「一つ頭のしわがふえたよう」なキャンプ生活――『土に生きる』第6号を手にして(7)
- 2012年 7月 6日
- スタディルーム
- キャンプ生活野沢敏治
本号は1979年12月15日、発行。特集「三芳子どもテント村」(企画・編集は菅洋子)が組まれている。その標語が「子供に自然を」となっている。一楽照雄さんの言葉であろう。
この特集は同時に「カット」特集号と言ってよいほどによくできている。以前の号でもカットに特色があったのだが。中牧弘子はキャンプ生活中のわらじ作りと皆での食事、囲いのトイレ、飯号と薪でのご飯作りを画いており、どれも1つの焦点に向かう構図になっていて、その場の雰囲気が出ている。玄人の眼が入っている。加えて、三村瑶子が奥武蔵に自生する多数の草花をカットしていて、これもいい。ここに実物を紹介できないのが残念である。えんれいそうに始まって、こあじさい、すいかずら、……と続き、リンドウ、ががいもで終わる。全部で41画。植物に関心と知識のある人は1979年時点と今日とで植相が変化していることを発見するかもしれない。
キャンプは1979年7月27~29日と29~31日のグループに分かれ、それぞれ2泊3日。場所は三芳村山名集落のある山頂。参加者は全部で62名。構成は小学校2年から6年生まで。学校でのキャンプは同学年であることが多いが、これは学年を越えたタテの関係であるのが特色。
人間が人間になるためにやること
親は子供がキャンプ生活をすることに期待するものである。擬似の原始に帰って自然と接し、日常と異なる経験をすることは、成長に必要なことと考えるから。
時代は2度の石油ショックを受け、その後は低成長ながらも他の国と違ってなんとか乗り切っていく時である。80年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ちあげられる。今ほどに環境保全が政策となってはいなかった。本誌が次の新聞報道を取りあげている。――アスファルトの校庭を土に戻す学校が出た!東京の子が岩手県の自然学校へ参加する企画があったが、教育委員会は万が一の事故の責任は誰がとるかと異議を出して中止となった!学校教育は子供が自然とのふれあうことを面倒がっていた。そこで、三芳テントの場合は事故の責任は主催者でなく親がとるという了解のもとで実施される。実際、このキャンプ中にナイフで指を少し切った子がいたが、けがをおびえていたら何もできないだろう。私も学生を連れて農村に入って手伝いをさせてもらったが、稲刈りの最中に鎌の使い方が悪く、指をけがしたことがあった。もちろん、個人責任である。
キャンプ後、子供の感想文がでた。全体に率直である。それを読むと、大人でも同じ感想をもつことがあるが、子供に特有の感じ方もあって面白い。たいていはキャンプ生活は初めてなのでわくわくしていたよう。参加者の中には母親と離れて暮らすのが初めての子もいた。私は以下に子供の感想を紹介するが、それは人間が人間になるために系統発生的に行なってきた自然との交わり個体発生的に確認できるからである。
まず、三芳村山名にある「みんなの家」(消費者と生産者が自由に利用する施設)に集まり、そこから山の頂にあるキャンプ場まで歩く。目的地まで歩いて1時間と聞き、これが彼らの最初のびっくりとなる。
到着してテントの設営にかかる。その作り方をしっかり観察した子が2名いる。それは大人には単純に見えるが、宮沢賢治の「グスコーブドリ」君ばりである。彼らによると、土の上にビニールを敷く→真中に鉄の棒を立てる→ビニールをかぶせる→ビニールに付いていたひもを周りに釘で打ち付ける。注意が必要で、シートはちゃんと閉める、棒はしっかり立てる、等。われわれも子供の時にそのようにしたなと思い出す。ビニールの下がごつごつしてよく眠れない子もいたよう。それを和らげるには草を敷くとか、シュラフを用意するとよいのだが。家に帰りたいと一時ホームシックになる子もいた。その気持、分かるよ。
食事の用意。これが一番手間がかかる。
まずかまどを作る。石が重くて大変だったよう。薪は現地で用意されていた。薪作りには枯れ枝を集められる所ならよいが、そうでないところで小学生がなたやのこぎりが使って薪を作るのはちょっと無理だ。私の家は豆腐屋さんをしていたので子供は手伝いをせねばならず、私は小学校高学年以後(1955年以後)、楢の木をまきわりを使ってスカンッと割っていた。まきは豆汁を煮たてたり、油揚げを作るのに必要だったのである。薪は当時どの家でもかまどで煮炊きをするのに必要であった。それが無くなるのは高度成長下でガスの利用が普及してからである。
次に水汲み。水を坂の下にあるタンクまで汲みに行く。でもタンクの水はちょろちょろしか出ない。取った水を坂を登って上げるのだが、途中でこぼしてしまい、また取りに行くという始末。水ひとつ得るにも手間がいると実感するのはこの時。水汲みが仕事になるのは、今日ではよく後発国の光景としてテレビに映るが、当時の山村では普通のことであった。私の母親の里は山奥の高地にあったから、水は山の斜面に掘っておいた窪みにため、それを汲んで家の中の樽に貯めていた。その上澄みが調理に使われる。町の少年には粘土の匂いがちょっときになり、家に帰って水道の水を飲んだ時にはほっとしたものである。
さて、野菜を切る。玉ねぎを切る時には涙が出て仕方がない。これは誰でも経験すること。キュウリとトマト、オクラを切るのだが、これは楽しかったようである。家に帰ってまねる子が出る。
竹を切ってはしを作る。この頃の子供はナイフを使う機会がなくなっている。鉛筆は電動で削る。竹を削って「タケコプター」を作って遊ぶことも無くなる。だからナイフをうまく使えない。慣れるしかない。また、テーブルを竹で作るのにびっくりしてしまう(――テーブルはカットに描かれている)。のこぎりは初めて使う子もいる。彼らの親やその親の世代から見てため息がでるが、親が作った時代の子なのだ。
米を焚く番になるが、薪を燃やして飯号で炊くのは初めてであるから、それにびっくりする。われわれの子供のときだって、初めての時にはへー!と思った。それに薪からは煙が出るから、煙くて困る。飯号を棒で触るとぐつぐつ言っているのが伝わると教わる。触覚で中の様子を知る。あるところまで炊けたら飯号を逆さにして蒸らす。われわれの時もそうしていた。班の中には黒こげを作ってしまうところもある。こげは癌のもとになると言う子がいたが、これもその時代の雰囲気を伝えている。子供はこうしてご飯ができるまでに時間がかかることを知る。
ようやく食事に取りかかる。野菜の丸かじりを経験する。自然農法でできたキュウリは甘いのだが、それは実際に食べた者でないと分からない。一般農法でできたキュウリは無色透明の味しかしない。三芳村の子の感想文であるが、キャンプでスイカの白いところまで食べたらしい。それを家に帰ってもしたら、母親から行儀が悪いと叱られたそうである。白い部分は別に調理して食べることはできるが、普通には捨てる。ナスが苦手の子がいたが、バーベキューで食べることができるようになる。全体として野菜ばかりの食事であったため、あまってしまい、捨てることになる。もったいないが、仕方ない。味噌汁にナスが多すぎたようでもある。魚の缶詰を出したら大喜びで食べたということ。会員の家庭では野菜を多く消費するのだが、動物性たんぱくはかなりのうウェイトを占めていたのかもしれない。子供がテント内で家から持参したお菓子を食べていたら大人から取られた。キャンプ生活をするのだから仕方ない。
わら草履作りについて。当時はよほどの山村でなければ藁草履を用いることはなかった。三芳でも親は小学生の時に授業の中で体験した程度。その親の親の時代では使用していた。私の思い出でも小学生の時に祖母の家に行っていた時に、わら草履は作って使われていた。その作り方を順序よく説明する子(――ここにも「グスコーブドリ」君)がいる。藁をハンマーでたたいて柔らかくする→太い縄を作る→縄で3角を作る→3角を上にあげて丸いところに足の親指を入れる→3角のところに藁を4,5本束ねたものを結ぶ→縄のところで上下にしていって鼻緒をつける。できあがった草履はちょっと不細工であっても、子供にとっては立派な作品である。芸術的傑作でもある。帰宅後、友達にそれを見せて自慢していたよう。農家の人の手は器用に物を作りだす。そして芸が上手い。町の人にはできないこと。
豚の世話について。その観察の鋭い子(――またまた「グスコーブドリ」君)がいた。――茶色や黒、まだらや肌色のブタ、凄く硬い毛、泥の中に入るのが好き(人間の子供もある時期にはどろんこ遊びが好きである)。子ブタは10匹ほどいて全長50センチくらい、元気に走り回る。豚にも好きでよく食べる草(くず、三つ葉、アザミ、アジサイに似た葉っぱ)と食べない草(ススキ、シダ、笹、黄色い花の草)があることを実際に知る。前足のひずめでくずの根を掘り起こして食べると聞く。
ところでブタを飼うと糞尿の匂いがきつい。小屋で飼い、床におがくずや丸太を使うと微生物の働きで糞尿が早く分解されるので匂いは無くなる。三芳では放し飼いなのでその方法は取っていない。カラスが豚の子のしっぽを食べるので、カラスをとらえて小屋に逆さにつってミイラにされている。カラスが来ないようにという工夫である。子供はブタ→草→ウンチの連鎖を実感する。この可愛いブタを人間はバーベキューで食べる。子供はかわいそうと思う。大人はこれを笑うだけではいけない。その気持に嘘はないのだから。後で親が子をキャンプに出したことへの感想文に出てくるが、その豚は人間に食べられて人間の血となり肉となる。ブタはそのことで人間の中に生きていると言うことができる。食物連鎖の一端はこのようにしてある。
人は食べ物を口に入れるだけでない。排泄物を身体の外に出さねばならない。そのためにトイレを作る。それは穴を掘ってその周りに囲いをするだけだから簡単にできる。でもそれを使用すると臭くてしょうがない。その頃は水洗は都会でも完全に普及していなかった。町では汲み取り式が大部分。山村では排泄物を肥料になるように貯め置く工夫があったが、その外では自然排泄!と後始末。キャンプのトイレにはアブかハチが来てこわかったよう。夜にそこにいくのは不便。後で親がトイレを埋めるが、その時にはもう臭くない。微生物の働きで腐塾していたからだろう。現在でもわれわれはトイレに困ることを経験する。災害を逃れて避難し、その施設でトイレが詰まることがある。すると大量の糞が積み重なっているのを眼にして用を足さねばならない。これがわれわれであったかと思わせられる。
キャンプファイヤーはグループによって雨のためできず、代わりにランプファイアーをする。キャンプファイヤーができたグループでは燃える火に魅せられてじっと見つめている。そして夜の星の数の素晴らしさ。人類の祖先も火を見つめ、星空を仰いだことだろう。
最終日に「みんなの家」でシャワーを浴び、久しぶりの日常の気持よさを味わう。この気持、分かる。
付言。カブトムシを何匹も捕まえてその頭を取ってしまった子がいた。その子は残酷ということを知らないのである。思い返せば、われわれも子供の時にそれに近いことをしていた。
最後に。班長の役をした子は班をまとめる責任感で大変だったらしい。中には仕事の割り当てで文句を言ったり、作業をしない子もいる。これは大人の席でも同じである。キャンプでは協働しなければ何もできないから、その中で自分の役割を自覚する。智恵を出し合い、我慢し、皆で協力することの大切さを知る。これは計画的な社会的分業。ここでは商品を生産することはない。自分の利益を求めて商品を交換することもない。
家の方が便利だが、子供はキャンプはキャンプで面白いと思う。三芳は自然があっていいなとも思う。
日頃の家でのガスや水道のありがたさを知って「一つ頭のしわがふえたように思った」と言う子がいるのには微笑んでしまう。家に帰ってからいやに手伝うようになったり、水がもったいないからとひねって廻る子がいるのだから、親ならずともその変わり方に顔が緩む。配送されたプチトマトを三芳のよと言うと、「誰が作ったんだろう」と想像する子も出る。文明社会の方は何度も何度も痛い経験をして「頭のしわ」を増やすしかない。
調理、それは生産と消費の間にあるもの、消費の前提
調理の仕方はほとんど毎号載る。母からの伝授や自己流、他人からの伝授等、さまざまである。料理のメニューも保存食の作り方も様々である。私はそれをどう読んだらよいか分からないでいる。
例えば、本号では謝名元さんが「里芋の煮ころがしに飽きた方へ」とその食べ方を紹介している。材料はこれこれ、作り方の順序はこれこれ、と。それは沖縄料理風ということ。また創刊号では生産者がおいしい野菜の食べ方として、大根と生姜を合わせた食べ方を、人参のおひたしの作り方を紹介している。
経済学の教育は時代とともに変わり、1960年代では工業経済学や農業経済学があったが、今は金融経済学が主流を占め、農業経済学は農学部の科目となっている。消費についてははじめから科目になっていない。生活がおよそ重視されていないのである。
かつて消費や「生活」が注目されることがあった。まず、1930年代の「転向」の時代に「社会青年」が理念でなく足元の暮らしの実際に戻った時。その代表は島木健作の『生活の探求』。次に同じ30年代から40年代の戦時統制経済で生産力拡充が叫ばれていた時。そこでは家庭での消費や休息・娯楽が生産と切れるのでなく、密接に関連することが認識される。その次が戦後の生活改善運動。そこでは食事について言えば、栄養のバランスあるレシピが説かれた。第4が公害が荒れ狂って食べ物の安全が脅かされた時。その時に企業の宣伝に乗る「消費者」でなく、自らの消費を主体的に見直す「生活者」が出てくる。「食べる会」もその1つ。それから2度の石油ショックや世界的な穀物不作、そして今回の震災と原発事故を経験して、われわれは生活を軸にした政治や経済、文化を考えざるを得なくなっている。政党の宣伝文句とは別に。
調理については学校教育では家庭科の授業や料理専門学校、時には「おやじの料理教室」、そして大学の家政学部等で学ぶが、一般の学校教育ではあまりメジャーな分野ではない。最近、漫画で料理をテーマにしたものがブームになったらしい。どうしてか。それを眼にしていない私には分からない。ただ、調理を調理として孤立させていたのではだめだということは分かる。秋に封切りされる「イラン式料理本」という映画の宣伝文を目にした。そこにはこう書いてある。「新婚夫婦のキッチンから、ベテラン主婦の台所まで、さまざまなイラン人女性が披露する今晩の献立や、伝統的な家庭料理の作り方。そこから浮かび上がるのは、男と女、嫁姑、家族というドラマ、そしてイラン社会の“今と昔”」。私は「食べる会」の会誌に載るレシピを読む方法がここにあると思うが、自分でその方法を使うことはできていない。会誌ではできている。
多少の経済学史の知識がある者としては、18世紀の経済学や19世紀の新古典派もよいが、マルクスの方法が1つの参考になる。
マルクスは1857―58年の『経済学批判要綱』で「経済学批判序説」を書き、そこで従来の経済学の方法に代わる自分の方法を提示した。その1つに、生産と流通、分配、消費を弁証法的に捉えたところがある。経済学はそれらを分けたままにし、それらの間の関連を問題にしていなかった。マルクスは違う。生産と消費についてのみ、注目しよう。
――1)生産は主体的にも客体的にも直接に消費である。①消費的生産。生産者は生産において自分の能力を支出して使い尽くす。②生産的消費。生産手段は消費されるが、燃料は燃やされて自然の元素に戻り、原料は消尽されて加工変形される。この生産的消費は本来の個人的消費と区別されるが、個人的消費も直接的に生産である。食物の摂取は人間の身体を生産する。2)生産と消費はお互いに手段となり、媒介し合う。①生産は消費の対象を作ることで消費の媒介となる。同時に生産は消費の仕方をも作る。肉やジャガイモの生産は、手で食べるのでなく、ナイフとフォークを使って食べることを予定している。生産はそういう消費主体をも生産する。②消費は生産物に「最後の仕上げ」をすることで生産を媒介する。鉄道は消尽されないと、可能的には鉄道であっても、現実には鉄道でない。衣服はきる行為によって、そして住居は住むことによって、それぞれ現実に衣服となり、現実に住居となる。生産物は消費されて初めて生産物になる。また消費は生産の対象を内的な欲望、衝動、目的として措定する。消費は生産者の構想を生産する。
以上のことに今まで見てきた自然農業と提携・生活の全内容が含まれている。
とともに、マルクスが見ていない生産と消費の関連がある。それは農業と工業との質の違いによるものであり、農業は自然の生産力を生かす。生活者は自然のリズムを消費する。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study527:120706〕
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