テント日誌8/15日 経産前省テント広場―340日目…8・15日の朝にテント前で考えたこと
- 2012年 8月 16日
- 交流の広場
- 経産前省テントひろば
週末には花火大会や盆踊りなど巷は賑やかである。ここ霞ヶ関の一隅でも毎週金曜日の首相官邸前行動の広がりもあって大勢の人がやってくる。それに比べると週のはじめは静かである。これには今週がお盆休みに入っていることもあるのだろう。こうした中で8月15日を迎えた。8月15日は終戦記念日であり、あの戦争(太平洋戦争)について考えをめぐらす日である。僕は8月15日をそのように迎えてきたが、この日をテントでというのは思いもよらなかったことであった。これも何かの縁なのだろうか。
朝起きてテントの前の椅子に座りながらいつもと変わらぬ光景を見ながらも座っていたが、こころはやはり戦争のことになってしまっていた。耳につんざくようなミンミン蝉の声が聞こえる中であれこれ考えていた。戦争と言えば僕らは終戦が4歳くらいで空襲の記憶などがかすかに残っている世代である。戦争については当事者たちが考え僕らはそれを受け継ぐあるいは学ぶという立場で処してきたけれど、いつの間に当事者たちは鬼籍に入る人が多くなり、僕らも老いてきてしまっている。戦争は僕らにとって前世代から引き継ぐ課題であったがそれは何であったのだろうか。
結局のところあの戦争に兵士として参加した、あるいは庶民として空襲などの苦難をくぐり抜けてきた人たちが何を考えたかということが重要なことであり、それは聖戦として戦争に加わったが戦争は野蛮でいいことなんか何処にもないという考えに達したことだったのではないか。聖戦からあらゆる戦争は野蛮で非行というべきものだというところに考えを変えたということではないのか。これは戦死者が血で購って得たものであり、生きてある人たちに伝えたかったことではないのだろうか。そしてこの戦死者の声を含む民衆の声は日本の戦後国家の在り方への大きな規定力となってきたのではないのか。日本が戦後67年間戦争をやらなかったということは極めて重要なことであり、この根底には民衆の戦争についての考え横たわっていたように思う。戦後の日本は世界の方から戦争にするべく誘導を受けながらそれを拒否しえたのはこの民衆の声が力として働いていたからではないか。米ソから、今はアメリカかの戦争の誘導(加担の要求)があつたにせよそれを拒めたのはそれが機能したからだ。
戦争の体験者が少なくなくなることは国民の戦争観にも反映される。小泉首相以来、それがまた政治家たちには現れているように思う。戦争についての認識が軽いのであり曖昧なのだ。戦争についての見識が曖昧なのであり、これは危ういことである。僕はそれを危惧している。彼がイラクやアフガニスタンへの兵士の派遣に踏み切ったことが検証すらされないであることがそれを物語っているのではないのか。テントの前に座り、風に吹かれながら時折すぎる街宣車の声を耳に挟みながらこんなことを考えていた。戦争は僕らが前世代から受け継いだことだが、それに因めば原発は次の世代に受け渡すこだいなのだろうと思った。僕らがこれをどう考え対応するかは自分たちを超えて次の世代にまで引き継がれてしまう事だと思った。
テント前には少年の面影を多分に残した子がやってきた。高校生と思ったら福島大学の一年生で岩手の出身とのことだった。原発のことで話は弾んだが、若い人たちとの交流ができることはうれしいことだが、それだけに責任のようなものを感じる。テントの前を通り、目礼を交わす同年代と思しき御仁たちとは共有している思いを感じるがテントを訪問してくれる若い世代にはそれを感じるのだ。ともあれ、世代を受け継いでいくということについてあらためて考えさせられたのも今日が8月15日からだろうか。
戦争が近代の国家や政治に背負わせた矛盾であるとすれば、原発は近代の社会や政治が生み出した矛盾である。近代をどう超えるかという意味で共通しているものである。明治以降から1945年までが戦争を中心に日本の社会はあった。
戦後は経済発展《経済の高成長)が人々を支配してきた。これの転換が今やってきている。原発は経済の高成長の象徴のようなところがあり、脱原発は社会の転換と結びついているのだ。歴史的に近代を超える(超克)するという課題はこうした二様にあるのだがこれは別のことではない。 (M/O)
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