――『土に生きる』第4号を手にして(5-2)
- 2012年 6月 3日
- スタディルーム
- 自然農業自然飼育野沢敏治
C 座談会・「鶏と卵、ざっくばらん」
この座談会は本号の白眉と言ってよい。知らなかったことを、でもやはりそうでしかないと思ってしまうことを教えてくれる。自然農業と生活様式の見直しは現代文明を批判するものだが、それは同時に人間文明の本体を見届けさせてくれる。
ただ死ぬのを見るだけのこともある
本会は発足の最初から鶏の自然飼育を始めている。その起こりは消費者からの要求にあった。消費者側は生産者に対して、鶏のケージ飼いや配合飼料の給餌、PCB汚染の疑いのある魚粉の使用は問題があるから、放し飼いか平飼いをし、そこから出る鶏糞を肥料にして農産物を作ってほしいと要求する。もし自然飼育に失敗したら消費者側で損失を保障すると付け加える。生産者はその要求に応える。
最初は周りからマイナスの反応が出る(――以下、この節は第8号から)。養鶏の専門家は、それでは鶏は卵を産まない。そもそも鶏が育たない、1羽病気になれば皆すぐに死ぬと言う。それでも生産者は昔の飼い方を知っている老人から教わってやってみた。そしたら結構うまく育ったのである。ただ前回でも石塚の発言を紹介したが、彼の最初のころは飼育が難しく、病気になると自然農法のため薬をやれず、ばたばた死ぬのを見ているだけで「めがしらが痛くなった」と書いている。鶏はニューカッスル病になればおしまいなのである。
「おめえなんかいいなー」 ケージ飼いと放し飼いとの会話
都会の消費者は三芳に行って自然飼育の鶏を見る。すると、鶏があちこち野山をかけ回っている。みかん畑で喜々として遊び、その木にとまったりして、のびのびしているように見える。広い鶏舎ではいかにものどかにしている。トマト畑では虫を探し回っている。私も子供のころは山奥の一軒家の祖父母の家に行っては、鶏がコー、コッコッと鳴いて家の周りを歩きまわり、地面を足で掻きけってはくちばしでつついていたのを見ていた。斜面にある柿の木の枝に飛び上がっているのも見ていた。そういう光景は人をリラックスさせる。
では鶏ははたしてうれしいのか。工場の鶏は狭いケージに閉じ込められて餌を食べては卵を生んでいる。「鶏」はケージに2羽も押し込められることがあるから、「2羽鶏」と言うのだと聞いたことがある。これではケージ飼いの鶏は放し飼いの鶏に対して「おめえなんかいいなー」(和田)と言うだろう。消費者はそれに共感するだろう。だが生産者は反対の見方をする。鶏がのんびりしているように見えるのは食べる条件が大変悪いので餌を探しまわっているだけのこと。そうすると放し飼いの鶏はいつも栄養たっぷりに餌をあてがわれているケージ飼いの鶏に「おめえなんかいいなー」(和田)と言わねばならない。和田は両方の鶏をそのようにユーモアをもって対峙させている。
放し飼いは鶏をたくましくさせるが、卵はあまり産まなくなる。この自然法で鶏が自己維持以上のエネルギーを卵にして産むのであれば、それは「いい卵」と言える。いい卵とはそれで丸まるのひよこが孵るもの。だがこのように自然が厳しく動物性たんぱくもないところでやっと産んだような卵ではいいひよこにならない。いいヒヨコにならない卵はいい卵とは言えない。生産者はそう言ってわれわれ消費者の田園讃歌的な見方に水をさす。
生産者はさらに言う。もともと卵は食べるものでなく、鶏になるためだけのものであった、と。かつては卵はりんごと同じく人が病気になった時に食べるものであった。両者は滋養物であった。たしかに私が子供の頃はそうであった。それが高度成長をへて変わっていく。生産者は言う。牛乳も本来は子牛だけのものであった、と。白色レグホンやホルスタインはすでに人間の食用にと改良されたものである。その改良種をもとに戻して「本当のもの」を求めることは実に難しい。
司会者が問う。「いい卵を食べるということは、いったいどういうことなのか」。和田がそれに答える。――鶏が春に卵を産みだした時にいっぱい食べて、冬になって卵を産まなくなったら廃鶏にして――「人間の一方的な考え方」であるが――その肉を食べるようにする。そのように食生活を変えることである。
放し飼いから平飼いへ
放し飼いにするといろいろ困ることが生ずる。生産者からすると、従来の畑を鶏の運動場として廻すのはもったいない。運動所の草や虫はしばらくは残るが、半年もするとコンクリートのようにつるつるになると言う。そのためにあちこち場所を変えるという余裕はない。「効率」や「合理性」を考えると、放し飼いを止めて囲い込みを考えるべきなのだ。地面があれば飼えるものでない。
放し飼いをすると外からこんな苦情が来る。お宅の鶏が家の畑に来た、田の稲を食べた、家の土台の下を掘る(!)とか…。
廃鶏にする時にずいぶん数が減っていることに気づく。それだけ行方不明になったのである。天敵のイタチや猫にやられることもある。
こうして最初の放し飼いは失敗する。平飼いにして運動場をつけることにする。この場合にも鶏が運動場をつつきまわるので、そこには草は生えなくなる。
糞は肥料になる。市販のものとはまるで効き目が違うようだ。この鶏糞をとるために鶏を飼うとも言える。さらにくずとなる野菜を食べさせるために鶏を飼うとも言える。餌は米ぬかとくず米、貝がら、野菜くず、草など。
産卵数を左右するもの
一般の飼育では鶏は5、6ヶ月たつと、その80パーセント以上が産卵する。それと比べると、放し飼いでは9,10カ月かかるというから、普通より2倍ほど時間がかかる。ただ身体の大きさは普通と同じか、それ以上になるらしい。体つきはたくましい。でも産卵数は一般に対してかなり少なくなる。和田は78羽の鶏で8個だけの卵を産む場合でも良い方だと言う。和田自身の場合は250羽で両方のポケットに入るくらいだというから、ひどく少ない。鶏の全体の1割しか卵を産まない家もあるという。その分消費者に引き取ってもらう際に値段でカバーするようにしている。だから値段は高くなる。
産卵は天候に左右されるので思うにまかせない。飼育は息を長くせずにはできないこととなる。
産卵には時期がある。3月から6月までが多く、夏になると落ち、秋冬はガタっと減る。鶏は光で生殖ホルモンを刺激されるので、日照時間が長くなると産卵数が多くなる。その方が自然なのである。野鳥は春しか卵を産まないことを考えれば、自然に近い飼い方になると産卵数が減るのは当然であろう。冬の卵が悪くなるのは当たり前。それを不満に思う人間の方がおかしいことになる。鶏が自分の「本性」を出して自分の好きなものを食べて産んだ卵となると、人間は1つも食べることはできない(!)というのは大げさな言い方ではない。
産卵の季節での変動を調整するには工夫がいる。ある生産者はくず米を煮てそれにぬかや野菜くず(サツマイモ・じゃがいも)・青菜を混ぜて与えている。
一般のケージ飼いでは人工的な点灯によって産卵数を調整している。魚粉や農協の配合飼料を与え、身体を大きくさせて毎日でも卵を産ませている。自然はそのようにコントロールされている。
味と見かけは別
自然飼育の鶏は自分の体力の範囲内で卵を生むのだから、味は抜群である。それは一般のものと違って黄身は盛り上がらず色も薄い、白身はべたーとしている。見栄えは劣る。だがその味は食した者にしか分からない。私も学生に食べ比べをさせてみた。軍配は自然飼育の方であった。
味が良いからと、無邪気にももっと欲しいと要求しましょうと言うのがわれわれ消費者である。鶏の身になると――スミスのシンパシーが相手の感情でなく、相手の立場への「同情」であったことに想いをおけないのがスミス研究者である。このシンパシーをよく理解していたわれらの先人は田中正造であった――、とてもそうは言えなくなる。
人間が家畜の自然を変えている
飼っている鶏が産卵するのは人間が取るから産むのであって、本来は少したまれば雛を孵すためのものである。人間が飲む牛乳は母牛が仔牛に飲ますものとは違う。家畜は人間のためにあることがよく分かる。乳量を上げようと牛に煮た小米を与えることがある。でも長く食べさせると卵巣膿腫になり、妊娠しなくなるようだ。人間の都合が牛の自然を変えてしまっている。自然農法では当然だがそんなことをしない。でも自然農法は「管理」をしている。
消費者は卵1パック650円は高い!と思っている。山岸会の平飼い・有精卵・薬無使用と比較しても高い。そのためポストによっては三芳の卵を受け取らない。この場合、全量引き取りの原則は崩れている。安くするには企業的にすればよいが、それでは購入する餌の代金にもならない状況であれば、できないことだ。
「循環」が飼育数を決める
鶏の羽数は何で決まるか。このことについての和田の観察の的確なことには驚いてしまう。それは必要鶏糞量ではなく、放し飼いに必要な面積でも、自給餌の量でもない。そういう個々の要素ではない。和田はある「関連」の中で考える。鶏はくずになる野菜(サツマイモ・ジャガイモ等)を食べてくれる → それが鶏の身体を作る → 鶏から糞が出る → 糞は畑へ還元される。このように廻っている、その「循環」の中に餌を外部から大量に入れると、それは「はみだし」になる。そこから使い切れないほどの鶏糞が出たら、それは鶏の飼い過ぎとなる。自家調達以上の糞は捨てるので畜産公害になる。牛や豚のばあいには実際そのことが起きていた。消費者はいいものを沢山ほしいと言うが、それは循環から外れた不自然な欲望。和田は人間の要求と自然の理とのバランスを考えることが必要だと言うが、含蓄がある。これは小さな場面でのことだが、人間主義=自然主義の考え(マルクス)である。
こうなると司会者がいみじくも言うように、東京の消費者会員は自然の循環から外れた人間集団だということになる。
三芳の鶏はなかなか死なない
生産者は廃鶏を屠殺業者に渡して肉用にする時に次のように言われることがあった。三芳の鶏は首を切って逆さにして血を抜いても、ケージ飼いの鶏はちょっとバタバタしてすぐおさまるが、「生命力があって仲々死なない」。殺すのに手間がかかる。またケージ飼いの鶏の血は黒ずんでぼたぼたしているが、平飼いの鶏の血は鮮血でさらっとしている。湯通しをして毛を抜く時も「仲々とれず非常に時間がかかる」。解体する時にも大変に力が必要となる。それで屠殺業者は5割増しの料金を請求したという。……消費者はその話を聞いて言葉が出ない。せめて大事に食べないとすまない気持になる(第8号の和田の報告から)。
自然農法は人間と自然とのこの関係を、人間文明のありようを、隠すことなく見せてくれる。命あるものは命あるものを食す。宮沢賢治もこのことをよく知っていた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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