フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(7)
- 2012年 6月 19日
- スタディルーム
- フランス革命ヘルダー二本柳隆
2.ヘルダーの専制政治への批判
ヘルダーが生まれたのは1744年だが、フリードリヒ2世(大王)が即位したのはその4年前であった。ヘルダーが19歳になるまで、大王は2度大きな戦争を行なった。一つは、オーストリア継承戦争(1740-8)、二つは、七年戦争(1756-63)。前者は、4歳の幼児には記憶されなかっただろう。しかし、後者はヘルダーが少年期から青年期へと成長していく過程のなかで行なわれた。「戦争の終わりのころには、プロイセンの各地方はまったくひどい状況にあった。人間、家畜、資本の損失はおびただしかった。ベルリン人の3分の1は、貧民救助によって暮らしていた。ノイマルクでは、もうほとんど一匹の家畜もいなかった、ということは周知のことである。何千もの家や小屋が焼き払われた。もっと悪質な経済恐怖が、平和になってからも数年間も続いた。」(1)
このような情況をヘルダーははっきりと認識していたに違いない。というのも、ヘルダーの次のような簡単なスケッチのなかに、かれのドイツ・プロイセン認識の深さをみてとることができるからだ。「いかにこの軍人的訓練が、プロシャにおいて怖れと惨めな奴隷制とともに貧しい人々を麻痺させていることか。」(2) プロイセンに君臨していたフリードリヒ大王は、父王の軍事的政策をそのまま引き継ぎ、軍人的訓練を高め、2度の戦争によってプロイセンをより強い軍事的国家に作りあげようとしていたのである。
では、このような大王が採用した政治機構はどうかというと、「父王の確立したところをそのまま継承したもので、司法文教、軍務、財政、商工、軍需および外務の6省に分かれ、おのおの大臣が各部門を管掌し、さらにこのほかに、各州の内政、財政、軍務を総括的に司宰する機関として、同じく父王によって創設された5部局から成る総管理庁があったが、それらはすべて、まったくのところ、国王の命令をそのまま実行する単なる事務機関」(3)にすぎなかった。いわば、フリードリヒ大王が「最高の裁判官、最高の将軍、最高の財務官、最高の大臣」(4)だったのだ。このように、大王の政治はきわめて徹底した独裁専制政治であったことがわかる。
この反面、大王は啓蒙君主としても知られている。つまり、自然法を学び、人間の平等を主張し、国家は各個人間の契約によって成立し、国家は各人の生命財産を守り、確保する人為的手段にすぎないと主張したとされる。したがって、これまでの王権神授説を否定し、君主は「国家第一の下僕」だと宣言した(5)。また、文化の面でも、前節で触れたように、宮廷にフランンスの啓蒙主義的文人・哲学者を招聘し、フランス文化を模倣することによって、自ら、啓蒙君主であることを誇りとしていた。
しかし、文化政策とともに、プロイセンの政治政策もまたフリードリヒ大王一人の管轄下にあった。『旅行記』の発表から『異説』に至るヘルダーの視座には、「啓蒙君主を自負する諸侯が、得意になって実施した寛容の政策とか、拷問の廃止、奴隷の解放、その他、人民の福祉のための施設や教育の改善といったような種々な社会改革は、すべて上からの改革であり、民族や習俗や、伝統、文化(言語)に基づいて下から行われた改革ではない」(6)ということが見抜かれていた。こうした経緯を踏まえて、『異説』において、「哲学と人間愛の普遍的な衣裳は、圧制を覆いかくすことができる」(7)と述べたヘルダーの主張は、誠に、卓越したものであった。
ヘルダーの視座では、ヨーロッパ諸国にみられた絶対主義的専制国家は否定される。『異説』では、「どの官職、職業、身分について見ても、農民から大臣、大臣から僧侶にいたるまで主君と下僕、専制君主と従僕の違いがあるだけだ。」(8) ヘルダーのこの文章の背後にあったのは、革命前フランスの絶対主義であったかもしれない。『構想』に至ると、おおよその絶対主義的専制国家は否定され、「専制政治はすべての混乱、ならびに避け難い不幸の父」(9)として捉えられた。また、『構想』では、このような専制政治に関連させて人類史を回顧しつつ、次のように書かれている。「多くの民衆がさまざまな政体を経てその不便を感じたのち、結局、失望して人間を全く機械的にさせる専制世襲の政府に戻るのは怪しむに足らない。」(9) この視座には、民族のあり方、つまり民族の主体性と選択によっては、専制政治の方向に向かってしまうのだ、と捉えられている。ヘルダーの視座では、元々このように専制政治は否定されていたが、この基本的前提になっていたのは、「人間の概念にはまた人間であって、人間に必要な専制君主の概念は存在していない」(10)というところにあったのだ。換言するならば、「主君を必要とする人間は動物である。一度、人間となるや否や、もはやなんら本来の主君を必要としないというべきである。すなわち、自然はわが人類になんらの君主をも定めない。」例えば、人間は幼児期、また成長過程において、両親の愛情と物質的・経済的援助を受けるが、成人となると、一人前とされ、自立し、両親の援助から独立するであろう。そうでない場合、その人間は両親の援助をあてにし、依存し、「甘えっ子」と看做されるだろう。
話をもとに戻そう。ヘルダーによると、民族の主体性と選択によっては、「最も高尚な民族も専制政治の桎梏を受ける時は、ただちにその品位を失う」(11)ことになるし、「もし暴君政治を選び、または悪い政体を辛抱しているならば、その負担を耐えるべきである」(12)ということになる。
フランス革命前のヘルダー著作をみる時、今まで述べてきた専制政治への痛烈な批判と同時に、専制政治から帰結されたと思われる国家への強い不信、国家に対して社会を優位に位置づけていたことがわかる。次節において、それらについて検討することにしよう。
註
1.Franz Mehring, Die Lessing Legende, Gesammelte Schriften Bd.,9, Berlin, 1963. 小森潔・戸谷修・富田弘訳『レッシング伝説』風媒社、1968年、191ページ。
2.Reinhold Aris, History of Political Thought in Germany from 1789 to 1815, Frank Cass, 1965, p.236.
3.村岡晢『フリードリヒ大王――啓蒙専制君主とドイツ』清水書院、1971年、123ページ。
4.矢田俊隆『近代中欧の自由と民族』吉川弘文館、1966年、8ページ。
5.矢田、同上、4-6ページ。
6.十河佑貞、前掲論文、前掲書、237ページ。
この意味で、「君主は、果たすべきいくたの義務を負うている。その内容はすなわち、法の維持、正義の実現、道義退廃の防止、ならびに外敵の防衛にほかならない」(村岡、前掲書、118ページ)と述べたフリードリヒ大王は、もっとも典型的な「啓蒙専制君主」の一人だった。例えば、「従来窃盗犯はすべて一様に死刑を課せられていたが、これはまったく無意味なことであり、その場合には、犯人が暴力を用いたかいなか、あるいはまた犯人が真に困窮していたかいないかなどの事情を考慮して、それぞれ量刑が定められなければならない」(村岡、前掲書、131ページ)として、「この意味からフリードリヒは、しばしば勅令を発してプロイセンの刑法の改正を試み、その結果、彼の治世において死刑の執行は年間平均14から5件に減少し、それは、軍刑法以外では、強盗、殺人、放火などの重刑のみに限られるようになった。」(村岡、前傾書、132ページ) 「死刑の全廃は行なわれえなかったが、それの執行については、従来用いられてきたような残虐な各種の方法はおおいに改善された。」(村岡、前掲書、132ページ) 私法=民事関係の面では、「直接的ではなく間接的にこれを指導する態度をとっていた。」(村岡、前掲書、133ページ)
次に、大王治下プロイセンの経済政策について、村岡著作(153~156ページ)を参考にして概述する。「プロイセンの経済をオランダの金融市場から独立させ、国民の日常必需品とくに膨大な軍隊のそれを国産品をもって自給させること、とりわけ戦時において外国の食糧その他の商品や為替に依存することのないよう、十分な物資や資金を蓄積しようとすることであり、したがってその原則はいわゆる重商主義の範疇に入れられようが、もとよりけっして農業を軽視するものではなかった。かえって彼は、同じく財を創造するものとして農業と工業とを同等に振興し、相互に促進せしめあい、もって、従来都市と農村とに分かれていた経済を国家的に統一しようとはかったのであった。」このような経済政策のうち、農業についてみると、「耕地の増強、技術の改良ならびに農業生産者としての農民階級の保護であった」とされている。最後の農民階級の保護についてみるなら、大王自身「農民階級は、国家にとりきわめて重要である。それは国家の土台をなし、それをになうものである」という考えをもっていた。しかし実際のところ、次のように相反することも考えた。「この嫌悪すべき制度(世襲隷農制――二本柳)も、これをいっきょに撤廃しようとするならば、それは、土地所有者の経済的地位を根底から破壊する結果を招くであろう。したがってそれには、まず土地所有者である貴族のこうむるべき損害を補償する用意が必要である。」 こうして他方では、農民保護とは裏腹に王権=貴族層の絶対主義的傾向を強め、国家の中核を握る官僚=貴族の育成を促進する方向につながっていったのである。
これまでみてきたように、フリードリヒ大王の法律制度の改革および経済政策は、ヘルダーが看取していたことでもあるが、民衆すなわち〈下から〉のものではなく、王権すなわち〈上から〉行なわれたのである。
7.Herder, Auch eine Philosophie der Geschichte zur Bildung der Menschheit, S.557. 登張正美・小栗浩訳、前掲書、167ページ。
8.Herder. ibid., S.535. 登張・小栗、前掲書、128ページ。
9.Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit, S.385.
ヘルダーのこのような絶対主義的専制国家は、革命後のヘルダーの著作に確認できるが、かれの生涯において、専制国家の君主――ときにドイツにおける――を賛美していたことが一、二、例外的に認められる。かれについての誤解を防ぐためにも、それをここで指摘しておく必要があろう。
その一つ。ヘルダーの『旅行記』の翌年、1770年。グーチ(Gooch, ibid., p.12. )によると次のようである。「ヘルダーは、かれの知っているなかで(カルル・フリードリヒこそが――二本柳)君主らしい気取りのない唯一の君主であり、おそらく1770年現在において最も優れたドイツの君主であろうとほめた。」グーチによれば、南部ドイツ諸邦のなかでバーデンのカルル・フリードリヒは熱心な文学研究家で、ヴォルテール、クロンプシュトック、ヘルダー、ユング、シュテイリングを友人のなかに数えていたそうである。グーチはこうも述べている。「さらに(ヘルダーの――二本柳)有力な賛辞はフリードリヒ大王について述べたもので、かれは晩年に同時代の君主たちのなかで誰よりもカルル・フリードリヒを尊敬しているといった。」 なお、カルル・フリードリヒは「ヘルダーに命じて『ドイツ愛国協会』の設立案を立てさせた。これは知的活動における国民的統一の観念を強調し、促進させるものであった」とグーチは述べている。なるほど、グーチの述べる「ドイツ愛国協会」は、道筋としてはたしかにドイツの国民的統一の観念を強め促進させる方向につながっていったとしても、当時のヘルダーはそのような情況をどのように捉えていたか。1770年の『ドイツの天才について』のなかで、かれは「ドイツの屈辱と無気力さについての苦り切った悲嘆の発言と(中略)わが子が自分の胸中で押しつぶされてしまった打ちひしがれた母親の隠喩」をもちいながら、ヘルダーは当時のドイツの情況っを捉えていたのだ。Edwin Hermann Zeydel, The Holy Roman Empire in German Literature, New-York, 1966, p.95. Herder, An den Genius von Deutscland, Saemtliche Werke XXIX, hrg. v. Beruhard Suphan. Hildesheim, 1967, S.329f.
これと関連して、1769年のヘルダーの日記に注目したい。「一人の人間、一つの国、一つの民族、一つの自然誌、一つの状態は他のものと互いに似ていることはない。それのゆえそれぞれにおける真、善、美も互いに似てはいないのだ。」Isaiah Berlin, Vico and Herder—-Two Students in the History of Ideas, London, 1976. アイザイア・バーリン著、小池けい訳『ヴィーコとヘルダー――理念の歴史・二つの試論』みすず書房、1981年、395ページ。haerder, Saemtlich Werke, IV, S.472. ヘルダーの念頭には、すでに各々の国民=民族の相違、独自性が捉えられたことになる。こうしたヘルダーの知識の糧になったのは、17歳の時、副牧トレショの助手となり、トレショの蔵書から新旧さまざまな読書の便をえたこともあろう。十字慶喜・小栗浩訳、前掲書、525ページ。年譜参照。
その二つ。ヘルダーのフリードリヒ大王に対する好意的な評価である。本章第5節、註16参照。
10.Herder, Ideen zurPhilosophie der Geschichte der Menschheit, S.385.
11.Herder, ibid., S384.
12.herder, ibid., S.383. 例えば、S.456.の次のような文章を参照せよ。「民族は自分自身の理性をもっていない限り、一人の主人を必然とする。各民族が理性を獲得すればする程、自分自身で統治することを知る。統治はそれだけますますその手段を緩和し、そしてついには、みえなくなるに違いない。統治の最も高貴な目的は、それ故、さほど必要となくなり、おのおの自分自身を治めることにある。」
3.ヘルダーの国家に対する社会の優位
ヘルダーのフランス革命前の著作、主として『構想』には、前節においてみたような専制政治への痛烈な批判とならんで、専制政治から帰結されたと断言してもよい国家への強い不信があったことを見逃してはならない。ヘルダーは国家を次のように捉えていた。「人間が国家のために造られ、この制度から必ず最初の真の幸福が萌芽しなければならないというのは、理解できない。思うに、地球上の多くの民衆が何ら国家を知らないで、しかも国家の為に十字架に刑せられた多くの善行者よりも幸福だ。」(1) 「地球上の幾百万人は国家なくして生きている」(2)が、その人たちはけっして不幸でなく、幸福に生活しているのだ、とヘルダーは説いている。さらにこうも主張する。「国家が大きくなるにつれ組織の技術が精巧になって、個人を不幸に陥れる危険性が非常に増大することは明らかである。大国家においては、一人の豪奢淫楽のために幾百人が飢餓に苦しまねばならないだろう。」(3) 「国家がわれわれに与える得るものは技術上の器具である。しかも遺憾なことには、さらに肝心なあるものをわれわれから奪い取得る。」(4) このようなことから、ヘルダーにとって嫌悪の対象になっていた国家は、専制主義国家であった。
この当時のヘルダーの専制主義国家嫌悪という視座は、同時に、そのような国家に対する社会の優位という視座につながるものであった。ヘルダーは、社会は国家の基底にあり、国家は社会の上に成り立つものと捉えていたのである。この視座は近代自然法の流れにそったものだった。このことを、ヘルダーの論述にしたがって追ってみたい。まずは自然状態に関してである。
「人間の自然状態は社会の状態である。というのは、人間は社会のなかに生まれ、養育される。美しい青春の目覚めという衝動が人間を社会へと導くからである。また、人間のもっとも甘美な名である父、子、兄弟、姉妹、友人、扶養者は、いかなる原始的な社会においても見いだされる自然法の紐帯だからである。」(5) ホッブズの捉えた自然状態が、万人の万人に対する闘争場であったのに対し、ヘルダーにおいては「人類の自然状態は戦争ではなく平和である」(6)と捉えられていた。かれの理解する自然状態は平和な社会であり、父子・兄弟姉妹等の家族のことだった。家族は「人類のあいだにおける最初の統治」(7)であり、「自然的統治の第一段階」(8)と捉えられた。
家族を基点として次に考えられたのは、漁民、牧人、猟師といった経済的生業集団だ。家族が生活するには何らかの労働を必要とする。この段階が、「自然的統治の第二段階」(9)であった。ここでは孤立した家族ではなく、経済的な現実性を意識した家族集団、多数の家族間の協同集団が考えられた。ヘルダーはこれについて部族社会を念頭においたのであろう。この段階で人地の指導者すなわち王があらわれる。この王とは族長のことだったと推察される。この場合、王たる者は、「自由な推薦と事業の共同の目的のためにのみ服従する。(中略)事業とともにまたその支配権は終了する。」(10) ヘルダーの視座では明らかに契約が考えられており、王=族長の支配権は世襲的でなく一代限りと捉えられていた。
しかし、最後の段階になると、「世襲的統治」(11)が登場する。そこに現れるのが国家である。そこで、われわれの次の検討課題は世襲的統治=国家となるが、その前に、ヘルダーの「自然状態」=原始社会の捉え方、その歴史的、実証的把握について、ナショナルなものとしていま少し検討することにしよう。
註
1.Herder, Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit, ibid., S.340. 訳出にあたっては田中・川合両氏の訳を参考にした。
2.Herder, ibid., S.341.
3.Herder, ibid., S.340.
4.Herder, ibid., S.341.
5.Herder, ibid., S.375. ヘルダーの自然状態論は、ホッブズのそれともルソーのそれとも異なっていたと言えよう。小笠原弘親・白石正樹・川合清隆『ルソー 社会契約論入門』有斐閣新書、1978年、によれば、「ルソーにおいて、自然状態は人間が歴史過程のなかで獲得してきた人為的な能力や情念を捨象して得られる人間の状態を意味しており、従ってそれは歴史形成に先立つ状態として位置づけられています。その意味において自然状態は歴史を超えた状態であり、それが歴史上存在したのかどうかは問題になりません。」(28ページ) 上記著作(28ページ)によれば、ルソーの自然状態論は「仮説的で条件的な推理」だったのに対し、ヘルダーにおける自然状態は、歴史的・実在的・具体的・実証的な有様と捉えられているのであった。
6.Herder, ibid., S.322.
7.Herder, ibid., S.375.
8.Herder, ibid., S.375.
9.Herder, ibid., S.376. これに関連して、ヘルダーはこう表現してもいる。「食物の欠乏は人間を労働へと、社会へと法律制度に対する服従へと目覚めさせなければならない。」(ibid., S.376.)
10.Herder, ibid., S.376.
11.Herder, ibid., S.376.
12.Herder, ibid., S.377f.
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