公害企業に勤める主人 と 安全な食べ物を求める主婦――『土に生きる』第7号を手にして(8)
- 2012年 8月 14日
- スタディルーム
- 援農自然農業自然農法野沢敏治
本号も内容は充実している。1980年9月20日発行。本号からタイプ印刷になる。
1980年と言えば、8月にポーランドのグダンスク造船所でストライキが発生し、労働者が政府に労働組合や言論の自由を求めている。1950年代から東欧で約10年おきに発生していた反体制運動がここまで来たのである。1991年にはソ連邦が消滅する。
1 縁農について
縁農が再び特集される。
立場の違いを克服することの困難
消費者は三芳に出かけて縁農をする。縁農で何をするか。落ち葉かき、草取り、稲刈り、田植え、等。でも生産者は縁農を労働力としてあてにしてはいない。最初は消費者は「援農」呼んでいたが、それではおこがましく、素人が子供を連れて行ってはかえって邪魔になると遠慮しがちであった。そこで援農を「縁農」と変える。それはただの手伝いではない。縁農を通じて、生産者と消費者とがお互いに立場の違いがあり、裏があることを知って、相手を少しでも理解するための一つの方法であった。それを彼らは「人間の信頼性回復運動」と言う。
縁農することに次のような議論があった。三芳は援農の「支えなしにやってほしい」。その意味は援農に来た消費者に接待する暇などないくらいに生産者は農法の研究に励んでほしいということであった。消費者はそのことを理解できなければならない。援農することで消費者と生産者の違いははたして縮まるだろうか?かえって広がっていないか。そう疑われることもあった。消費者は安全なものが欲しい。それを買い続けるには夫の給料が頼りなのだが、それは将来どうなるか不安な時であった。また消費者の中でも意識のある者と無い者とに分かれている。他方、農家はコストが上がって経営はどうなるかと心配する。このままいくと、両者の利害が一致しないことが生じないか? こうしてどこまで相手の立場を自分のものにできるか、そういう問題が出される。両者が農業とサラリーマンとの分業を克服して半日百姓して半日勤めれば、他の立場を分かるかもしれないが、それは仮に個人的にできても、社会的にはほとんど不可能である。
安全な食べ物と原発とは矛盾する
問題はより多く消費者の方にあった。消費者は自分の矛盾に気づいていない。主人は公害企業に勤めて沢山の月給を得、多少値は高くても自分たちは安全でおいしいものを食べている。消費者は三芳野菜を金に替えられないほど有難いと言うが、それほど必要のないエベーターやタクシーでエネルギーを浪費している。そこに矛盾がある。その矛盾に気づく者はいた。彼らは矛盾を抱えたまま生きていかねばならないとまで思いこむ。でもその矛盾に安住してしまい、そこから一歩踏み出す者は少数である。そのことが問題になる。夫は妻が安全な食べ物を求めることにどう対応すべきか分からず、生産者とはまったく違った企業の価値観の中にいる。
この時すでに原発を問題にした消費者はいた。会員から反原発の運動に参加する者も出てくる。それも遅すぎたと断って。1970年代から漁業者が海と生活を守るために原発建設に反対する運動はあった。かなり詰めた議論もこの時からなされていた。原発から出る廃棄物は放っておいたら取り返しがつかなくなる。それは子供の代までずっと残る、と。また。原発企業に勤めないと暮らしていけないという声に対して、放射能を浴びたらどうにもならないではないかと反論がなされる。
こういう矛盾もある。良いものを求める消費者たちの間でいさかいは絶えなかった。皮肉なことに、「いい物」をたべても「いい人」にならないのである。それは良い「物」を求める「欲」で突っ張っているからである。そんな自己認識も会員からなされる。
援農が矛盾を正す
援農が以上の矛盾を正す一つの契機となる。
生産者は縁農にきてくれた消費者の熱心さを思い出して単調な草取りもがんばる気になる。縁農であの人が集めてくれた落ち葉、あの子供が来たんだと生産者は思い出す。生産者は消費者から突拍子もないような質問を受けることがある。例えば、野菜2分・雑草8分の畑があるが、それでは土の中の肥料分を雑草に取られないか。生産者はそう質問されることで、それまで無自覚にやってきたことを自分でも意識する。それが生産者を自然に埋没することから防ぐ機縁になる。生産者は縁農に来た人に、なぜ落ち葉を集めるのか、なぜこの草を取るのか等の説明ができないといけない。ボーとしてはいられない。そのためには観察を良くしていないとだめである。
消費者は人間は命をとって生きることを知る。消費者が援農で大根の収穫を手伝う。大根はうまく抜けない。生産者が教えてやる。大根を抜くには「お前もこれで本日をもって終りだ」という実感をもってやれば途中でぽきっと折れることはない、と。消費者はその言葉に「……」となる。そしてせめてちゃんと調理しておいしく食べないと申し訳ないと思う。また消費者は配送されたダンボール箱の番号を見て自分が手伝った家の大根だと知って食べる。そこに生産の完成はある。それは生産者にとって「最高の喜び」となる。
生産者と消費者は以上のようにしてお互い支えるに足る存在になろうと思う。「市場」ではこのように両者で生き方まで議論することはない。
2 自然農法について
和田博之が「三芳村と自然の法」という題で報告している。彼は「初めての方にも判るように話をしてもらいたい」という要望に答える。「話はいたって下手でございます」と断っているが、なんの、なんの、見事にやっている!自然農法は内容的には以前の号と重なる部分はあるが、再確認しておこう。
それまでの農業技術は「農薬と化学肥料をいつどんなふうに、どんな肥料をどれだけやるか、どんな種類の野菜をいつ使うか」というものであった。夏野菜は通常1週間に2回くらい農薬をまいていた。田は普通は機械で一貫作業ができるまでになり、収穫はコンバインですると楽であった。籾は袋につめて藁は田に捨て、後は籾を乾燥機で乾燥する。農家はメーカーや農協、農業改良普及員の言うがままだったのである。あるいは技術は研究所や植物工場にあるように液肥を与えるだけの礫耕・水耕栽培で象徴されていた。こういう技術観のもとで自然農業に踏み切ることは不安であった。
自然農法へ転換の経緯(再)
露木の話がまた紹介される。彼は最初生産者に「作物は肥料で作るものではない」と教えた。和田らはその話にしょげてしまう。でも露木が三芳に来てその言葉を証明した時に、やってみようかという気になる。彼はそれまで見たことも聞いたこともない、考えたこともない自然の仕組み見せてくれたのである。彼は山へ入って落ち葉の状態や根の張り方を見せる。畑・山・道端の3つの土をコップにとって、それらに水を入れてかきまわす。良い土ほど早く澄む。彼はそのさまを見せる。このようにして露木の話を何度か聞いているうちに、和田らはこれはやれると思い、「自分達のやろうとすることが、大変意義のある仕事である」と知っていく。
周りの農家の反応は冷たかった。彼らは1年くらいは田畑に今までの化学肥料・農薬が残っているから作物はできるだろうが、その後はできないと言う。実際にはできたのであるが、野菜の収量は自然農業へ転換する時には落ちた。その後、昭和54年10月に三芳を見学した者によれば、自然農法の畑は周りの科学農法の畑より収量は落ちていた。自然農法ではキュウリはわずか30日しか獲れず、トマトは自然農法で作るのが難しいのでミニトマトが作られるという状態であった。
最初は小松菜を作り、岡田の四つ葉牛乳と合わせて配送したから、消費者に届くまで3,4日かかる。小松菜はその間に蒸れて黄色に変色する。そこで配送は生産者で担当することになる。これが配送の始まりであった。本当は地場消費が良いのだが、それでも一般の野菜はあっちへこっちへと運ばれるから、輸送のエネルギーは大きい。それに比べれば三芳の場合は少ないらしい。しかし配送問題で懸念されていたことが実際になる。9月に配送帰りの車が事故を起す。
2年目に入って、生産者は野菜を「自分の家で食べるもの」から作ってみる。自給の延長である。あるいは完全無農薬では無理なので、少農薬でできる物からやってみる。夏野菜も作ってみると、「意外とこれは出来るわい」となる。
3年目になって、皆が作りやすいものを作るので、量的にアンバランスになる。それを消費者に引き取ってくれというのはよくない。そこで生産者側は「もし一つのものが大量に出来た時には自主的に調整しよう」と決める。それも各農家に割り当てるのでなく、自主的に考えて作付をしていく。それでも余ったものは自分たちで加工消費する!各農家は一度に出荷するので、配送車に積みきれないものもでる。それを受ける消費者は食べきれない。そこで配送の量の上限を作る。無理に消費者に食べてもらうことは止める。生産者は品質も自分でチェックし、われた人参、ひどい姿のもの、曲がったキュウリ、虫害で形が異常になったものは出荷しないように調整する。79年の2月に野菜の配送量の上限に目安が立てられる。それら傷物は有機農業の代名詞であったが、全量引き取りという会の原則は修正される。これは消費者側にも意外なことであった。
自然農業の今後は?
和田は今後の見通しを語る。
1)彼は現在生産農家は37戸だが、これ以上会員は増えないと言う。その理由であるが、地域の一般農家を変えるには大きな壁がある。それはどこの有機農業者からも聞くことである。まず兼業農家の方が専業農家より経営的には良い。兼業では技術や資財は少なくて済む。自然の厳しさも比較的避けられる。収入も決まっている。たまには野菜ブームになって、この年などパセリは1箱2万円余となったと言う。次に一般農家は研究会を持ったり消費者との集まりに出ることを面倒くさがる。「市場相手の方が気楽」なのである。その後にできた有機農業推進法がその状態を変えると期待されるのだが、実際はどうか。私はそれをまだ統計的に確かめていない。
2)野菜の種類は今後増えるか。和田は増えると予測する。現在の技術水準では米は消費者1人当たり12,3キロまでできる。これでは少ないが、それを2倍以上にすることは難しい。障害は労働力不足。まず除草の手間がいる。土がよくなると草の質は変わり、田が柔らかくなると除草はしやすくなるが、夏の暑い時に四つん這いになって手で田をかき回すのは力がいる。それは腰にくる。その後、バインダーで刈る・鎌で刈る・はぜ架け・1週間から15日の乾燥・そのあと脱穀・それをシートやむしろの上に広げて天日干し。これだけの労働が必要なのである。
3)野菜の質は少しずつ良くなると予測される。
4)生産量は上がっていかないと農家の生活に関わる。それも労働力しだい。サラダ菜は80日かかるが、工場生産だと18日でできる。これは「ものすごいバカみたいな話」である。田にかける労働力は後継者問題や老齢化で減少するが、土ができると1反6表か8俵はできる。その面で技術の向上は必要である。後継者問題の今後の見通しはまだはっきりとはできていない。父親が会員で子が継いている者が37名中3人、兼業から入ってきた者が5人、計8人という状況。もちろん土を良くすれば収量を上げることはできる。だから「より自然の状態をたもって、生かしていく」ことを考える。それも「楽にできる方法」を目指して。
5)価格は全体的に固定的だが、この7年間全く価格の不変の物がある一方で、作るのが難しい物は上がり、簡単にできる物は下がっている。この年、人参と里芋の価格が下げられる。全体の価格は固定的だが、部分的な変化はある。
「自然」は「放任」とは違う
自然の法について、再度和田に聞こう。その説明は実に的を射ていると思う。消費者の中には藁を切ると有機農法であり、そのまま使うと自然農法と考える者がいるらしい。人間が関与しなければしないほど自然農法だと考えるのである。和田からすれば、これはまったくの一知半解である。彼は「自然と放任のちがい」を強調する。生産者も最初この違いが分からなくて失敗していた。この辺の説明は、18世紀ヨーロッパの啓蒙思想や自然観、「自然的自由」を説いた古典経済学の研究者に聞くよりもずっとよい。彼は言う。「全くの放任が自然でいいもんだと言えるかどうか」。そうは言えない。「関与の結果が自然の仕組に従って行なわれる手助けは食べ物を生産する人間の仕事」と考えるべきだ。ではどうするのか。「畑以外の場所に種をまいてみる」。また草を取って捨てる場所を作ってみる。それを「よーく観察する」。条件の良いところでは大きな物ができる。その時に人間の手助けが必要になる。種をまきっぱなしにするのでなく、作物ができそうなところを探して「少しは草を刈ったり手助け」をする。また農薬や化学肥料を使わなければそれでよいのでない。よく腐塾した厩堆肥でなくて生のものを施せばガスが発生して虫が寄りつき、産卵して大変なことになる。生の油粕を土と混ぜる場合も虫がつく。自然農法は鶏糞をやらないことだとすると、キャベツはこんな小さなものしかできない(――実際にそれを見せる)。まだ土ができていないのである。土づくりには「自然に外れない範囲での手助け」が必要となる。「大きいものを肥料で作るんじゃなくて自然の力で作る」。その場合に「人間が何らかの形で関わってやらないと」人間があてにする食べ物はできない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study549:120814〕
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