低周波音問題とベートーヴェン研究―学問の道を歩む(10)
- 2012年 8月 14日
- スタディルーム
- ベートーヴェン低周波音石塚正英
或る年の8月27日に、府中市で「低周波音問題交流会」という催しがあった。未来文化研究室を運営する西兼司氏が主催したもので、低周波被害に苦しむ人々とともに低周波音について調査・研究していこう、という趣旨の会合だった。これに参加した後、西氏はさらに一歩すすめて、恒常的な活動の場を得ようと、「低周波音問題研究会」を発足させることにし、私に記念講演を依頼してきた。音に関してなにか話しを、ということだった。それで、その年の11月26日つまり当日、以下の出だしで講演を行なった。
「音の身体文化誌――雑音・楽音から野音へ――
1.あいさつ
2.自然の音・人工の音、その表現方法
3.文学に表現された音文化
4.民俗に語り継がれた音文化
5.身体に刷り込まれた音文化
6.健康な音・不健康な音
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1.あいさつ
私たちが生活する場はすべて人工物に囲まれています。裸の自然など私たちの身の周りにはまず存在しないでしょう。もし裸の自然、無垢の自然に接したとするならば、それはもはや私たちの感性にマッチしないはずです。私たちは自然をなんらかの方法によって心地よい方向に加工してきたのです。それを通じて私たちの感性も豊かなものに成長してきました。自然感覚から文化感性への移行です。本日のお話では、この「文化感性」という語とその概念がキーとなります。その語を今回のテーマ「音」にひきつけて表現しますと、それは「サウンドスケープ[soundscape]=音の風景」(カナダ人作曲家で『世界の調律』の著者マリー・シェーファーの造語)という広がりをもちます。
私たちはよく、興味ない音や声、聞きたくない音や声、夢中になっているときの外界の音や声、それらは耳にとどかない、聞こえないことがあります。これはどちらかというと「文化感性」による効果です。しかし、聞きたくなくても無理やり耳に入ってくる音や声もあります。そればかりかかつては、耳を劈(つんざ)く轟音やノイズを強制的に繰返し聞かせるといった、音による拷問までありました。これはどちらかというと自然感覚を攻撃しているのです。
ところで、音は物理的に次の3要素に区別されます。高さ(振動数による、単位:ヘルツ)、強さ(エネルギーによる、単位:デシベル)、音色(音源や楽器によって違う)。そのほか音域(周波数による、単位:ヘルツ)というのもありますが、これは高さに連動するでしょうね。さらには、硬い音、柔らかい音、冷たい音、暖かい音にも区分できますね。例えば三味線のような弦楽器では、振動数(音の高さ)は糸の長さに反比例し、長さを半分にすると振動数は2倍になり、2倍の高さになるわけです。そうしたさまざまな音を、私たちは自然感覚と文化感性との2者を通じて享受しています。その過程で生じるさまざまな意味、価値、そして問題点を以下に整理してみたく存じます」。
ところで、この講演準備は、私の研究活動に思わぬ副産物を残すこととなった。それは耳の聴こえない作曲家ベートーヴェンへの接近である。11月から翌年2月にかけ、私のベートーヴェン凝りは止まることを知らなかった。その結果、2007年2月にいたって、次の論文を起草した。
「始まりとしての八分休符――ベートーヴェン『運命』交響曲の歴史知的検討
はじめに
1.耳の聴こえない作曲家
2.自由の革命という時代
3.第五交響曲『運命』第一楽章第一小節
4.休止から始まる意味
5.ゼロの歴史知的概念
むすび
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はじめに
18世紀啓蒙時代フランスの思想家ジャン=ジャック=ルソーは、「自然にかえれ!」と主張した。例えばルソー『新エロイーズ』第2巻の序文にその言葉を確認できるのだが、彼の追及した理念からすると端的な意味での「自然」ないし「原始」というより、状態としての「自然」、一定の条件を備えた「自然」と見た方正しいと思われる。彼の著作に『学問芸術論』(1750年)がある。学問・芸術は、その起原において悪そのものであり、したがってこれが発展すればその分だけ、人間精神は悪徳に染まることになる、というのが主たる叙述目的である。また同じルソーの作に『人間不平等起原論』(1755年)があるが、これも、かれにとっての現代から昔=自然状態に遡るほどに人類社会は幸福であった、あるいは自然状態の人類だけが真に平等な社会を築いていた、ということを主張するために書かれたものである。ルソーのこのような考えに従えば、人類は自然状態から離反して社会状態に移行するに際して悪の病原を宿し、それが極限にまで堕落したのち、人類は自らその病原を退治して、あたかも最初の自然状態に返ったかのようなパラダイスを未来において獲得できるのである。ただし、彼の「自然にかえれ!」は第三者の解釈を交える過程で、一定の条件を備えた「自然」でなく端的に「粗野な原始にかえれ!」という意味で独り歩きしてしまった。
それはそれとして、以上のようなルソーの着想のうち、循環史観的な側面は、19世紀の歴史主義の時代に、歴史の一回性を楯に大いに批判されることになったが、しかし、退歩史観というべきか反文明史観とでも称すべき側面の方は生き残ったようにも思われる。
けれども、19世紀初頭のドイツに一人の芸術家が登場し、自然と文明を芸術=作曲の分野でみごとに接続させ、人類の未来を原始回帰においてでなく、自然と文明のコラボレーションにおいて展望する契機を後世に伝達した。その芸術家とは楽聖ベートーヴェンであり、その芸術を象徴的に示せば第五シンフォニーである。本稿は、ベートーヴェンの芸術活動に焦点をあわせることで、彼の楽想の中に21世紀地球市民社会に求められる人類生存のグランドセオリーを探ることを検討課題とする」。(参考:石塚正英『感性文化学入門―21世紀の新たな身体観を求めて』東京電機大学出版局、2010年、57頁以降)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study550:120814〕
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