倉塚平先生を偲ぶ2 倉塚平さんの人と学問―人間の解放を求めて
- 2012年 6月 28日
- スタディルーム
- 倉塚平松沢弘陽
私の報告を明治大学政経学部のお二人への感謝から始めたい。生方卓さん(以下敬称略)には、去年の夏頃から今日まで、会の構想を練り、案内の発送・会場の準備から会の後の懇親会の手配にいたるまで、細大にわたって取りしきっていただいた。高橋一行さんは、『政経論叢』(67巻1・2号)を「倉塚平教授古稀記念論文集」として編集され、詳しい年譜・業績目録を作られた上、倉塚さんの研究と学者・知識人としてのプロフィールを描く生き生きしたエッセイを記された。私は去年の六月から、高橋さんのこのお仕事のコピーを絶えず参照して、今日の報告の準備を進めて来た。
生方さんは、今日の三人の報告の主題についてよく考えたテーマを示された。ただ私に与えられた「倉塚平氏の学問―政治思想史・宗教改革史研究を中心に」は、私には荷が重過ぎる。私は日本政治思想史の研究者だが、倉塚さんが力を注いだヨーロッパの宗教改革史研究を正しく紹介することは荷に余る。ただ彼とは学生時代から親しく、彼を激しく衝き動かした学問への動機と情熱を知る機会に恵まれた。生方さんのお許しをえて、タイトルをこのように変えさせていただいた。「倉塚平さんの人と学問」の「人」は、人物論ではなく学問への動機、具体的にはサブタイトルの「人間の解放を求めて」を意味する。
Ⅰ章 エピソードいくつか
私の心に残る倉塚さんのいくつかのエピソードを導入部として、私が理解する彼の学問への動機を紹介し、それをもとにⅡ章では倉塚さんの学問の特質をとらえたい。
1 学問を職業として選んだ頃
1950年代後半、倉塚さんが6・7年にわたる教科書出版社に勤めながらの学問を打切って学問に専念する道を選んだ頃のことである。この選択は彼にとって大きな冒険であり危機だったろう。彼より一と足早く大学の助手になっていた私の下宿に倉塚さんが訪ねて来た。仕事を辞めて生活が困難なので、一晩泊めて飯を食わせてくれという申入れである。もちろん引受けて狭い部屋に泊ってもらい、多くを語りあった。その中で心に残ったのは、倉塚さんが「私のようなものでもどうかして生きたい」という島崎藤村の『新生』の主人公のことばを引いて、「僕も全く同じ気持ちだよ」と思いを語ったことだった。「どうかして」はおそらく木曽の方言で「何とかして」あるいは「何とでもして」といった意味だろう。藤村は妻を亡くして、男一人で二人の子を育てる間に手伝に来ていた姪を妊娠させ、この事実にどう向きあうか苦悩する。「私のようなものでもどうかして生きたい」は、藤村のその懊悩の中の呻きのようなことばであり、「新生」は、「どうかして生きたい」という生の方向を示していた。私は倉塚さんの口から、『新生』の中の思いつめた告白のことばを聞いて、彼の思いが説明ぬきでひしひしと伝わるように思った。彼はもちろん藤村のように性の過失に苦しんでいたわけではない。倉塚さんも私もマルクス主義者として体制の変革を志していた。しかしその自分自身が体制の悪に内面から蝕ばまれている。その惨めな姿から何とかして解放され、新しく生れたい、そういう呻きを倉塚さんと私は共有していたのだった。
その頃、私は白山下の辺に下宿していた倉塚さんを訪ねたことがあった。彼も私も丸山眞男の論文「福沢諭吉の哲学」(『国家学会雑誌』第61巻第3号、1947年9月)にとらえられていた。戦後社会で丸山に惹きつけられた人の多くは、彼の論文「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月)によってだった。それに対して倉塚さんや私は「福沢諭吉の哲学」の中にいわば「新生」の具体的なかたちを読み取ったのだといえるだろう。丸山は福沢の「哲学」を分析して、その中に近代の自由な主体的人間類型を示している―倉塚さんも私もそのような人間類型を目ざしたいと願ったのである。そのとき彼は私に、この論文の中にどうしてもわからない所がある。丸山さんに会った時にそこの説明を聞いて欲しいと求めた。私はこの点でも彼と同じ感想をもっていたので、二人の問いを丸山にぶつけた(問題の詳細は省く)。丸山の答えははっきりしていて、「その問題は宗教に関わって来る。あの論文は学問の論文として書いているので、宗教の問題にふれる前の所でとどめたのだ」ということだった。倉塚さんの「福沢諭吉の哲学」への熱中はおそらく彼の学問のその後に長くあとを記したのではないだろうか。特定の指導教官について学ぶことをしなかった彼が、学者の中で尊敬の念をこめて語っていたのはおそらく丸山だけだったし、彼を中心に集った研究会には倉塚さんも出ていた。丸山の没後東京女子大学に設けられた丸山眞男文庫には、倉塚さんから丸山に贈られた書物や論文の抜刷が残されていた。また戸塚秀夫さんによれば、倉塚さんが生涯を終ったケア・ハウスの部屋には丸山の著作(『丸山眞男集』全17巻、か?)が並んでいたという。
2 韓国民主化闘争を支援して―コミットメント・闘争の担い手のエートスを問う・闘争支援と朝鮮キリスト教史研究
私が1960年に北海道大学に勤めてから倉塚さんに会う機会は少くなった。その中で彼から強い刺激を受けたのはやはり倉塚さんの1970年代を通じる韓国民主化闘争支援への献身だった。この運動については最も近い盟友の和田春樹さんが重要な証言をされると思うので、私は自分が倉塚さんから受けたことがらについてだけ簡単に触れる。
私の手もとには、おそらく1973年12月に書かれたと思われる彼の手紙がある。それは、「全く奇跡的といっていい」事情が幸いして、11月下旬、ソウルで日韓教会協議会と国際キリスト教会議に出席できたこと、苦境の中にいる大学から追放されたクリスチャンの教授や三・一宣言の被告を支援するため大規模な募金を始めていること、北大でも私が発起人になって募金をするようにという訴えなどが縷々記されている。欄外に私の字で倉塚さんにとっての李愚貞女史たちの畏敬の念に満ちた印象が記されているのは、おそらく別な機会に彼から聞いたことを書き込んだのだろう。たしか74年の夏には、出京して倉塚さんと同じ東久留米に住む母の家にいた私は、彼に呼び出されて西武池袋線の東久留米駅で会っている。用件は、韓国の運動に届けなければならない文書がある、自分は行けない(ビザが出ない、あるいは行けば逮捕される。記憶が定かでない)から君がかわりに行ってくれという頼みである。倉塚さんとの友情を考えれば断われない、しかし行って捕まれば、大学を辞めなければならないだろう、考えさせてほしいといって別れたような気がする。倉塚さんの話はそれ切りになったのだが、それは文書を届ける必要がなくなったのか、あるいは松沢頼むに足らずと思われたのか、今でも倉塚さんとの交わりを思う時、自分の態度を問う問題の一つである。その後も民主化運動の中心であった『東亜日報』を支援するために、日本で購読しようという呼びかけがあり、私もハングルに混る漢字を拾い読みする購読者になった。こうしたことがらだけでも、私にとって倉塚さんの韓国民主化闘争支援への深いコミットメントを知るには十分だったが、私はなお、彼の活動には彼ならではの特徴が現れているのにも気付かされた。第一に倉塚さんは、運動を共にする韓国側・日本側の同労者を無条件に、また全面的に肯定してはいなかった。目標を共通にする人々の個人としての振舞いやエートスについて彼は時にきびしい批判を口にすることがあった。第二にそれ以上に著しいのは、ここでも、倉塚さんの運動は、運動べったりではなく学問と結びついていたことである。先に引いた手紙に彼は「韓国教会の(―おそらくM・ウェーバーの)宗教社会学的問題について、いくつかの分析のヒントもえました」と運動の収穫を記す中で書いている。田口富久治ほか編で刊行された秋永肇教授古稀記念論集『現代民主主義の諸問題』(御茶の水書房、1982年)に寄せられた開拓的な力作論文「朝鮮キリスト教とナショナリズム―三・一運動に至るその結合過程について」は、この着想の結実と考えて間違いないだろう。
3 学問の根本動機―体制の変革と自己の変革 学問を通して考え抜く
学問を職業とする選択に踏み切って、生活の面でも、精神的にも苦闘する倉塚さんとの会話から私は、彼を学問に衝き動かすものにふれたと、その頃も今も考えている。倉塚さんはマルクス主義者として体制の変革を志した。しかし体制の変革は、それを遂行する主体である自己の吟味、そして体制の中に填め込まれた自己のそこからの解放と結びつかねばならない、と考えたのであろう。そして、変革の政治的運動に没入すれば、そのような自己吟味と自己変革を徹底して行なうことが困難になろう。学問という営みを通ることによって、いわば迂路を経ることによってそのような自己吟味・自己変革を徹底的に行えると考えたのではないか。それでは倉塚さんはどういう学問のどういう分野を選んだのだろうか。
Ⅱ 学問の主題と研究の特色―先端性・論争性と堅実な論証との結合
倉塚さんの学問には、しばしば対立するこの二つの面が結びついていた。1と2では彼の学問の発展を四つのステージ(1と2のアイウ)を通って発展したと理解し、それを跡づけたい。
1 模索
倉塚さんが出版社に勤めながら学問にとりくんだ時期。とりあげる主題は多様だが、全て同時代の問題を直接に取上げる。「日本社会主義思想史における政治主体の形成とその問題性」(『歴史学研究』1958年5月)、「コミューン的結合原理の生成と展開―人民公社試論」(『歴史評論』1960年、4、6月)等々。
2 20世紀後半の社会主義・ラディカリズムにとっての16世紀宗教改革
1960年代に入るころ大きな転機が訪れる。学問の主題は同時代から一転して16世紀の宗教改革に移る。私は倉塚さんが出版社を辞めるという冒険にふみ切ったのは、宗教改革というそれまでとは比べられぬ大きなテーマを予感したからではないかと想像するのだが、重要なのは20世紀の社会主義と革命を16世紀の宗教改革とどのように関連づけるかである。16世紀と20世紀の世界史的な出来事とを関連づけてとらえるのは、M・ウェーバーやH・ラスキの例を始め珍しくない。倉塚さんの場合著しいのは、20世紀後半の社会主義―スターリン体制やスターリニズム的運動に凝縮されるような退廃が露わになっている―と正面から向きあっており、そのことが宗教改革研究の視点と注目する局面を独自のものにしていることである。彼の宗教改革研究の出世作というべき力作『異端と殉教』(筑摩書房、1972年)のあとがきでは、このような視点が、宣言的な形にまとめられている。
ア ジュネーヴ神政独裁
この方向が始めて明らかな形で提示されたのはおそらく論文「カルヴィニズムの成立」(『岩波講座 世界歴史14』1969年)においてだろう。『岩波講座 世界歴史』は、きわめてアカデミックで、各分野のすぐれた研究者を選んで書かせている。倉塚さんの論文はその中で、ドイツにおけるルターの宗教改革を扱う論文の後、英国の宗教改革論の前に据えられることによって、彼のカルヴィニズム論の特質をきわ立たせ、このⅡ章の表題として掲げた先端性・独創性と堅実な論証という両面の結びつきを浮かび上らせている。この論文の原型となったのはおそらく『政経論叢』に1960年から65年にかけて四回にわたって連載された「ジュネーヴ神政独裁の理念と形態」だろう。『世界歴史14』では、タイトルはずっと控えめになっている。しかし、この論文の先端性・論争性は、紛れもなく明らかである。それまでカルヴィニズム研究はもっぱらカルヴァンの教義の説明であった。それに対して倉塚さんは、「革命独裁における思想の変革」が視点だと明言し、カルヴィニズムの「神政独裁」をフランス革命の恐怖政治・スターリン独裁・中国革命・キューバ革命と対比し、カルヴィニズムのヨーロッパ大陸各地とスコットランドへの伝播をロシア革命における革命の輸出と比較する関心を示唆する。このような関心から論文は、権力による大衆的規模での思想変革がいかに思想的退廃をもたらさざるをえぬかを刻明に描き出す。これは、それまでのカルヴィニズム研究に対する真向からの挑戦といえよう。しかもこの論文はそれまでのカルヴィニズム研究史と第一次資料を徹底的にふまえており、あげられた詳細な文献リストとあいまって、この論文の前に配置された、ルター主義宗教改革論を凌ぐ学問的な重厚さを示しているのである。
イ ‘radical reformation’(宗教改革急進派)・「心情的ラディカリズム」・『異端と殉教』(1972年)
倉塚さんは1969年のこの論文に先立って、1967-69年には西ドイツミュンスター大学に留学していた。それは彼の関心がすでに、ルター主義やカルヴィニズムの中から、その主流に対する不満につき動かされていわば鬼子として生れた、研究史の概念では‘radical reformation’に向っていたことを示す。ミュンスターはその運動の重要な舞台だったのである。宗教改革におけるラディカル・リフォーメーションが注目されるに至ったのは、1960年代に入って、ヨーロッパと米国においてである。倉塚さんの研究は二重の意味で先端的・論争的だったといえよう。第一に、ルターとカルヴァンの神学の研究に比重が高いそれまでの宗教改革研究に対して、その異端として生れたラディカル・リフォーメーションの社会史に注目した。第二に、ラディカル・リフォーメーションに注目する場合にも、日本の宗教改革研究者・西洋史家の間では、ラディカル・リフォーメーションを宗教改革の徹底化として、それを高く評価する傾向があったのに対して倉塚さんは、ラディカル・リフォーメーションに注目した初期から、この運動の歴史的意味の評価ではきわめて批判的だった。ラディカル・リフォーメーション研究をまとめた『異端と殉教』のサブタイトルは「宗教改革における心情的ラディカリズムの諸形態」である。それはおそらくウェーバーの「心情倫理」を踏まえているだろう。倉塚さんのことばでそれを敷衍すれば、「自己の魂の純粋性を固く信じた」―歴史の中での「未来への展望をもたぬ既存のもの一切に対する全面否定」(ミュンスター千年王国について/『異端と殉教』p.44)である。ここからは、古い歴史を突破する力は生れない。退廃し自滅に終わる。厳しい評価である。この本でも倉塚さんは、ラディカル・リフォーメーションをフランス・ロシヤ・中国の革命と比較する(同、p.4)。しかしこの本の原型が1970年1月から71年1月にかけて四回にわたって『展望』に連載されたことを考えると、彼の中には、1968年以降の全共闘運動・新左翼のラディカリズムに対する批判があったと想像しても不自然ではないだろう。
ウ
倉塚さんの研究は、1980年代に入ると『異端と殉教』の一つの章でとり上げた、1533-34年にかけて、宗教改革急進派の中で唯一つ都市権力を握ることに成功した北西ドイツの中世都市ミュンスターに猛威をふるった千年王国論に集中する。千年王国論は、黙示録的な終末論の一つの形であり、この世の終りに十字架にかけられたキリストが再び地上に現われて千年間支配し、その後神の国が始まるという教義である。1534年がキリスト再臨の年、再臨のキリストはミュンスターに現われるといううわさが流され、その宗教的熱狂の中で急進派がミュンスターの都市権力を掌握した。しかし皇帝派軍隊によって包囲される絶望的な状況の中で、世の終りに備えるという教えは倒錯し、財産の共有から一夫多妻制―男は誰でも何人でも妻を持ってよい―というデマゴギーにまで頽落した。こうして、あらゆる男による女狩りという狂宴の中で、包囲軍によってほとんど全滅して、ラディカル・リフォーメーションは惨劇の中で歴史から姿を消した。民衆的急進的運動が惹き起した宗教改革の最も醜い汚点として古くから非難されてきた出来事である。
倉塚さんは、この悲劇の実態を解明するために、三回、合計五年にわたってミュンスター大学とハイデルベルク大学で現地調査と研究に専念し、成果の一部が先ず「ミュンスター千年王国前史」として1978年から82年まで八回にわたって『政経論叢』に連載された。私が倉塚さんからいただいた抜刷の合冊は合計530頁、膨大な注と一次資料が付されている。2002年刊行の『千年王国の惨劇:ミュンスター再洗礼派王国目撃録』(平凡社)は、研究の到達点といえよう。包囲下の狂熱を巧みに生きのびた親方職人が、惨劇の日々を書きとめたこの上なく貴重でこの上なく読み難い記録の翻訳である。
3 基礎から周到に積み上げる
以上、倉塚さんの宗教改革史研究を駆足で辿りながら、研究の先端性・論争性と研究の堅実な実証性に目を向けて来た。以下Ⅱ章の3では、その後者に絞って三つの面から考えたい。
ア ことばへの精通
ヨーロッパ全土にわたり、中世末期から16世紀中葉に及ぶ、原史料とそれについての研究文献を分析するには、ことばの習得が不可欠なことは、自明といえるだろう。私がこの面での倉塚さんの努力と達成に今さらながら目が開かれたのは、報告の準備のため倉塚さんの仕事を読む中でだった。彼は、宗教改革史研究にとりかかった始めの時期、1964年から66年にかけて、この分野の重要な研究書三冊を次々に訳している。二冊は英語、一冊はフランスの社会史の大家アンリ・オゼールの『プロテスタンティズムの生誕』(未来社、1966年)であり、私は今回始めて読んだ。倉塚さんがフランス語を勉強したのは、1959年に明治大学の助手になってからだろう。それから七年も経てば、本の一冊訳すくらい難しいことではないという考え方もあるかもしれない。だが3-ウでも考えるようにこの翻訳は並の仕事ではない。この本には膨大な解説がついており、そこではフランスにおける宗教改革史の研究文献と史料の驚くべく包括的なリストが示され、またオゼールという社会史の大家の、宗教改革史研究に限らぬ仕事全般についてのサーヴェイがされている。私は一冊の翻訳のためにこれだけのことをこなしたフランス語の力に驚いたのである。さらにドイツ語。フンボルト財団の給費生に二回も選ばれるという事実が彼のドイツ語の力のほどを証明しているだろう。彼はこの力で研究成果をドイツ語で発信しただけでなく、韓国民主化闘争についてドイツ語圏のメディアによって訴え続けた。しかも近代ドイツ語だけではない。先に紹介した『千年王国の惨劇』は、16世紀ミュンスターの庶民のくずれた癖のあるドイツ語の解読である。また宗教改革にかかわった牧師たちの文書にはラテン語で書かれたものが少くないが、それも訳出して引用している。韓国民主化闘争支援の中から生れた朝鮮プロテスタンティズムの研究にはハングルの資料も駆使している。これだけの言語への精通は、倉塚さんの研究を手堅いものにした基礎的条件の第一だったといえよう。
イ 「戦略の要衝」的文献への注目
「戦略の要衝」―英語ではstrategic point―に当る、研究史の動向の中で重要な位置を占める文献とりわけ新しい研究方向を打出すしっかりした文献を逸早く見抜きそれに集中する。倉塚さんはこの能力が抜群だった。もちろんそれは不断に多くの研究に目くばりする中で養われた能力だったろう。その最もよい例は、『思想』(1973年9月)に「再洗礼派の権力観」として載せられたJ.M.Stayerの前年に出た本の紹介である。倉塚さんはこれを機としてStayerと学問的親交を結び、彼の献呈論文集に寄稿するまでになるのである。
ウ 研究史、個々の研究者の全業績を踏まえる
すでにのべたことは、倉塚さんの新しい研究動向への感度の高さが、先行研究の広い渉猟をくぐって養われたことを示唆している。最近のポスト・モダン的な研究の中には、研究者の「オリジナリティー」をきわだたせるために先行研究との差異化に力を入れ、そのために先行研究をよく理解する労を惜んで簡単に切捨てる傾向が、往々見られる。倉塚さんはその逆で、彼の重要な論文・書物には、多くの場合詳細な研究史―驚くべく広く目くばりし、さらに対象とする研究者についてはその人の労作を当該の研究分野の外までこれまた包括的に目くばりした―が付されている。その意味で倉塚さんの研究のスタイルは、あるいみで古風な反時代的ともいいたくなるほどオーソドックスだといえよう。彼は研究者養成の制度を通過しない、その意味で独学の人だった。しかし彼の学問は、学問の先人との広く深い交わりの上に育まれ、その豊かな学びをバネにして先人を越えて進むものだった。
Ⅲ 倉塚さんの学問の軌道
1 阿修羅のごとく
最後に1950年末から2002、3年まで、20世紀後半から21世紀の始めにわたる倉塚さんの学問活動の軌道を総括し、彼の多産な学問活動を突き動かした動機についてもう一度考えて見たい。高橋さんが編まれた「古稀記念論文集」の「研究業績」には5ページにわたって、倉塚さんの著・訳書、論文等が挙げられているが、今回倉塚さんの仕事を読む中でこの綿密な業績リストにもなお、洩れがあることに気付かされた。また彼の研究生活を締め括る大きな訳業『千年王国の惨劇』が刊行されたのは、定年退職後、75才の年であり、これは当然高橋さんの業績リストには入っていない。倉塚さんは学者としてきわめて多産だったといえよう。これらの著作や私へのいくつかの手紙からは、彼が講義やゼミナールと併行して、さらに韓国民主化闘争支援などにも力を注ぎながら、息つくいとまもなく論文を書き本をまとめてゆく姿が浮かんで来る。かつて国際的な旧約学者関根正雄氏について「阿修羅のごとく学問をおし進めた」という評を送った人がいたけれども、今回倉塚さんが遺した仕事の一部をたどっただけでも、その量と内容とに圧倒されて、彼もまた「阿修羅の如く」学問を進めたのだという思いを禁じえない。
2 ピューリタニズムのみが人権思想を、カルヴィニズムと人文主義の結合を
その倉塚さんの学問の軌道をたどると、一つの特徴が見出される。彼は16世紀の宗教改革が、ある意味では20世紀の革命以上に人間の心を深くとらえた民衆的規模の変革運動だという。その宗教改革について倉塚さんは、彼としては批判の対象とせざるをえないネガティヴな面へと研究を絞ってゆく。1960年代のカルヴァンの「神政独裁」研究。1970年代の宗教改革急進派研究ではさらに批判的で、人間の歴史に残すものが無かったと言い切る。1980年代以降に集中したミュンスターの千年王国運動研究は、早くから宗教改革の汚点とされ来た惨劇の実態を徹底的に調べ上げたものだった。20世紀の革命との対比を動機として宗教改革に迫り、しかも20世紀革命の負の面との対比で宗教改革の負の面に集中する―倉塚さんの研究は日本における宗教改革研究の中ではきわめて異色だったといえよう。
それでは、倉塚さんは宗教改革とその周辺の運動のどこにポジティヴな意味と可能性を見出そうとしたのだろうか。彼の著作の中の断片的な記述がそれをうかがわせる。そのいくつかをとりあげよう。倉塚さんは17世紀英国のピューリタニズム―それは英国における宗教改革の不徹底への反抗から生れた―からは宗教改革急進派からはついに生れなかった人権の思想が形づくられたと云う(『異端と殉教』p.242)。大陸の宗教改革については、カルヴィニズムだけが古い歴史を突破する歴史形成力を備えていたと彼は説く(同上、p.249)。明確な目標を定め、それに向って戦略・戦術を組み立て、鉄のような意志でそれを強行する―そこに独裁が生じる。倉塚さんはそれに加えて、そのような変革を遂行する主体が、同時代のユマニスム(人文主義)と結びつくことが出来たらば、ユマニスムは変革を遂行する自分自身をつき放して笑うユーモアと醒めた理性を生んだであろうと言う(同上、p.250、なお参照、前掲『プロテスタンティズムの生誕pp.168-170、フランス宗教改革におけるユマニスムの問題について、前掲「カルヴィニズムの成立」pp.381-83)。しかし倉塚さん自身は、ユマニスムについて学ぶことはなかったし、ピューリタニズムを研究対象にすることもなかった。またある所では、「社会制度の変遷を超えてなお生き続ける一神教固有の執念深さ」(同上、p.11)に批判の鉾先が向けられる。
3 学問の原動力 人類の運命への憂慮(『ユートピアと性』1990年、あとがき、「戦後五十年の民主主義」松沢への私信、1999年)
宗教改革を研究の主題としながら、そのネガティヴな面に集中するという学問的な営みは、それを担う倉塚さんにとって精神的な負荷が大きくストレスがたまるものだったのではなかろうか。倉塚さんをそれに耐えさせ研究を続けさせた原動力は何だったろうか。この大きな問題に私は今答える用意がない。ただ恐らく人間の解放という学問生活の始めに語ったことがらが、一貫して彼を支え、衝き動かしていたのではないだろうか。そして長い研究生活を通して人間の変革、人間の解放をめぐる彼の思索は深まっていったように思われる。研究が進むにつれ倉塚さんが考えるようになったのは、人間の欲望―彼のことばでは「エゴイズム」―を、国家権力により、教会により、あるいは小規模の「コンミューン」において根こぎにする、その意味の「人間変革」は不可能だという見通しである。そのような不遜な企ては、ことごとく、それが目指すものの反対物に堕落したではないか。それでは、市場原理と快楽主義は勝利するだろうか。それは自然破壊と第三世界の破滅によって報復される。この困難な隘路を越えるだけの「新しい発想と構想力はまだ充分に生み出されていないように見える」。これが、1989年から翌年にかけ、東ドイツと東欧の社会主義国家の雪崩をうった崩壊を眼のあたりにした倉塚さんの感慨である(『ユートピアと性』(中公叢書、1990年)、「あとがき」pp.306-07)。1950年代の終り、30才前後の学問生活の転機に、島崎藤村の言葉に託して訴えた人間の解放と体制の変革への希求は、40年にわたる研究と市民運動の中で人類の運命への憂慮に深まったのだといえよう。課題が大きくなったそれだけ解決への展望も容易に開けない。それは倉塚さんの心を重くしただろう。そのような中でも彼の心に訴え行動へと促がすことがらがあったように思われる。1999年、私が倉塚さんとの共通の友人藤田省三と共同で『朝日』の「声」欄に「君が代」国歌化に反対する投書を送った折(「「君が代」解釈文化の冒とく」7月7日掲載)、彼からただちにハガキが来た。「私も全く同感です。……われわれの戦後五十年、民主主義の名のもとに歩いてきた人生が、ここで消されてしまうのかという気持ちになって、定年後の人生がいちだんと冷え冷えしたものになるのではないかという気がしています。私もなにか最後の力を出さなければならないという気になっています」。こう書いて来た倉塚さんはなお仕事を進め、2002年には力を振り絞った最後の大作『千年王国の惨劇』を刊行された。翌2003年3月、切迫する米軍のイラク侵攻に反対するデモが盛り上る中で私は彼に電話をし、一緒に行きませんかと誘った。デモは大きければ大きいほど動かずに立ちどまっている時間が長いから、イラク侵攻反対の意思表示に加わりながら久し振りのおしゃべりを楽しめれば一石二鳥ではと、かえりみれば暢気なことを考えたのである。それに対する倉塚さんの返事は、精神的に調子が悪い、と現在の生活状況や徴候を訴えるものだった。私は驚いて、デモは私一人でも行けるから、とに角会いませんかと提案し渋谷で昼食を共にした。倉塚さんの様子をうかがって私は、一月に一回くらいは会って楽しいおしゃべりをすることにしようと考えた。心の病いと健康について素人の私が出来ることは限られている。しかし定期的に食事を共にし、愉快な話をし大いに笑うことは、私にも出来る副作用のない看取りではないかと考えたのである。事実私がそのように考えた年長の友人は倉塚さんのほかに、倉塚さんとの共通の友人を含めて二人もいたのだった。しかしそう考える中に電話にも応答がなくなった。お嬢さんの話では入院され、訪ねても私とは判らないだろうとのこと。気にかかるままに一年間の外国滞在に出かけ、帰国後も仕事に追われるままに倉塚さんを見舞うのを怠っていて戸塚さんから永眠の報告いただくことになってしまった。あまりにも友達甲斐がないではないかという自責が、戸塚さんに応えて記念の会に加わり、報告の一つを引受けるよう促した。そして報告のために読み返した倉塚さんの仕事が、長くつきあいながら近さと親しさに甘えて見ることが出来なかった彼の熱い志と大きな達成の姿を開示してくれた。私になお与えられている限られた年月の中で倉塚さんが遺してくれたものを心にとどめて働らきたいと願う。
(「偲ぶ会」での報告に加筆しました。倉塚さんからの私信の引用については、長男真樹さんの承諾を得ました。2012年5月16日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study521:120628〕
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