レアメタルも毒性を持っている -書評「重金属のはなし」-
- 2012年 9月 29日
- 評論・紹介・意見
- 「重金属のはなし」川弾降雄書評
金属の代表的な特徴の中でも、・伸展性に富む(変形や加工しやすい)こと、・熱と電気の良導体であること、が身の回りの生活で金属製品が使われる大きな理由である。これらに・採取しやすいこと、・高価でないこと、・強さを持つこと、・合金化しやすいこと、・リサイクル(再溶解)できること、などを加えると金属が他の材料と比べ使い勝手が良く、便利であることがわかる。
軽金属は比重が軽い金属という意味で、アルミニウム、マグネシウム、チタンなどがその代表である。アルミニウムメーカーとして日本軽金属という企業があり、学協会として軽金属学会がある。どちらかといえば馴染みのある言葉である。その一方で比重が重いという意味で重金属という分類はあるものの、重金属と名付けられた企業は聞かないし、日本鉄鋼協会や日本伸銅協会はあるものの重金属学会はない。これは重金属が毒性や足尾銅山鉱毒事件や水俣病といった鉱害、公害と関連付けられるイメージを持たれていることと関係すると思われる。しかし今日では、ニッケル、コバルト、モリブデンといった重金属はレアメタルとして国家戦略的に重要な元素と位置付けられ、投機対象として金儲けの材料としても注目を集めるようになっている。それでは時代はそれほど大きく変わったのだろうか。
本書は気鋭の若手環境学者が、さまざまな角度から重金属を分析し解説したものである。新書という限られた分量の中に、これだけ豊富な内容が深く論じられているという点で驚異的と言える。内容の順を追うと以下のようになる。
・様々に使われる重金属の特徴と産業への利用
・生物に必要な重金属とその毒性が与える影響
・毒性物質としての重金属が引き起こした鉱害
・レアメタルとしての重金属が持つ問題点
・今後どのように重金属と共生して行くのか
材料科学、化学、生命科学といった自然科学の面からだけでなく、産業の中での役割や人間への被害の歴史といった広範囲な視点から、最近のレアメタル情勢まで、重金属のすべてが余すところなくわかる仕組みとなっている。
重金属の歴史を遡ってみると、鉄は3,000~5,000年、銅は紀元前8,000~6,000年の頃から使われ始めた。古代七金属とは漢字名を持つ、金・銀・銅・鉄・鉛・錫・のことで、その全てが重金属である。ちなみに、アルミニウム、マグネシウム、チタンといったカタカナ名を持つ軽金属の発見は18世紀以降である。古代七金属が使われたのは、自然状態からの採取や製錬、常温での加工が比較的容易だったからである。例えば、真鍮(黄銅、ブラス:銅-亜鉛合金)という強度と加工し易さを兼ね備えた材料が開発されなかったなら金管楽器の誕生はずっと遅れ、ブラスバンドという言葉もなかっただろう。反面、古代から長い期間にわたって使われ続けたことで、・科学的な知見に乏しいゆえの誤用、・毒殺の道具としての濫用、・産業振興優先の国策による鉱害と複合汚染の発生、といった負の遺産を生むこととなった。
人体にとっては、鉄、亜鉛、マンガン、銅、セレン、ヨウ素、モリブデン、クロム、コバルトの9つの重金属は必要不可欠な必須元素とされる。このほか先端技術製品にも重金属は必要不可欠なものである。人間と物質文明を支える重金属であるが、同時に人間の生活と文明を破壊する恐れのあるものでもある。「体内に一定量の重金属を存在させているのは、宇宙の誕生から地球の誕生、そして生命の誕生から今に至る進化の過程が関与している。」(78頁)という壮大なパノラマなのだが、重金属の毒性は摂取量が少な過ぎる欠乏状態でも多過ぎて人体への害が増えるという厄介なものという。過剰な摂取による金属毒性の発現は、金属を産業に利用したいという欲望に起因する。それをはっきり表したものが様々な鉱害や公害であった。明治時代の足尾銅山鉱毒事件から、昭和の水俣病やイタイイタイ病に至る歴史が富国強兵から高度経済成長に至る産業の勃興と拡大と表裏一体だったことは納得のゆくことである。戦後の四大公害事件(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)の詳しい経緯でさえ21世紀の初頭のいま急激な風化が進んでいること、足尾銅山鉱毒事件はまだしも、他の戦前の鉱害事件は忘れ去られようとしていることを著者は憂慮する。それゆえに本書では、これら鉱害、公害事件の発生と経緯が詳しく記述されている。産業立国日本の陰の部分を記録して後世に残す作業は、過去の成功の余韻に浸って「地上の星」を唄うことより遥かに重要で意義のあることである。
レアメタル獲得のための資源ナショナリズムによる囲い込みと資源メジャーによる独占が俄かに注目を浴びるようになったが、それと同時に資源の枯渇も現実的な問題としてクローズアップされている。資源枯渇は存在量の少ないレアメタルやレアアースメタルで深刻となる恐れが大きいが、これだけに限られた話ではない。現在問題視されているのはベースメタルの銅である。電気自動車の普及によりリチウムイオン電池の電極材として銅の需要が増加すると見込まれている。その一方で、銅の既存埋蔵量可採年数(現有埋蔵量/年間消費量)は32年と意外に短い。資源メジャーやジュニアにとっては早急に鉱山開発を行い、資源獲得競争を有利に進め一生懸命に囲い込まなければならない金属である。もっとも2000年以降も年平均4ヶ所程度の新たな銅鉱床が開発されているので、可採年数32年は運よく延長できるかも知れない。そうなったとしても喜んでばかりはいられない。優良な鉱床から先に採掘されるので、採掘が続けば鉱石品位は段々と低下する。現在、1トンの銅を得るために使われる土壌、水、エネルギー等の関与物質量(TMR)はおよそ360トンである。銅の世界地金生産量(2010年は1,900万トン)から年間のTMRを求めると、実に68億4千万トンにのぼる。想像し難い量である。金属は再溶解可能でリサイクル率が高いことが特長であり、日本では銅のリサイクル率は13%と見積もられているから、実際のTMRはこれより少ない数値となるが、リサイクルの過程でも資源やエネルギーは消費される。より低品位の鉱石からの製錬によってTMRは増加するので環境に対する負担は益々過酷になる。資源開発は環境汚染の拡大とワンセットで捉えなければいけない。
現在、銅の世界最大の生産国は南米チリである。2010年に「奇跡の救出劇」として有名になったコピアポ鉱山落盤事故現場も銅鉱山であった。日本の銅鉱山は全て閉山されたが、銅生産を主要産業とし今後も拡大する方針のチリでは足尾銅山鉱害事件は今日的な問題である。レアメタルの鉱床が数多く存在する、中国、中央アジア、ロシア、オーストラリアでも環境への悪影響の深刻化は同様である。問題の解決を来るべき技術進歩に委ねるのも無責任だ。遥か以前に発生した鉱害や環境汚染の被害が、未だに終わっていないことを知れば、技術進歩を過大評価できないことは自明である。
これ以上の鉱害、公害、環境汚染を回避するには予防原則が重要で、過去の悲劇を貴重な教訓にし、環境対策で世界をリードする国になるべきという。今世紀に入って2001年にオランダでソニーのプレイステーションから規制値を超えるカドミウムが検出され、日本の家電メーカーはパニックに襲われた。センサー、触媒などの先端技術には機能材料としてのレアメタル、重金属は必須であるから、生物や環境に対する悪影響を防止するしくみの構築は今後の大きな課題となる。しかしながら、イタイイタイ病を生じせしめた過去を持つ日本の行政や企業が、率先して環境汚染物質の規制値を設定するなどは、自分の首を絞めるのでやらない。海外の規制を契機として日本の大手家電メーカーなどでは慌ててグリーン調達方式を採用し、部品や素材の仕入先に対して規制物質の非含有証明書の提出を求めるようになった。その後、2006年には水銀、カドミウム、六価クロム、PBB(ポリブロモビフェニル)、PBDE(ポリブロモジフェニルエーテル)の有害六物質を規制するRoHS指令が施行され、欧州への輸出に際して有害物質の非含有証明の添付が義務付けられた。因みにこれら物質の分析検査コストを最終製品のメーカーが背負うことはほとんどないので部品仕入先の負担になる。地球に優しい企業と宣伝する割に、環境に支払うコストもミニマム化の対象であることに変わりはない。科学がコストという壁を突破するためのツールとなる学際の世界とそうならない資本の世界の間には明確な一線が引かれている。
民主党政府が2030年代に原発稼働セロを可能にする方針を決定したと報道されたとたん、経済団体は一斉に猛反対の合唱を始めた。有力産業の業界団体は次のように表明している。「原子力がゼロとなれば電力料金が2倍以上。製造業全体の負担額は3兆円超え。電力消費型産業では業界存続が不可能。数万人の失業者が発生。原発ゼロの問題点を国民に説明すべし。事実に基づく冷静な議論と現実的で責任ある判断をせよ。方針は即時撤回すべき。」と。これは資本と企業の論理としては正当なものである。一方、本書の著者はこう警告する。「我が国は、こと環境問題に関して不幸な事件を、懲りずに繰り返すという恥ずべき特徴がある。<中略>原子力発電所の事故により放射性物質の惨禍が広い範囲を襲ったりと、世界史に記される事件が日本で続けて発生することは、重く受け止める必要があろう。」(111~112頁)企業も行政も決して軽く受け止めてはいないのだろうが、より重きをなす収益というものがあるだけのことである。(もっとも、それならば尖閣諸島の東京都買い取り騒ぎに際して対中貿易の急激な悪化への懸念をもっと積極的に表明してもよさそうなものだ。)原発が稼働していても業界の失業者はゼロではないし、原発推進を支持する国民とはそれで潤う国民ということ、電気料金の値上げは納入業者や下請けに価格協力要請という名の強制的な値下げを認めさせるだけで、現実的とは保守的ということの単なる都合のいい言い換えに過ぎない。本書で指摘されているように、公害を懲りずに繰り返えす精神構造は脈々と受け継がれている。ここで著者は「人類の叡智が試されるとき」と説くが、本書で公害がごく少数の人たちの献身的な努力によってしか暴かれなかった経緯に接した読者は、そこから「人類の叡智」が存在しなかった歴史を読み取るだろう。
また著者は「環境政策に対する我が国の消極的な姿勢が根深いためもあるだろう。産業立国日本は、産業を環境に優先させる姿勢をどうしても転換できないのである。」(258頁)と批判する。わかってはいるが転換できないのか、転換する気などそもそも無いのか判然としないが、足尾銅山鉱毒事件や水俣病などで使われたものと同じロジックが臆面もなく繰り返されることを恥ずべき特徴というならば、成熟した先進資本主義国日本の社会経済システムそのものに恥ずべき源泉を求めるしかないということになる。大量生産大量消費から、製品のライフサイクルを延ばし資源を大切に使う“豊かな生活”の方向に舵を切れないものだろうか。巨額の探鉱費を投入し世界中で大規模な開発を行うよりも、もったいないからチマチマ使うことが人類と重金属の未来を明るくすると考える。
理系文系といった区別なく誰が読んでも新たな発見のある、一冊で何度もおいしい高コストパフォーマンスの本である。最初から最後まで読んでじっくりと考えていただきたい。
中公新書「重金属のはなし」渡邉泉著、中央公論新社刊(2012年8月)税込924円
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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