政権交代の終わりと始めなければならぬこと
- 2012年 6月 29日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
政治家殺すに刃物はいらぬ。スキャンダルがあればいい。スキャンダルといえばカネと女《男》である。「政治とは敵を殺す」ことである、とはあまりにも有名な埴谷雄高の言葉である。殺すことは政治生命を奪うことであり、直接に殺さなくてもよい。殺し方はさまざまであるし、その手段や方法は現在では巧妙になっている。ありもしない事件を仕立てて裁判に持ち込み政治的に監禁してしまうこともその道である。家族関係や男女関係を暴き打撃を与えることもその方法である。権力の政治的所業はみずから手を汚さずにやることは巧妙になってきても、政治敵を殺すという本質は変わらないのだ。あたかもアメリカの無人の戦闘機が人を殺すという戦争の本質を変えなかったように。僕らはこういう政治そのものを変えるためにこそ政治を志向しているところがあるが、政治の惨憺たる現状を前にしてこれを変えることはあり得るか、と自問する。答えは政治を見識やビジョンというところに立たせる以外にないということだ。
政権交代を人々が望み、期待したのは政治がそこへ近づくことを期待してのことだった。日米関係の見直し、官僚主導政治の転換、生活第一の政治へという政権交代の大きな枠組みは日本の戦後の政治の変革を含むものだった。政権交代後の民主党の政治はこれをことごとく裏切り、官僚主導政治を復権させる道だった。6月26日の自・公・民の野合による消費増税法案はその象徴である。この官僚主導政治の背後にはアメリカがあり、その巧妙な日本統治がある。原発再稼働もここに加えてもいい。野田首相の原発再稼働にはアメリカの意向もある。この根源には壊れて行く現在の社会や制度に対して既得権益に固執する側からの防衛がある。それは保守というよりは反動であるが、それがアメリカと通じた官僚主導政治の復権の本質である。政権交代が含んでいた政治ビジョンを変質させ、官僚を軸に政・財との連携に走る姿を誰が想像したか。しかし、これが現実であり、ここから次の政治が始まっていることを直視しなければならない。即ち、それは官僚を隠れた主体にした連立政権と財界による強権政治の開始だ。それは政敵の排除がより露骨になっていくことでもある。そのための治安的法案を準備している。政権交代後の野合政治は強権政治の開始の第一歩である。政権交代の理念やビジョンに固執した部分は政治的敵として排除された。ということはこの部分に可能性が残っているということだ。国民の政治的意志や声を政治的に代弁し得る部分として。日本の歴史を鑑みるときこの存在は貴重である。国民の意志と声を代弁できる政治的存在として。
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〔opinion0921:120629〕
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