学問の道を歩む―8―
- 2012年 8月 1日
- スタディルーム
- 石塚正英近代の超克
「近代の超克―永久革命」企画 2006年春爛漫の頃、社会思想史の窓刊行会主宰で、読書会・討論会「近代の超克―永久革命」と称する企画をたて、以下の案内により関係者に参加を呼びかけた。
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ただいま、ムハンマド風刺画事件が世界各地に波紋を投げかけています。宗教問題、民族問題、政治経済問題など、さまざまな領域でさまざまな議論、対立、争いを引き起こしています。そのいちいちを検討するに際して、私たちはみな大概、2001・9・11に立ち返り、9・11から推論します。20世紀は9・11に収斂し、21世紀は9・11から拡散していくように思えます。現代世界史において、9・11は歴史の転換点として永久に刻印されることでしょう。
ところで、日本史上にもこのような収斂と拡散を象徴する日付が幾つかあります。その筆頭に私は1941・12・.8を挙げます。その出来事から約半年後の1942年7月17日、「開戦一年の間の知的戦慄」のうちに[近代の超克]という討論会が当代日本の少壮文人知識人たちによって開催されました。そこで論じられた[退っ引きならない諸問題]から、幾つかを以下に拾い出します。
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・中村光夫:いわば近代とはヨーロッパにおいては少なくとも国産品であったに対し、我国ではまず何より輸入品であった。そしてこの輸入品としての性格が我国の「近代」のもっとも大きな特色をなして来たのではなかろうか。(中略)こうした我国に独自な「近代」の性格を無視して「近代の超克」を語るのは、少なくとも僕等にとっては無意味な観念的遊戯にすぎまい。(中略)僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかったということである。
・鈴木成高:そういう近代的なものがヨーロッパ的なものであるという、そのヨーロッパというのはヨーロッパだけではない、もっと世界的なものという意味のヨーロッパなんですが、それでヨーロッパの世界支配と言って居るわけですが、そういうヨーロッパの世界支配というものを超克するために現在大東亜戦争が戦われて居ります。そういうものもはやり一つの近代の超克ということであるといって宜しいと思う。
・亀井勝一郎:現在我々の戦いつつある戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいえば近代文明のもたらしたかかる精神の疾病の根本治療である。これは聖戦であって、いずれに怠慢であっても戦争不具となるであろう。文明の毒素への戦い――これは百年などという短い歳月では不可能なことだ。東亜においては幸いにして我々は武力の勝利者となりつつある。だが、この勝利が、直ちに我らの享有せる文明の毒への勝利と思いこむほど危険なるはあるまい。かような妄想に対して私は自戒したいのである。
・西谷啓治:現在、国家生命が現して来た世界性は、寧ろ従来一般の国家の有り方からいえば、その有り方の否定を意味するものでなければならぬ。国家が単に自国だけを中心とする立場から自他不二の国家間的な共同性の地平へと自覚して来たことである。自らも他も夫々の私を殺し、共同的な全体を生かし、この全体に於いて自らも他も生きる、という如き地平を開いて来たことである。その意味で国家が自らの根底に自己否定性ともいうべき面を現して来たことでなければならぬ。然もまさしくかかる共同性の精神を荷った国家であるが故に反って、現代に於いて指導的な国家としての権威を自らに主張し得るのである。即ち自己否定性の故に反って正しい自己肯定をなし得る。征服による世界帝国とは根本的に違った、各々をしてその所を得しむるという発八紘為宇の理念が、現在わが国の理念として新たに自覚されて来たのも、その故であると思う。
・下村寅太郎:勿論、近代がヨーロッパ的由来であるにせよ事実上我々自身の近代になったこと、又なり得たことは、それが世界性をもっていることに外ならぬ。その受容の動機や仕方が如何にあったにせよ、それの世界性の故に克く全然歴史的地盤を異にする我々の近代となり得たのであると言わねばならぬ。そうしてその結果が彼地に於けると同様に我々に於いても病的症状を呈して来たとするならば、問題は単に彼の批評に悉し得ず、我々自身にも向けられねばならぬ。近代とは我々自身あり、近代の超克とは我々自身の超克である。何か他者を批評するが如くであるならば安易という外ない。
・河上徹太郎:此の会議が成功であったか否か、私にはまだよく分らない。ただ、これが開戦一年の間の知的戦慄のうちに作られたものであることは、覆うべくもない事実である。確かに我々知識人は、従来とても我々の知的活動の真の原動力として働いていた日本人の血と、それを今まで不様に体系づけていた西欧知性の相剋のために、個人的にも割り切れないでいる。会議全体を支配する異様な混沌や決裂はそのためである。そういう血みどろな戦いの忠実な記録であるということも、識者は認めて下さるであろう。しかも戦いはなお継続中である。確かな戦果は、戦塵が全く拭い去られた後でなければ分からぬであろう。
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以上の議論を手短にまとめると、以下のようになりましょうか。
・輸入品としての「近代」と我国に独自の「近代」の関係を無視するな(中村)
・ヨーロッパというのはヨーロッパだけではない、もっと世界的なもの、世界支配である(鈴木)
・今次の戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいえば近代文明のもたらし た精神的疾病の根本治療(亀井)
・八紘為宇の理念は自他不二の国家間的な共同性(西谷)
・近代の超克とは我々自身の超克である(下村)
1941・12.8開戦から半年というせっぱ詰まった段階における「知的戦慄」のうちに論じられた日本における〈近代の超克〉は、議論としても現実としても、未完に終わりました。そしてまた、2001・9・11という歴史的画期を経験した今、あらためて、<近代の超克>の未完・未達成を再認識することになりました。
ところで、この〈近代の超克〉問題は、いまや日本対西洋、日本対アメリカという対抗関係においてのみならず、イスラム対欧米、アジア対欧米、という構図において深刻化の度をましております。その諸関係において、日本(に住む人々)は、あるときはアジアに与し、あるときはアメリカに与してこの〈近代の超克〉から逃避し、むしろ近代にドップリつかってきました。
けれども、もうそのような淀みに佇んではいられません。淀み自体が喪失しているのです。憲法九条存廃問題はその一象徴です。たんに理念やスローガンとして〈九条精神〉を守護していても意味はありません。国際社会に展開する現下の状況、地球社会に迫りつつある近未来の転変に応じて、〈九条精神〉の意味内容を国民国家レベルから世界市民・地球市民レベルへと更新・刷新していかねばなりません。その作業の下準備に打ってつけの知的理論的錬磨の素材に1942年7月の「座〈近代の超克〉」および同年秋の『文学界』9/10号掲載の特集「近代の超克」があります。12・8と9・11、個別の比較研究か類似(Remember Pearl Harbor)の因果探求か、観点はほかにもさまざま考えられましょう。
このたび、上記の趣旨をもって読書会・討論会「<近代の超克>永久革命」を企画いたしました。主催は社会思想史の窓刊行会(http://www.i.dendai.ac.jp/~ishizuka/d.html)です。まず、上記「近代の超克」(座談会発言集・雑誌掲載論文)を復刻版で読みます。そして、メールで読後感を回覧します(2006年中)。それに続いて、持ち寄ったメール送信文をたたき台にして、2~3泊程度の討論合宿(箱根か山中湖、あるいは伊豆高原あたり)をかまえます(2007年中)。そうして煮詰めた議論を活字化したり論文化したりして『〈近代の超克〉永久革命』(仮)と題して本郷界隈から出版します(二〇〇八年中)。できれば、その〈永久革命〉を出版後、第2版~第*版刊行というかたちで、やる気のある人たちで永続したく思います。大まかな構成は以下のとおりです。
I 1942.7「座談会〈近代の超克〉」の現場を検討する。
II 2001・9・11以前における〈「近代の超克」論〉を、世界大の視野で論じる。
III 2001・9.11以後における〈「近代の超克」課題〉を、世界大の視野で、永久革命的に論じる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study540:120801〕
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