フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(9)
- 2012年 7月 4日
- スタディルーム
- ナショナリズムフランス革命ヘルダー二本柳隆
5.ヘルダーとフランス革命――ヘルダーの「ナショナリズム」論の確立
「国家は革命を避けるべきではなくて、それをわがものとせねばならない」(1)といった文章が、現在遺されている。この革命が、ヘルダーにおいてフランス革命を意味していたかのは、定かでない。だが、革命は起こるべくして起こるものだと捉えられていたといえよう。
ヘルダーのフランス革命への言及は、革命後に書かれた「フランス革命」と題する手紙で論議されている。しかし官憲をおそれてか、文章は対話形式となっており、どの人物の発言がヘルダーのものかを見極めるのは難しい。しかし次のような、ヘルダーの見解と思われる箇所はある。「われわれの時代のあらゆる注目すべきことのうちで、フランス革命がだいたいもっとも重要なもののように思われたこと、またわたすの心をわたし自身にそうあってほしいと思う以上にしばしば奪い、不安にさえさせたということを、否定しようとは思いません。」(2) 何年という確かなことはいえないまでも、1789年から1792年頃までのことなのは確実だ。ヘルダーは、バスティーユ襲撃から革命政権の誕生、ロベスピェールの権力掌握の過程を、報道を通じて知っていったことになる。ヘルダーはこの文章において、一方では革命の歴史的意義と重大さを記しているものの、他方では、国王の処刑にまでいきつく革命激化の過程に懸念の意を表明していたものと思われる。
だが、それでもなおヘルダーは、革命の行く末にさらに何かを読み取ろうとしていた。「どういうふうに立法、司法、行政の権力が配分されるのでしょうか。もしそういう大きな国で、絶対主義がなくてそういう配分が存在しうるとしたなら、必然的に理性と公正と秩序が、明白な永続的な優勢を維持するでしょう。」(5) 三権分立という「この一歩がふみ出され、またはふみ出すことが試みられるためには、外国のいかなる勢力も、それを自分自身に試みている独自な国民の自由な実験に干渉することか、あるいは早まった知識や介入によって邪魔しないことを、われわれは希望せざるをえません。」(6) ヘルダーは、三権分立の意義を高く評価しながら、その実践にあたっては外国の干渉は好ましくないとみていた。
このように、フランス革命に対するヘルダーの態度は、ごく控えめであった。それは次章で検討するフィヒテとは大きく異なっていた。ヘルダーの態度について、マイネッケは次のように記している。フランス革命に対して「最初は異常な感激をおぼえたが、彼はそれをあまり声高には表明しなかった。」(7) 控えめであった背景の一つに、ヘルダーのおかれていた職務上の問題がある。当時ヘルダーは、高等宗務院の副院長格として宮廷に出入りしており、革命への賛意を公然と主張するのは不可能であった。また、健康上の理由と家庭内の財政的な理由から、発禁処分にならないかたちで出版しなければならなかった。そのほか、革命政府の共和国実現の手段がしだいに激化していったこと等が、控えめの背景にあったと考えられる。
ところで、ヘルダーはフランス革命のなかでもっとも自覚した用件が、もう一つあった。それは革命のなかで示された、統一された政治的表現である。ドイツでは、こういうことは過去にありえなかった。『人間性を促進するための手紙』では、こうしたことに触発されて、ドイツ国民=民族のことが深く追求されている。「今日まで、ドイツはどんな統治政治を持っていたのか。またドイツは一つの国民であるのかというテーマ」(10)についていくら論争してもし過ぎることはない。ヘルダーはメーザー(1720-94)の名をかかげて書いている。「ドイツは全くいかなる国民的精神をも持っていなかったということが、メーザーによって度々語られ、主張されてきた。」(11) メーザーの指摘は、なるほど彼が生きていた当時の情況には妥当していた。しかし、メーザーは解決の方向を現実と未来には求めず、中世ドイツに、伝統主義への回帰に求めた。(12) この点で、ヘルダーの視座とメーザーのそれとは根本的に異なっていたといえる。このことを明らかにしよう。
「明るさ、啓蒙、共同意識、自己を他のものによって整えさせず、他の諸国民が昔からやってきたように自ら自己を整えようとする高貴な誇り、よく守られた独自の土地の地盤の上においてドイツ的であること。」(13) このことは、「ドイツ国民の歴史、その血統、体制、人倫そして言語」(14)を尊重するのと同じことだ。ヘルダーは、ドイツ国民であれば、祖先から受け継いだ伝統を尊び、ドイツ国民が自らのドイツ語=母国語を通して自らの文化、共同意識を守るのに使命を見いださなければならない、と主張しているのだ。ヘルダーは叫ぶ。「ドイツ人の歴史はどこにあるのか。ドイツの皇帝のものでもなく、ドイツの国王や王家のものでもなく、(中略)ドイツの国民のものだ。」(15)「この国民の個々のそして共同の伝統の歴史。それは単なるドイツの皇帝の歴史ではない。」(16) 竹原良文によれば、ヘルダーの視座にあったのは、「農民、手工業者、商人の、隷農をふくむいわゆるB?rgerであって、(中略)ナチオン民族の真の性格をもっとも純粋かつ本源的に具現化し」(17)ていた階層だったとしている。妥当といえよう。換言するならば、ヘルダーの視座では、支配階級の歴史ではなく、これまで支配され続けてきた非支配階級こそ、真の「国民」=「民族」であり、この段階のことがヘルダーの念頭にあったといえるのだ。(18)
次節において、これまで述べてきたヘルダーの視座を十分に勘案しつつ、ヘルダーのナショナリズムの性格とその展望をみてみることにしよう。
註
1.Herder, S?mtliche Werke, XIV, S.649. ヘルダーの「革命」概念については註9参照。
2.Herder, S?mtliche Werke, XVIII, S.313.
3.植田敏郎氏の見解を紹介しておこう。「ヘルダーは、これまで悩みつづけていた強制だの、圧迫だのが、フランス革命によって永久に消えると思った。フランス国民にばかりでなく、ほかの国民にも朝やけが近づいたと感じた。個人の自由も確保されたと考えた。植田敏郎「ヘルダーとフランス革命」、『一橋大学研究年報 人文科学研究』7、1965年、57頁。この見解は、拙論でこれまでみてきたヘルダーの見解から、指示されるものといえる。なお、ついでに述べておくと、本論の第2章において取り上げたゲオルク・フォルスターは、ヘルダーにの友人の一人であったとされている。前掲論文、57頁。
4.J.W.Thompson, Robespierre and the French Revolution. The English University Press Ltd., London, 1952. 樋口謹一訳『ロベスピェールとフランス革命』岩波新書、1981年、66~69頁。
この間の経緯を伝えるものとして、当時の現場の証言ほど貴重なものはない。ここでは、無名の人物ニコラ・セレスタン・ギタール・ド・フロリバンの、いわば偶然に発見された日記をみることにしよう。Raymodd Aubert Journal d’um bourgecis de Paris sous la Revolution Paris Ed France Empire, 1974. 河盛好藏監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、1980年。レイモン・オベール編による本書の著者ド・フロリバンは、1772年の生まれ。「著者は革命の恩恵にあずかったとみなされる第三身分の一部に属し、そのなかでも社会の変革のたびに痛手をうける年金生活者という種族にはいる。要するに、deのつかない、ごく普通の堅実なブルジョアにすぎない。」(5~6頁)
さて、日記をのぞいてみよう。まず1792年1月17日から。「気湿〇度、北の風、氷が張る、一日中曇」とごく平凡に書き、「ルイ16世にきょう判決が下された」と述べ、詳細に書いている。「投票権を有する者、745名、うち死刑を望む者、366名。禁固重労働または国外追放を望む者、319名、国民公会の定員数745名。死亡者1名を除き、議員総数は744名、病気による欠席、11名、棄権した者、4名。合計23名。744から23を引くと、投票総数は721票で絶対多数は361票である。投票結果は左記のとおりである。死刑執行については検討する、という条件つき死刑賛成、23名。執行猶予つき死刑賛成、8票。自然死を主張した者、2票。鉄鎖につなぐことを望んだ者、2票。拘禁を望んだ者、319票。合計、354票。無条件死刑に投票した者、366票。結局、無条件死刑が5票上回ったにすぎなかった。この結果、国民公会議長はルイに対して死刑を宣告した。ルイ16世は3人の弁護人を介して国民公会に親書を送り、この判決に対して国家を相手どって控訴を提起すると宣言した。ロベスピェールとガデは、国家を相手どった国王の控訴に異議を申し立て、国民公会は満場一致で、国王の控訴を棄却すると宣言した。国王を死刑にするのか執行猶予かは明日決まる。」前掲書、133頁。
さらに、1月21日の日記では、ルイ16世の処刑について述べられている。「日曜日、気湿3度、一日中湿った天気」と、いつもながらの調子で書き、「前国王、ルイ16世処刑さる」と記した後、次のように冷静に書いている。「今日午前10時20分、国王はルイ15世広場で処刑された。遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ4メートル、長さ2メートルの墓地に埋葬された。国王は、すでに1792年12月20日から遺言状をしたためていた。」前掲書、133頁。
5.Herder, S?mtliche Werke, XVIII, S.318.
6.Herder, ibid., S.313.
7.Friedrich Meinecke, Die Entschtehung des Historismus. 菊地英雄・麻生建訳『歴史主義の成立』下巻、筑摩書房、1956年、149頁。
8.植田敏郎、前掲論文、58~59頁。
9.このことについては、所謂フランスのき恐怖政治を指すのであろう。ヘルダー自身、こうした情況に動揺していた節がある。「わたしは近代の流行語のうちで、濫用されている僅かのことばが、このRevolutionということば同様いやだということを告白する。というのは、それはもとの純粋な意味からすっかりはなれて、思想の一ばん危険な混乱をともなっているからである。」Herder, Saemtliche Werke, XVI. S.115.(訳は植田氏による)「このことばの意味(Revolution―引用者)は、ぞっとするように変わってしまった。というのは野蛮な数世紀に、意図も、目的も、秩序もない、征服、転覆、圧制、混乱のRevolution以外には知らなかったからである。そこでは、最下のものが最上のものに転ぜられると、いわゆる戦時の権力(Recht des Krieges)によって、国民がその財産、法律、所有地を、多かれ少なかれ失ったとか、それとも、君主政体の権力によって、聖トーマスや、マキャヴェリや、ノーデが、現実の出来事からあとでとりあげて、章におさめた全部のいわゆる権利が有効とされたときには、Revolutionといわれたのである。最後に、大臣が君公自身もそうしようと思わないことをしたとか、それとも、ここかしこで国民が王や大臣がまれにしかうまく遂行しないことを企てたら、そのときにはそれはRevolutionとよばれたのである。これが今、数多くのhistoires des r?volutions(革命物語)となったのである。通りのよいの題名であるほど、その内容はたいていは不可解か、それともいまわしい」。Herder, ibid., S.117.
かかるヘルダーの言説を受け、植田氏は、「革命への憎悪」(前掲論文、84ページ)がヘルダーに起こり、「ヘルダーがもっと冷静に革命を観察することをつづけたなら、もうう少しちがった結論が出たかも知れない」(前掲論文、89ページ)と、述べられ、また、「相当あとまで革命が新時代を告げるのろしになることを期待していた」が、「しかし、最後に革命に失望した」(前掲論文、90ページ)と、述べている。果たして、こう断言してよいのだろうか。私はそうは思わない。結論を先取りしていうなら、「ヘルダーが四海同胞主義として始まり、ナショナリストとして終わったのは事実ではないが、彼の場合にも、傷つけられた国民としての誇りと恐らく年齢による若き日のユートピ主義の冷却が、免れ得ぬ結果(フランス革命観の変化、ないし、後退―引用者)をもたらしたかと見えるようだ。しかし私(バーリン―引用者)にはこの見解は支持し得えないと思われる。フィヒテ(ナポレオンのドイツ侵略戦争後のフィヒテのことをいっているのであろうか―引用者)」あるいはフリードリヒ・シュレーゲルの変わり方はどうであったにせよヘルダーの抱懐するナショナリズムの形は生涯を通じて不変であった」(300~301ページ)という見解を支持したい。つまりバーリンは、ヘルダーのフランス革命観は、たとえ、マイネッケが、ヘルダーは声高に革命を表現しなかったと述べていたにせよ、変化をもたらさなかった、と捉えている。フランス革命が絶対主義に反対する市民層の〈下から〉の変革であったことは、慧眼な洞察力をもっていたヘルダー自身、十分に認識していた筈であるし、本節でも明らかにしているように、ヘルダーのナショナリズムを支えていた階層は、王権=貴族層ではなく、フランス革命で主要な役割を果たした市民層であったのだ。
このように考える時、植田氏が述べているように、ヘルダーが革命に失望し、「いわば上からの革命を援助して、人類文化の更新にあずかろうという意欲」(前掲論文、91ページ)そのものにも、疑問を投じたくなる。これについては次節を参照。
10.Herder, Briefe zur Befoerderung der Humanitaet, Samtliche Werke, XVII, S.257.
11.Herder, ibid., S383.
12.半沢孝麿・三辺博之・竹原良文・安世舟『近代政治思想史3―保守と伝統の政治思想』有斐閣新書、1978年、135~6ページ。
13.Herder, ibid., S317..
14.Herder, ibid., S383.
15.Herder, ibid., S382.
16.Herder, ibid., S383.
ところが、『人間性を促進するための手紙』発表の年、1793年、ヘルダーは、次のような驚くべき発言をしているのだ。「この偉大な人物(フリードリヒ大王―引用者)に対する私の心のなかの感動は、年とともにますます高まってくる。とくに、七年戦争中の王はまさに悲劇的であったともいえよう。静かな平和の時代にもっとも美しい働きをするように創られながら、壮年時代には、ヨーロッパのすべての強国は、このひとりの人間をおさえるために同盟を結んだが、信じられぬほどの彼の勇敢さ、不屈の勇気の前になんらなすことができなかった。戦争中たびたびの危機にさいし、あるいは勝利にさいし、またほとんど破滅に瀕したときに、この英雄が深い心のなかを披露したところの数々の書簡が残されているが、それらは、古今いずれの国にもみられないほどのものである。カトー、カエサル、あるいはブルトゥスにも、これにくらべうるものはない。これらの人びとのうち、なんぴとも、フリードリヒのように多くの危難を克服した者はいない。それゆえにこそ、この強い、真に平和を愛する人が、ここで人間について、また世界の運命について考えていることは、きわめて注目に値する。」村岡晢、前掲書、187~8ページ。『異説』『構想』においてあれほど専制主義君主を嫌悪し、実際、「フリードリヒ大王治下のプロイセン国家の官僚体制と軍国主義を極度に嫌悪していた」(十河佑貞、前掲書、230ページ)にもかかわらず、ヘルダーのフリードリヒ大王に対する賛辞は、どういう心境の変化に基づくものであったのか。この問いに対しては、次のような理由が考えられる。すなわち、時代を遡れば、1756年には「プロシアは大陸で完全に孤立」(大野真弓責任編集『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社、1974年、247ページ)しており、プロイセンへの侵略の可能性もあり、この意味で、プロイセンの存亡にかかわることであり、七年戦争によって、プロイセンをフリードリヒ大王は不動の地位に高めたといわれている。村岡晢、前掲書、111ページ。かかる経緯で、ヘルダーはフリードリヒ大王を評価していたことがわかる。すなわち、1762年、ヘルダー18歳の時、ロシアの占領下にあった東プロイセンがフリードリヒ大王に明け渡されたことに感激し、「キュロスによせてAn Cyrus」の詩を作り、ケーニヒスベルクのカンター書店に送り、これが新聞に発表された。十字慶喜・小栗浩訳、前掲書、ヘルダーの年譜を参照、525~6ページ。
ついでにいっておけば、ゲーテは『詩と真実』のなかで、「フリードリヒは、ヨーロッパの連合諸国を向こうにまわして、一部のドイツ人の名誉を救ったのであるが、この偉大な君主をたたえ尊敬することにより、国民のなんぴとも彼の勝利に加わることが許されていた。」村岡晢、前掲書、183ページ。
ヘルダー・ゲーテのこうしたフリードリヒ大王評価に比べると、マイネッケの次の主張は正しいといえる。「フリードリッヒ大王の軍人、官僚国家の中に人間的理念の担い手を見たとき、それはやはり大体において・・・・幻想であった。」Friedrich Meinecke, Weltb?rgertum und Nationalstaat. 6Aufl., 1922. 矢田俊隆訳『独逸国民国家発生の研究――世界主義と国民国家』冨山房、1943年、45ページ。
因みに、フリードリヒ大王自身の愛国心について言及しておくならば、あれほどフランス好みであった大王は、晩年の1780年、『ドイツ文学について』でこう述べている。「わが国のも古典的な作家があらわれ、隣国の人びとも進んでドイツ語を学ぶようになるだろう。そうして、美しく完成されたわれわれの言語が、すぐれた文筆家の力でヨーロッパの隅々にまで広がるようになるであろう。わが文学のこの良き日はまだ到来していないが、それは近づいている。自分はそのことを予言するが、その日をみることはなかろう。自分の年齢でそれを望むのは無理である。」村岡晢、前掲書、193ページ。ドイツ文学の将来についての楽観的とでもいうべき見解と、ドイツ語の他国への流布という見解を述べたこの文章を、第1節註5において紹介したフリードリヒ大王の主張とを比べてみるとき、奇異な印象を受けるに違いない。しかし、よく考えてみると、「美しく完成されたわれわれの言語」とは、フランス語を消化した後のドイツ語のことをいっているのである。したがって、ここでいいたいのは、フリードリヒ大王の愛国心はこの程度のものであったということである。
フリードリヒ大王とヘルダーとを比較するなら、洞察力においてヘルダーの方がフリードリヒ大王に数段勝っていたといえる。すなわち、1765年21歳のヘルダーは、「『われわれは今も尚、古代人の如く公衆や祖国を持っているか』という設問に答えて、もはやそうではないと説明している。」Belrlin, ibid.. 小池訳、301ページ。ヘルダーのこのような視座が、実に『異説』『構想』『人間性を促進するための手紙』へとつながっていくのである。
17.竹原良文「近代ナショナリズム思想の形成――ルソーからフランス革命まで」、『ナショナリズムの政治学的研究』三一書房、1967年、55ページ。
18.植田氏の次の見解に注目したい。「『民族』(Volk)ということばは、それまで『下層民、賤民』つまり、P?bel, Canaille の意味で用いられた。ところがヘルダーはVolk こそ(中略)将来有機的に発展して国家を形成すべき母体であると考えた。それを『第三階級(dritter Stand)―ヨーロッパという大きい、活動的身分の温い血』ともいっている。だから、ヘルダーのVolk は、『民族と人民』との二つの意味が一つになったようなものである。」植田敏郎「ヘルダーの国家観」、『一橋論叢』第51巻第6号、1964年、666ページ。卓見であるといえよう。フランス革命のなかに、ヘルダーがこのような「第三階級」=「市民」の政治的自己表現をみていたことは確かである。
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