社会運動の視点から見た反・脱原発運動 (1)
- 2012年 8月 8日
- 評論・紹介・意見
- 榎原 均
序章 日本でもはじまった社会運動の地殻変動
1.はじめに
原発事故によって市民の前に明らかとなったのは、それが日本の国策であり、原発を推進していく団体がオールジャパンを形成して、巨額の交付金で立地自治体を買収し、反対運動を封じ込め、電力独占の土台を形成してきたことだった。
このような構造が明らかになって以降も、このシステムは解体するどころか焼け太りを狙い、あくまでも国策としての原発推進を続行しようとしている。
反・脱原発運動の側は、原発の危険性、放射性廃棄物処理における問題点、排出温水による環境破壊、原発のコストの高さ、などの原発そのものの問題点の他に、代替エネルギー政策や、発電・送電分離などの電力独占の解体提案など、どれを見てもまっとうな主張を展開しているのだが、推進側は聞く耳を持ってはいない。このような現状で、必要なことは推進派に推進をやめさせる方法について考察することであり、それは、反・脱原発運動を社会運動の視点からその有効性をさぐることだ。
チェルノブイリ事故のときのニューウエーブの運動が解体したのは参議院選挙で敗北したことがきっかけだった。巨額の供託金がもめごとの原因だったようだ。今回はニューウエーブの運動は昨年の高円寺での素人の乱の15000のデモで終わったかに見えたが、今年に入って6月の野田政権の再稼動決定前後から、新たな盛り上がりを見せている。毎週金曜日の首相官邸デモは、3月に300人で始まりまったが回を追うごとに拡大し、7月には毎週10万人を超える人々が集まるようになっている。また最初に再稼動がなされた大飯原発では、若者たちが運動公園に20張りのテントを張って泊り込み、当日35時間にわたる抗議行動を行なった。このニューウエーブの運動の評価が必要である。
再稼動をめぐる攻防戦で、立地自治体の拡大とそこでの自治権の要求が一つの目玉だったが、首長頼みでは推進派に切り崩されることが判明した。それもあり、野田政権のあまりにも非常識な再稼動決定に対して、やむにやまれず声をあげるという形で、今日の運動が形成されている。
2.3.11原発事故の政治的意味
3.11原発事故は史上最悪の原発事故となり、いまだ終息の目処はたっていない。放射能はいまだ垂れ流され、被災地を汚染し続けている。それだけではなく、天災等でもう一度爆発事故が起これば、関東地方や北海道にまで汚染が広がる。このような事故をおこしたにもかかわらず、政府や東京電力は何の責任も取らず、事態を成り行き任せとしている。
この事故は、日本の官僚支配の中枢の位置にあった原子力推進派に打撃を与えた。しかし、官僚支配の国日本では、支配者の失敗の責任はいつも曖昧にされ、失敗は反省されることなく、打撃を受けた推進派は巻き返して、再稼動に向けて政治的決定を行っている。この日本の官僚が政治を差配しているという現実に何の変化もない。
考えれば、2009年の政権交代に際しても、選挙民は官僚に対する政治主導を期待していた。しかし、鳩山政権は脱税で官僚から攻撃され、政治主導を発揮できずに引きずりおろされ、それ以降菅、野田と首相を入れ替えるたびに政権党である民主党は、ますます官僚支配に屈服するようになってきている。
ところが、3.11以降、従来は黒子として、議会における政党政治を裏で操ってきた官僚たちが、表に出て、政党自体を牽引しないと政治が進まないというような局面を向かえ、これが人々に政治的不満を鬱積させるようになってきている。ある意味ではチャンスなのだがしかし既得権益の壁に守られた官僚支配は強固であり、これに風穴を開ける工夫が必要である。
そこで私の提起は、従来あまり取り上げられていない諸問題についての試論を提供したい。ひとつは今日のオキュパイ運動の合言葉となった、99%対1%というスローガンが出てきた経済的背景について考察したい。もうひとつは日本の政治を語る場合にいつも分析の空白地帯のままであった官僚支配の問題である。前者は今日の社会運動の性格と発展方向の把握に不可欠であり、後者は日本での反・脱原発運動をはじめとする社会運動のプログラムを構想するときに問われる課題である。これらの考察の上に、社会運動のプログラムを作りあげていく方向性についての提案を行いたい。
第1章 99%の思想的課題 なぜ99%か
1)資本蓄積の変化、もう一つの資本蓄積(投機・信用資本主義)の台頭
資本・賃労働関係にもとづく搾取による資本蓄積とは異なる、もう一つの資本蓄積をもつ投機・信用資本主義が台頭してきている。その特徴は多国籍企業やその他の株式会社からの配当、賃労働者や中間層の年金、生活財のローン化、などから生み出される多様な金融資産(債権者からすれば、負債が金融資産となる)を用いて投機による利ざや稼ぎで資本蓄積をするところにあり、投機資本家たちのうちから想像を絶するような大金持ちが現れた。生産者の資本蓄積と生活者の生活財に寄生し、そこから富を搾り出している新たな階級が出現したのだ。この階級に属さない99%の人々がこの事実を自覚したことで、99%対1%という考え方、1%の利害と99%の利害とは非和解的に対立しているという思想を生み出した。マウリツィオ・ラッツァラートによれば、「負債による支配」であり、1%の債権者による99%の債務者からの収奪である(『借金人間製造工場』、作品社)。
2)投機・信用資本主義の歴史
投機市場は古くからあったが、もともと投機は金融市場の調節役であった。投機資本市場が、金融市場を従属させるようになったのは、21世紀に入ってからであり、その発展の歴史もたかだか40年を数えるにすぎない。1972年のニクソンによる金・ドル交換停止、外国為替市場の変動相場制への移行が、外国為替市場での投機取引を生みだすようになった。デリバティブなどの投機の様々な技術が開発された。他方、IT技術の発達は、金融市場のオンライン化を進め、80年代後半には国際金融市場でのオンライン化により、銀行がディーリングによって利益を上げるようになった。銀行は金融機関から投機資本家へと変貌をとげた。その上に金融資産の証券化が進められ、小口の資産も貯蓄から投資へという合言葉で投機市場へと動員されるようになった。
外国為替市場が固定相場制であれば、外国為替の売買が投機にはならない。また投機市場が各国毎に分断され、投機に要する時間がかかり、費用も多額であれば、投機取引は一部の専門業者に限られる。しかし、変動相場制によって、貿易実需の100倍もの投機取引がなされ、オンライン化で投機に要する時間が一瞬となり費用も安価になったことで、社会の遊休金融資産が投機市場に振り向けられるようになった。さらに、金融資産の証券化は金融資産の額を膨大に膨らまし、21世紀に入って、この架空資本の増大がまた投機バブルに拍車を賭けたのである。そしてリーマンショック以降の世界金融危機を迎え、各国政府は金融機関の支払決済システムを防衛するために公的資金を注入して金融機関を支えた。そしてこの公的資金がまたもや投機取引の原資とされ、投機取引の大宗が国債になったことで、国債の安全性が問題とされ、政府の財政事情が投機取引の取引条件とみなして格付け機関が格付けを下げることでソブリン危機を招来し、現在EU危機が投機・信用資本主義によってかもしだされている。
もう一つの資本蓄積の様式は、それが世界のスタンダードとなった直後にリーマンショック以降の世界金融危機を迎え、その後、投機・信用資本主義は実体経済はいうに及ばず、国家と社会をも破壊することで生きながらえようとする悪性腫瘍になりさがったのである。
3)投機・信用資本主義の思想
投機・信用資本主義の思想は、新自由主義者フリードマンによって語られている。彼らは自由市場の信奉者である。市場には商品市場、労働市場、金融市場がある。これら全てをフリードマンは自由競争に任せることを主張した。しかしこの三つの市場は根本的に異なっていて、一律に自由競争に任せることはできない。まず商品市場は等価物の交換の場であり、使用価値の持ち手の交換が行われる。労働市場は労働力という擬制的商品の売買の場であり、階級間の取引である。最後に金融市場は将来の価値請求権の売買の場であり、リスクの交換が行われる。商品市場で不正をすれば罰せられるし、労働市場で不正をすれば争議行為が発生する。しかし金融市場で大損をしても自己責任となる。そこではリスクが交換されるからだ。フリードマンはこの金融市場の原理を労働市場にまで拡張して自己責任論を主張したのだ。しかし労働市場はいうまでもなく、労働者階級が摩滅してしまうような状態を招き寄せるべきではない。それは現実資本にとっても価値増殖の摩滅をもたらすからだ。だが、1%の新しい支配階級にとってはそうではないところに、生存を賭けた99%の闘いが引き起こされている根拠がある。
4)投機・信用資本主義の本質
金融市場の金融資産は元々は、金融資本の定義が銀行と産業との癒着であったように、産業に投資される資本のことだった。これは利子生み資本の形態をなし、産業資本に貸し付けて、その利潤から利子を得るという関係であった。しかしもっぱら投機によって資本蓄積する現在の投機・信用資本は、利子生み資本の運動形態を取ってはいない。したがってその蓄積運動は現実資本に対して完全に外側に立っている。そして現実資本そのものが投機の対象となり売買されているのである。
5)投機・信用資本主義の歴史的地位
EU危機で明らかなように、投機・信用資本主義の危機は、社会と国家の破壊にまで進む。デフォルト後の国家について考察しておくことが問われ、投機・信用資本の規制が問われている。アイスランドではデフォルト後に投機・信用資本との断絶が起きることが、社会と国家にとってよりましな選択肢となっている。99%の闘いによって、投機・信用資本主義の自由な活動を規制することが問われている。
6)反資本主義の思想的課題
99%の闘いは反資本主義という課題を掲げている。反資本主義とは、商品・貨幣批判から始まる。商品・貨幣批判における『資本論』初版本文価値形態論の意義が顧みられるべきである。『資本論』初版によることで、商品からの貨幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本能的共同行為によるものであることが判明する。そして、商品所有者が自らの生産物を商品にする行為、それは市場に出して値付けすること、というように意識されているのだが、実はこの行為が商品から貨幣を生成させる共同行為への参加なのだ。だから貨幣は歴史的一時期に生成され、それがずっと継続しているものではなくて、今日の商品の取引において都度生成され続けているものなのだ。それゆえにそれを廃絶することも可能となるのだ。そのほか、商品が人格を物象化させるシステムであり、商品による人格の物象化は、商品による人格の意思支配をもたらすことも初版で明らかにされている。この商品・貨幣批判をわがものとすることで、99%の闘いはその戦略的課題を設定でき、長期の闘いを継続して成果を生みだすことができよう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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