客観報道幻想への決別を
- 2012年 7月 3日
- 評論・紹介・意見
- 報道宇井 宙新聞記者
藤田博司氏の「記者の「思い」を感じたい」を拝読し、共感すると同時に、物足りなさも覚えた。
最近(に限らず昔からだと思うが)の新聞記事には、一体何を伝えたいのかはっきりせず、報道に携わる記者の気概や「思い」が感じられず、まるで他人事のように事実を羅列しただけの記事が多い、という指摘はその通りだと思う。物足りないのは、なぜそうなのか、という分析の掘り下げ方が足りないように思うからである。藤田氏は次のように述べておられる。
<「記者の思い」が強くにじむような記事は客観報道の原則に反するのではないか、との声も聞こえてきそうな気がする。が、「思い」をにじませることと、独りよがりの思い込みに基づいて書くのと同じではない。「思い」は「問題意識」に置き換えてもいい。「伝えたい理由」でもある。それなしには、報道することの意味がない。>
これを読むと、「独りよがりの思い込みに基づいて書く」記事は客観報道の原則に反するもので良くないが、「記者の思い」、すなわち「問題意識」をにじませることは、客観報道の原則に反するものではなく、むしろそれこそが報道の意味である、と思っておられるようである。そうだとすれば、それは報道本来の意味に対する重大な誤解ではないかと思う。
「マスコミは客観報道の原則を踏み外してはならない」。「記者は客観報道の原則に則って記事を書かなければならない」。このような誤ったドグマこそが日本のマスコミを腐敗させている最大の汚染源である。本多勝一氏が40年以上前から指摘している通り、「客観報道」などというものは存在しえず、報道はすべて主観的報道たらざるを得ないのである(例えば参照、本多勝一「職業としての新聞記者」『職業としてのジャーナリスト』)。なぜか。事実というものは世の中に無限に存在しており、それらをすべて報道することは不可能であり、かといってランダムに取り上げて報道することは無意味である以上、何を報道するかを選択する時点ですでに主観的判断を下さざるを得ない。また、選択した事実にしても、それに対する見方・解釈が全員一致ということはほとんどありえない(仮にあったとすれば、ほとんど報道する価値のない事実であろう)以上、誰のどのような見解・解釈を伝えるかも主観的に選択せざるを得ない。
もちろん、見解の対立する事実を報道する際には、できる限り対立する両者の言い分を伝えるべきである。その意味で、報道が主観的たらざるを得ないということは、対立する両者のうち一方の言い分しか伝えなくてもいいとか、記者が報道したい事実や見解のみを伝えて構わない、ということでは全くない。対立する両者の言い分を取材し、報道する、ということは報道機関の重大な使命であり、そういう意味での公正さは当然求められなければならない。しかし、対立する両者の言い分を報道するということは、両者の見解を一切の論評抜きで伝えなければならないとか、両者の言い分を全く同じ比重で伝えなければならない、ということではない。(もっとも、現在の日本のマスコミが総体としては、圧倒的に権力側の言い分に重点を置いて伝えていることから考えれば、仮にこのような形式的平等主義に立脚した報道に改めるとすれば、現状よりははるかにましになることも事実であろう。)対立する両者の言い分を取材した記者が、どちらの言い分に理があるのか全く判断がつかない、という場合には、それでもいいだろう。というより、それよりほかに報道のしようがないはずである。しかし、大抵の場合であれば、記者が両者の言い分を取材し、必要に応じて専門家や第三者の意見を求め、自らも問題意識を持って取材をさらに掘り下げるならば、おのずとどちらの言い分に理があるか判断できるようになるはずである。そのうえで記事を書くならば、おのずと記者の主観と問題意識に裏付けられた記事になり、そこに込められた記者の「思い」も読者に届くはずである。
ところが、日本のマスコミが金科玉条のごとくに掲げる「客観報道」という錦の御旗は、現実的機能としては、政治家、官僚、財界といった総じて権力側の公式発表・公式見解を垂れ流すことを正当化し、記者個人の主観的判断を「客観性に欠ける」との理由で抑圧することに貢献しているだけではないのか。これでは、やる気のある記者が「報道という仕事に熱意」を持てなくなったり、辞めてしまったりするのも当然ではないか。(私もかつてその一人だったが。)
ジャーナリズムの使命は権力を監視し、社会の木鐸たることだ、などと歯の浮くようなきれいごとを言う必要はない。権力者のお先棒を担ぎたい記者がいても構わない。ただし、すべての記事は記者の主観に基づくものであること、それゆえ公式会見や公式発表の垂れ流ししかできない記者は存在価値がない、ということをマスコミも読者もはっきりと知る必要がある。報道とはすべからく記者の主観によって世の中に存在している諸問題を照らし出し浮かび上がらせる作業であり、どのような視点によってどのような問題を切り取り、そこにどのような意味付けを行うか、というところに記者の力量が反映されるのである。様々な主観を持つ記者がそれぞれの問題意識に基づいて書く記事の個性と独自性を競い合えるような環境を作ること、そこにしかジャーナリズムの未来はないように思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net
〔opinion0924:120703〕
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