65年目の夏に思う─ある母と子の死
- 2010年 8月 14日
- 時代をみる
- 鈴木顕介
65年目の暑い夏が巡って来た。あの日は今年の夏のように暑かった。旧制中学3年生、14歳、戦争終了の天皇の声を学徒動員先の宿舎で聞いた。航空機用のアルミニュームを生産していた日光の古河電気への動員。工場配置前の錬成と、今市の外れの鬼怒川沿いで荒地の開墾をしていた。あの日は極度の疲労で、作業を免除され宿舎として徴用された鬼怒川温泉ホテルに留まっていた。山間部でラジオの受信は悪く声は途切れ途切れ、辛うじて耳に捉えた「耐え難きを耐え、忍びが難きを忍び」の下りで敗戦を知った。
首筋の生え際と足のくる節の周りにできたおできは栄養失調の兆しだった。あの戦争が年末まで続き、あの飢餓状態の食事での工場労働、燃料ひとつない日光の冬の寒さに襲われたら。米軍の本土上陸による戦闘でなくても、今日の私はいなかっただろう。東京大空襲、火炎の烈風に逆らった脱出で危うくつなぎとめた命だったが。
今年も夏の年中行事化した「終戦」関連企画で、紙面も、テレビ画面もにぎわっている。中でもNHKは戦争の伝承に狙いを定めていると受け取れる。実際の戦場で殺し、殺された体験を持つ人々はすべて人生の最終コース。よくお元気でと思われる証言者の姿に、この方々が伝え残したいと思う事ごとも、遠からぬ先に消えてゆくことを思う。被害の体験しか持たないわれわれの世代も、すぐにその後に続く。
戦争が遠い昔のおじいさんの時代の物語となってしまった若者たち、NHKの番組はこの世代を招いて、戦争を考える企画に取り組んでいる。テレビの画面に登場する若い世代は、それなりに全うな反応を示す。戦争の記憶の伝承はできるかな、と一瞬思わせる出来栄えといってよいだろう。
だが、今までに出会って言葉を交わした若い世代の中には、日本がアメリカに占領されていたことに驚き、「アメリカと戦争をしたの」という問い返しすらある。なぜそうなのか、論じられて久しいが、ここではそれに多くを割かない。
間違いなく言えるのは、体験を、体験しなかった世代に伝え、共有してもらうことの難しさだ。聞いたことを自分の記憶に取り込むには、人々は自分の体験の範囲の中で物語を消化する。生の映像は語りと文字よりも、そこにいなかった人々を疑似体験の場に引き込む力を持っている。13日夜のカラー化した第2次世界大戦の映像を下敷きとした番組はその好例だろう。あえて但し書付きで数多くの生々しい遺体の場面が繰り返された。これが戦争の実像なのだと。
長々とここまで書いたのは、文字で伝えることの難しさをじゅうじゅう知りながら、それでも文末の一文を65年目の日に当たって、このサイトにアプローチして下さる方々にお読みいただきたかったからだ。東京大空襲で死んだある母子の姿の記録である。
それは「東京大空襲を記録する会」の「東京大空襲・戦災誌」の第2巻に載っている。「記録する会」は1970年8月に発足、74年3月までに5巻の記録を発刊した。それぞれが1000ページかそれを超す大著で,当時の美濃部都政の全面的支援で初めて実現した記録である。第1巻には被災地の町別に生存者400人の手記が、第2巻には東京大空襲を含め東京が空襲にさらされた全期間の被災者、目撃者の手記452編が収められた。
編集委員会の「刊行にあたって」からその発刊の趣旨の一部を引用する。
昭和20年3月10日の空襲は、推定10万人の生命を奪い、約11万人の人々を傷つけ、一夜にして家を失った都民の数は100万人を超えた。僅か2時間余りの爆撃によって、全都の4割がことごとく灰燼に帰したのである。広島、長崎に投下された原子爆弾による被害に匹敵する大惨事であったといわねばならない。
4半世紀の星霜が流れていた──戦争を知らない戦後世代の数は、国民の過半数に近づき、痛ましい戦災の傷痕は、歳月がもたらす風化とともに、危うく歴史の外に置き忘れられようとしていた。「戦争」というそれ自体の過ちの上に、さらに私たちは、その過ちを「忘却」のなかに葬る、という二重の過ちを犯そうとしているかにみえた──(中略)
あの空襲・戦災体験を、決して「忘れまい」とする人々が、一人、二人、と筆を執りはじめていた。…..長い歳月も、ついに消し去ることができなかった「あの時」を書き綴り、書き残しておこうとしたのは、戦争の暴虐を再び許してはならぬ、という堅い、堅い決意のほかの何ものでもなかったのだ。
850を超す手記はいずれも重く、読むものに迫る。東京大空襲を生き延びた私にとっては、目で見た情景と、鼻でかいだ臭いをよみがえらす。次はそのなかで最も短い『東京被爆記』(朝日新聞刊)からの転載である。
ある母の遺体
学徒兵 一八歳 須田 卓雄
三月十日から三日目か四日目であった。永代橋から深川木場方面の死体片付けに従事していた私たちは、無数と思われるほどの遺体に慣れて(恐ろしいことだが)、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じた異臭にも、焼けただれた皮膚の無残さにもさして驚くこともなくなっていた。
夕方近く、路地と見られるところで発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。頭髪が焼けこげ、着物が焼けて、火傷の皮膚があらわなことは、いずれとも変わらなかったが、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。着衣から女性と見わけられたが、なぜ、こうした形で死んだのか。
その死体は赤ちゃんを抱えていた。さらにその下には大きな穴が掘られていた。母と思われる人の一〇本の指には、血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。どこから来て、もはや、と覚悟をして、指で硬い地面を堀り、赤ちゃんを入れ、その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物は少しも焼けていなかった。小さなかわいいきれいな両手が、母の乳房の一つをつかんでいた。だが、煙のためか、その赤ちゃんも、すでに息をしていなかった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1030:100814〕
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