フランス革命後のドイツ社会思想――フォルスター・ヘルダー・フィヒテ・カント・ノヴァーリス(13)
- 2012年 8月 8日
- スタディルーム
- フィヒテフランス革命フンボルト二本柳隆
4.フィヒテの社会の優位――フンボルトと対比して
フィヒテの国家に対する個人の優位という視座は、実は、フィヒテの社会観と密接に結びついていた。フィヒテはいう。「よき自然と、自分を社会的に生まれさせてくれた幸福な運命とに対して感謝する。(中略)社会が一般にただ国家によってあることを証明することができなければ、社会の功績はただちに国家のそれではない。しかし、国家はそのことを証明することはできない。われわれは国家が社会によって存在することを証明した。国家は自ら、その負っているところのものを、社会に感謝せよ。われわれはもはや国家の媒体なしに、社会と適合してゆくであろう。」(1) ここで、国家は「社会によって存在すること」として捉えられている。社会に対する絶対的評価と国家に対する過小評価という点で、この時期のフィヒテは、レッシング、ヴィンケルマン、ヘルダー(2)、あるいはフンボルトと同じ立場にあったといえる。
ここでは、フィヒテの『フランス革命論』と同年代、フンボルトの未完の著書『国家活動の限界を定めんとする試験的考察』を一瞥する。その前に、フンボルトのこの著書が生まれに至った経緯からみていこう。
フランスで革命の起こった翌年、23歳のフンボルトは、家庭教師カンペにつれられてパリに赴いた。パリから将来の妻になる恋人にこう書き送った。「私が何人かの興味のある人と近づきにならないかぎり、私はこれ以上長く滞在するつもりはありません。薄汚れたパリで、人びとの途方もない群れのなかで私はどうすべきなのでしょう。私はここに二日だけ滞在するつもりです。私はもう、すっかりうんざりしています。」(3) この手紙を読むかぎり、ゲーテが指摘しているように、「国(フランス―引用者)が激しくゆれ動かされていた偉大な成行きについての一言もない」(4)ことにまず驚かないわけにはいかない。
フンボルトはフランス革命に何の反応も示さなかったのだろうか。決して、そうではなかったことがわかる。恋人に手紙を書き送った13日後のヤコービー宛の手紙にはこう書いていた。「パリにもフランスにも正直なところ、私はかなり倦きました。この国は現在の政治状態が非常に重大であり、フランス国民に燃え熾っている情熱と、この情熱を生んだ情神とが至る所に明らかに見て取れるので、私は辛うじて退屈を免れているといえましょう。しかし、ここでは、私はほとんど語り合うべき知友もなく、既に直接映ずるものしか、観察できないのです。」(5) 確かに、恋人宛の手紙と同様に、パリでの孤独感・退屈さを書き連ねているが、フランスで起こっている政情の重大さと「フランス国民に燃え熾っている情熱と、この情熱を生んだ精神」を同時に認めていたのだ。「私は新聞にむらなく目を通しています。私は新聞が大変生き生きとした関心を私に引き起こしていることを否定しませんが、フランスでの出来事は確かに多く私をひきつけます」(6)とも書いていた。フランス革命への何らかの関心が苦しいフンボルトを捉えていたことがわかる。しかし、フンボルトのフランス革命への反応がフランス革命への好感であったかというと、そういうわけにはいかない。「私は国民会議とその立法機関の非難以外聞いたことはありません」(7)と、フンボルトは書いた。このことはフンボルトにとって何を意味していたのか。その先を続けることにしよう。「時々、それは無知、偏見、新しいものへの懸念を責めました。しかし1200人の賢人でさえ、結局、ただの人間です。人は特殊な尺度に基づいていた単純なる責めや判断では確かな根拠に達することはできません。(中略)憲法制定会議は理性に基づいて国家の全く新しい体系を作ることを始めました。しかし、進歩に合致した計画に基づく理性によって形作られる憲法は成功することはできません。」(8) フランス革命に対するフンボルトの眼差しは、批判的なものであったことがわかる。アリスは、「フンボルトはバークのように、あらゆる新しい秩序は歴史的にも有機的にも旧秩序と結合されるべきであり、後者において創まるべきだということを要求した」と、述べたことも、もっともなことであるようである。しかし、アリスは次のようにいうことも忘れてはいない。「フンボルトはバークが考慮に入れていたことに対する拒否した一つの事実、つまり、フランスにおける旧体制の悪弊をはっきりと認識した」(10)と。アリスはその根拠に、後にフンボルトの書簡集の編者によって削除された次の一文を引用している。「貴族は人民を抑圧するための支配者と結合していていました。そしてこれは常に最も必要悪であった貴族の破滅の始まりであり、そして今では過剰になりました。」(11) これによると、フンボルトは確かに貴族の出身であったが、革命前におけるフランスの旧体制の人民に対する搾取をフランスの特殊な歴史的条件の結果として、フランス革命が起きたとみていたといえよう。この意味で、フンボルトの視座では、フランス革命は、消極的にしか捉えられなかったにせよ、決して、否定的・拒否的であったとはいえないのだ。
フランス革命に対して、消極的であったものの、フンボルトがフランス革命から学んだものは一体何であったのだろうか。これを物語るのが著書『国家活動の限界を定めんとする理論的考察』であったのである。この書物の眼目は個人の自由と国家の関係であった。
フンボルトにとって自由の問題は、この時代の知識人にとってと同様、いわば自己に課せられた課題でもあった。「自由のより高い度合いの可能性は常に陶治(ビルドゥング)の同じ高い度合いを要求する。」(12) 18世紀後半のドイツの知的情況において自分たちに課せられた課題は、より高い《教養》を身につけることであり、この《教養》は《陶治》を意味し、この結果としての《自由の実現》がこの時代の知識人の理想とされ、これが目標とされた。したがって、フンボルトにとって「この陶治(ビルドゥング)のために自由は最も最初の欠くことのできない条件」(13)でもあり、「自由は必然な条件」(14)でもあったのだ。フンボルトの自由の観念が「かれの文化の観念と密接に結びついている」(15)といわれるのも、もっとものなことであるといえよう。「文化の度合いは自由の真なる成熟である。」(16) 自由の成熟の不足は、文化に関係する道徳的・知的力の不足に原因があるといわれている。「自由への成熟の不足は知的ならびに道徳的な力の不足からのみ生ずるのである。この不足に対応するためには、知的であるとともに道徳的な力を高めることしかない。しかしこういう力の高揚は訓練を必要とする。」(17) 自由になるためには、個々人の知的・道徳的な力の高揚が必要であるという。換言するならば、自由の実現は、知的・道徳的な力の高揚を俟ってなされる。この意味で、アリスが「フンボルトにとって、自由は人間の諸力の発展と、それ故、文化の発展とに欠くべからざる基礎を形成する無限の複合的活動を意味している」(18)と述べたことは、蓋し、的を射たものといえよう。
フンボルトの自由の問題は、知的で道徳的な文化の領域で重要視されたばかりでなく、国家の領域でもきわめて重要視されていたことがわかる。「国家は、(中略)自己自身と外敵に対する市民の安全のために必要な以上には一歩も進めない。他のいかなる究極目的のためにも国家は市民の自由を制限しない。」(19)
フンボルトは国家と市民の自由との関係において、近代自然法の契約思想を導入する。「国民の個々人、全体的には国民自身は契約によって結びつけられる自由のみが与えられなければならない。国民的施設(Nationalanstalt)と国家的制度(Stattseinrichtung)との間には、常に拒否できない重要な相違が存続する。前者はただ間接的な権力であるが、後者は直接的な権力である。前者においては、それ故に、加入・分離・結合の変化の自由がより多く存在する。」(20) この意味から、市民の自由、もしくは、国民の自由を願う立場からすれば、「国家的制度」の干渉は最小限に抑えられるべきだ。「人があまりに配慮すべき損失の重要性、市民の自由の精度をわずかだけ不利になる可能性を考慮する場合」(21)だけ、斯かる「国家的制度」が必要とされるのである。この意味で、「国家的制度」は「常に個人に対して単に消極的な道具の役割しか残さないような強制的共同体の性格を保持する」(22)ものであったといえよう。したがって、フンボルトは、「国家的制度」である国家の憲法と、「国民的施設」としての国民的結合とは、決して混同されてはならないという。「国家の憲法(Staatsverfassung)と国家的結合(Nationalverein)とは、両者がいかに密接におりあわされることがあろうとも、決して互いに混同されるべきではない。優勢と強力によってであれ、あるいはまた、習慣と法律によってであっても、国家の憲法が市民にある特定の関係を分け与えるとき、そのほかに尚、もう一つの市民が自発的に選び、無限に多様な、そして度々、変わりやすい関係が存在する。そして後者、すなわち国民相互間の自由な活動こそ、本来のあらゆる財産を維持するものでり、この財産への憧憬が人びとを一つの社会に導くのである。本来の国家の憲法というものはその目的としてのこの自由な活動に服従し、常にただ必要やむを得ない手段としてのみ選ばれるのであり、また国家の憲法は常に自由の制限と結びついているから、必要悪(Notwendiges Uebel)として選ばれるのである。」(23) 市民もしくは国民にとって国家は、フンボルトの視座では「必要やむを得ない手段」としての補填的役割、換言するならば、補助的機関としての意義のみが与えられているだけである。「国家はできるだけ強くあるべきではなく、できるだけ弱くあるべきである」(24)というのが、フンボルトの偽らざる国家観であったといえよう。
このような意味で、フンボルトの視座では「国家は人間のために存在するのであって、人間が国家のためにあるのではない。」(25) このことを示したのが、他ならないフランス革命でもあった。ゲーテはフンボルトの国家に対する国民の自由を代弁してこういう。「啓蒙主義は人々に人間の権利について啓蒙した。そしてかつてない程に真実の自由に対する熱望が生じた。この熱望が最も協力であった国では政府がその義務を怠っていたことはそのとおりであった。それ故、革命がフランスで起こったことは免れ難いことであった。」(26) 一般的にいうなら、フランスで生じえたことは、フランス以上に身分差別のひどかったドイツでも起こりえることになるであろう。しかし、本書第1章第1節、第2章においてみてきたように、畢竟、「ドイツにおいては国家や国民の感覚が欠けていた」(27)のであった。したがって、「フランスが国民の自由を要求したのに対して、フンボルトは国民の自由を嘆願」(28)したにとどまったのも、斯かるドイツの後進性=特殊性にあったのである。このことから、フンボルトにとって国家は、個々人の自由の実現のために「必要悪」として、つまり、個々人の所有=財産、福祉、健康、治安のみを保証する機関として(29)、捉えられることになった。この点でアダム・スミスと同じ地平に立っていたものの、しかし「経済的進歩を前提とした政治的自由」(30)、もしくは、経済的自由をも取り入れたものではなかったことは注意しておいてよいかもしれぬ。
ところでフンボルトは、市民と同様に、国民という言葉も多く使用している。国民という言葉が国家に対応し、市民が社会に対応して使われている箇所もあるが、多くの場合、国民と市民は同じ意味で使われていた。マイネッケは、フンボルトが「国民という言葉を使用しているが、何處に於てもこの概念を明確に表現してはいない」(31)と、不満に近い発言をしている。国民の概念を現実に即して定義して欲しかったと不満を漏らしているようである。換言するならば、マイネッケは、フンボルトが国民の概念を現実に即して、つまりフンボルトが活動していたプロイセンを地盤として発言して欲しかったのである。確かに、フンボルトの活動の拠点は紛れもなくプロイセンであったが、確認しておかなければならないのは、フンボルトはプロイセンの専制主義的・絶対主義的政治に同調し、与したわけではなかったことだ。したがって、フンボルトにとって、ナショナルなものとは正に、文化の自由への成熟度(32)を意味し、このことは、ドイツ=プロイセンということに限定されずに、所謂、《人間性》と合致するものであった。フィヒテが『フランス革命論』のなかで述べている《人間性》も、フンボルトと同じ地平に立っていたといってもよい(33)。
まことに、斯かる《人間性》からすると、フンボルトにとって国家は必要悪であったが、フィヒテにおいては、フンボルトよりもさらに突き進めて、国家は時としてその意義を失うことになる。ヴィルムスは、フィヒテの社会を特徴づけてこういっている。「社会は、第一にさし当たっては、個人を無限に完成させるという努力にその使命を持っているが、第二にそれが社会であるかぎりでは、革命的で反国家的な性格を持ち続けることによって、いわばより多くの平等のために国家の廃止を求めることによって成り立っているのである。」(34) フィヒテは、こう宣言している。「ひとたび究極目的が達成し得られれば、もはや国家組織は不要となり、機構は静止するに至る。反動はもはや採用しないから、理性の普遍的妥当の法則は、すべての人びとを心情の最高の一致にまで結合せしめるであろう。そして、他の何の法則もかれらの行動を監視しないであろう。いかなる規範も、もはや各人がいかなる権利を社会に捧げるべきかについて規定しない。なぜなら、いかなる人も必要の他は要求しないし、また、少なく与えもしないから。」(35) フィヒテの視座では、人間の自由と平等が社会に実現されれば、国家という機構は必要ないとされていたことに注目しなければならぬ。(36) フィヒテの斯かる視座では国家体制の変更と重なることになる。その問題を次節で検討する。
註
1.Fichte. ibid. S.109
2.レッシング、ヴィンケルマンについては、本論第1章第1節、ヘルダーについては、第3章第3節を参照されたい。
3.G.P.Gooch. Germany an the French Revolution. Frank Cass&Co.Ltd. 1965. p.104
4.Gooch. ibid. p.105
5.亀山健吉『フンボルト 文人・政治家・言語学者』中央公論社、1978年、47ページ。
6.Gooch. ibid. p.106
7.Gooch. ibid. p.106
8,Gooch. ibid. p.106 フンボルトのこの手紙は、ゲンツに宛てて書いた「一友人への書簡」として、1792年の初めピースター編集『ベルリン月報』1月号に掲載され、この時の標題は「国家の憲法(フェアファッスンク)についての所見―フランスの新しい憲法(コンスティトゥチオン)を機縁して―」であったとされる。亀山健吉、前掲書、66ページ。
9.Aris. ibid. p.152
10.Aris. ibid. p.153 アリスは、こうも述べている。「恐らくフンボルトはその本(バークの『フランス革命についての諸反省』―引用者)は絶対主義に反対する一つの否定的抗議としてのみ価値があり、政治思想史には一つの積極的は貢献をなしえないものであったことを間もなくわかった」(ibid. p.146)と述べてバークに与しながらも、「他方ではバークの革命に対する評価からは根本的に異なり、革命そのものを歴史的コンテクストにおける政治的前進の一つの表現とみなすことができ、すなわち、革命をフランスにおける明白な歴史的発展の結果としてみることができた」と述べている。Aris. ibid. p.152.
11.Aris. ibid. p.153
12.Wilhelm ron Humboldt. Ideen zu einem Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen Reclam. 1978. S.198 尚、フンボルトのこの著が未刊となった理由として、アリスはケラーの見解を採っている。「ケラーはその本(Ideen zu einem Versuch, die Grenzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen―引用者)はバークの判断の影響下では発行は禁止されたと推論している。」ibid. p.146.
13.Humboldt. ibid. S.22.
14.Humboldt. ibid. S.37.
15.Aris. ibid. p.147.
16.Humboldt. ibid. S.198.
17.Humboldt. ibid. S.199.
18.Aris. ibid. p.147. アリスはこうも述べている。「フンボルトの自由の急進的な概念はアナーキズムの体系へと導くように思われる。そして、実際、後にアナーキストたちは全く似たような観念を発展させた。しかし、フンボルトの自由の概念はアナーキ的なものから遠い。かれの目的は際限ない個人の気ままではなく、文化の貢献における一つの全体への文化の全身の発展にある。」ibid. p.148.
19.Humboldt. ibid. S.52.
20.Humboldt. ibid. S.131.
21.Humboldt. ibid. S.121.
22.Cassier. ibid. 中埜肇訳、283ページ。
23.Humboldt. ibid. S.192.
24.Friedrich Meinecke, Weltbuergertum und Nationalstaat, 6.Aufl., 1922. Erstes Buch. Nation Staat und Weltbuergertum in der Entwicklung des deutschen Nationalstaatsgedanken. 矢田俊隆訳『独逸國民國家發生の研究―世界市民主義と國民國家』富山房、1943年、57ページ。
25.Gooch. ibid. p.109.
26.Gooch. ibid. p.107.
27.Gooch. ibid. p.113.
28.Gooch. ibid. p.112.
29.Gooch. ibid. p.149.
30.Aris. ibid. p.157.
31.Meinecke. ibid. 矢田俊隆譯、56ページ。
32.アリスの次の見解に注目したい。「自由主義の理論は(ドイツでは―引用者)社会的問題より以上に文化的問題であったという事実は、何故に、ドイツではポピュラーな問題とはならずに、大学や知識人に留められていた理由の一つである。」
33.例えば、第3節本文中のフィヒテの言葉を想起せよ。また、文化に関する視座についても同じことがいえる。第2節参照。
34.Wilms. ibid. 青山政雄、田村一郎訳、62ページ。
35.Fichte. ibid. S.67.
36.この点で、フンボルトは決定的に異なる。アリスによれば、フンボルトの国家の観念は「基本的には審美的なもの」であり、「哲学的確信」ということになる。ibid. p.151.
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