「英女王と北アイルランド副首相の握手」寸評
- 2012年 7月 5日
- 評論・紹介・意見
- ユーゴスラヴィア北アイルランド岩田昌征
朝日新聞(平成24年6月28日、デジタル版)に私を妙に複雑な気分にさせる朗報がのっていた。「対立越え、がっちり、英女王と北アイルランド副首相」の見出しの下、以下の記事が続く。
(引用元 http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201206280033.html)
何故複雑な気分にさせられたのか。以下に再掲載する20年前の私の文章を読んでいただければ、私の気分に理由があることに納得していただけるであろう。大陸ヨーロッパが干渉できた半島と干渉できなかった島国の不運・不幸と運・幸の対比は明々白々である。まずは干渉されなかった島国からの朗報を喜びたい。
(以下20年前の論文引用)
第三に、体制転換(階級形成闘争)期の民族紛争が国内的にも国際的にも過剰反応を呼び起こして、民族問題をその本性以上に複雑化し、処理困難にする様相を描出する。
この第三の論点を本文で記さなかった視座から再考してみよう。比較例として、北アイルランド紛争をとる。1969年に紛争が勃発して以来今日に至る、その直接的犠牲者(死者)は、三千数百人に及ぶ。北アイルランド地方の人口は、150万強であるが、そこにおける犠牲者は、1969年=13人、70年=25人、71年に飛躍的に増大して174人、72年=467人、73年=250人、74年=216人、75年=247人、76年=297人、77年から100名前後に減少する〈Observer Magazine,11.VII.1993,p.14,この数字は、千葉大学法経学部の同僚野沢敏治教授に教示された〉。
ところで、ユーゴスラヴィアの民族(宗教)対立をこれに対比すれば、1990年と1991年上半期が北アイルランドの1969年と1970年に当るであろう。ところが、1991年下半期になると、本格的な内戦に突入し、犠牲者も1970年代の北アイルランドの10倍、100倍のオーダーに一挙に激増する。
ここに、ユーゴスラヴィアの多民族(宗教)対立もまた北アイルランドの悲劇――これも最大級の悲惨であるが――のレベルにとどめえたかもしれない、という疑問がわいてくる。巷間、また私もその一人であるが、セルビア大統領ミロシェヴィチやクロアチア大統領トゥジマンの責任を強調する論者が多くいるが、彼らの政治哲学・方針・政策だけであれば、最悪の場合でも、紛争が北アイルランドのテロル戦争のレベルにとどまったかもしれない確率は、決して低くない。
いかなるファクターが北アイルランドとユーゴスラヴィアを分けたのであろうか。数多くある中で、少なくとも、以下の二要因を見落としてはならない。
ユーゴスラヴィアの場合、第一に、社会主義崩壊と資本主義生成の底で進行する階級形成闘争が惹き起こした全社会的動揺の最中に民族(宗教)対立が顕現したという状況であり、第二に、社会主義体制に勝利した欧米社会の知性は、一時的にせよ、反共主義的勝利感・ユーフォリアに呑み込まれ、夢遊状態にあって、ユーゴスラヴィア情勢の冷静な認識・評価が出来ず、一面的で過剰な反応を繰返したという状況である。
北アイルランドの場合、第一に、階級形成闘争は、200年前の事件であって、現在の確定した社会経済関係の枠内における民族(宗教)紛争であるという事情であり、第二に、大陸ヨーロッパは、北アイルランド紛争を英国の国内問題とみなして、積極的に介入しなかったという事情である。もしも、欧州が今日ユーゴスラヴィアで行ったやり方を20年前に北アイルランドでも行っていたとしたら、どんなに事態を悪化させたことだろうか。すなわち、ドイツを先頭とする大陸ヨーロッパとヴァチカンが北アイルランドの英国からの分離とアイルランド共和国への合併を即座に国際承認し、続けて北アイルランドに駐留する英国軍を国際的に承認された国境を犯す侵略者としてただちに非難したりしたとすれば、・・・・・・。
もちろん、大陸ヨーロッパは、そんな外交を考えもしなかったし、考えたとしても、このような挙動に出なかったし、出ようもなかった。当時は、東西冷戦の満潮時――1968年8月のワルシャワ機構軍のチェコスロヴァキア制圧――の直後であった。それに、何といっても、英国は尊敬すべき恐るべき歴史ある大民族の国家である。それに対して、ユーゴスラヴィアは、あの有名なエンゲルスのきめつけによれば、「歴史なき諸民族」geschichtslose Volkerが寄り集まって、でっち上げた共産主義国家にすぎないではないか。応接の作法が違って、当然ではないか。私は、こんなヨーロッパ史の暗い潜在的情念がここに働いているという想念を禁じえない。
(岩田昌征『ユーゴスラヴィア 衝突する歴史と抗争する文明』NTT出版 平成6年(1994年)pp.1-3)
(20年前の論文引用終わり)
上記の文章を書いた数年後、アメリカのカーター大統領国家安全保障問題補佐官ズビグニェフ・ブレジンスキーが1978年8月に行った秘密演説を読む機会があった。
1978年8月13日から19日までスウェーデンのウプサラで第11回世界社会学者大会が開かれた。その直前にブレジンスキーは、本大会の中心的諸テーマの一つ「現代世界における世論の創造者達」の企画立案者を含む有名なアメリカ人社会学者達を自分の滞在するホテルに呼び寄せて、アメリカの世界戦略についてレクチュアした。その一部がユーゴスラヴィアに関係していた。ブレジンスキーは、対ユーゴスラヴィア政策の変更を告げ、これから行うべき対ユーゴスラヴィア諸撹乱工作について詳しく語った。諸民族主義の利用が一つの眼目であった。
ソ連に対抗する力としてはユーゴスラヴィア統一勢力を支援する。しかしながら、ユーゴスラヴィア国内においては統一勢力に敵対する分離主義的・民族主義的諸勢力に援助を与える。民族主義は共産主義の天敵であり、共産主義より強力であるからだ。撹乱工作においてアムネスティ・インターナショナルのような国際的組織を活用することも強調している。詳しくは岩田昌征『20世紀崩壊とユーゴスラビア戦争 日本異論派の言立て』(お茶の水書房、平成22年、pp.139-145)を参照。
モスクワに対してはベオグラードを支援し、ベオグラードに対してはリュブリャナ、ザグレブ、サライェヴォを援助する。つまり不安定を狙う。ロンドン、ベルファスト、ダブリンに関しては安定を願う。私は、かかるアメリカの戦略がなければ、大陸ヨーロッパ(実際はヴァティカン、オーストリー、ドイツ)の半島干渉政策もあれほどの実効性を持たなかっただろうし、今日の英女王と北アイルランド副首相が「対立越え、がっちり」握手する写真も目にすることが出来なかっただろうと考える。
私は、アメリカや大陸ヨーロッパのかかるリアル・ポリティクスを支持するものではないが、それらを批判したり、非難したりする為にこの一文を書いているのではない。批判されるべきは、リアル・ポリティクスにマニュペレートされて、ある所の悲劇については国際共同体の軍事的干渉を求め、別のところの悲劇については当事者達の良識に期待するという市民社会の知性のあり方(=ダブルスタンダード)である。すなわち、リアル・ポリティクスを補完する知性のあり方である。安保・九条レジームに余りにも長く日本社会の左・中・右の知性が安住しすぎた帰結であろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0926:120705〕
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